(大銀杏と須賀神社の鳥居)
<菅浦の大銀杏>
琵琶湖の湖岸の地形は単調だが、北端部まで来ると、山の尾根は半島となって湖へ流れ落ち、入り江が入り組んで、美しい静かな景観をつくり出している。
深い入り江の奥にある大浦の里からつづらお崎へ向けて、つづらお半島の西岸を走った。道路は、つづらおの山が湖のそばまで迫っていて、湖岸を切り開いて付けられた道路だ。
コロナのせいもあるのだろう。前方にも後方にも、車の影はない。
やがて、左手の山側に「奥琵琶湖パークウェイ」の標識が立つ分岐。
湖北の西側の高島から、東側の長浜へ抜けるには、この山の中の道を行くしかない。カーブが多く、急峻な登り降りがあり、鹿、イノシシが出そうな道路だが、春は桜の名所だそうだ。「つづらお展望台」からの眺めは、春であろうと、秋であろうと、絶景である。
分岐に入らず、そのまま湖岸の道を進むと、まもなく道路は尽きる。道路の終点に「広場」のような空間が広がる。ここが菅浦の集落の玄関口である。
(須賀神社前の大銀杏)
「広場」も「玄関口」も、勝手にそう感じたということで、長浜市の観光案内の菅浦の説明にそう書いてあったわけではない。
大銀杏が印象的だ。大銀杏の向こうに、黒い屋根瓦の家々がのぞいている。
「広場」の右手は琵琶湖の湖畔で、湖畔に立つと、楕円の入り江に沿って菅浦の家並みが連なるさまが眺望できる。
外来者(観光客)用の小さなパーキング・スペースと公共のトイレがある。
ただし、ここにも、集落の中にも、売店とか、喫茶店とか、コンビニその他の店舗はない。コロナになる前は、民宿と割烹のお店があったようだが、今は開いていない。
正面の大銀杏と左手の大銀杏との間に、石の鳥居が見える。この神社が、菅浦の中心である須賀神社である。
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<夢幻能の世界のような>
銀杏の落ち葉が散り敷いて、ベンチが置かれている。近くに西の四足門も立つ。
大鳥居の前に立つと、目の前に山が迫力をもって迫ってきた。
(鳥居と参道)
このまま参道を進めば、鬱蒼とした山の中へ吸い込まれていくのではないかという気がする。現実と異界が交差する「夢幻能」のワキになったような気分だ。
しかし、そんなはずもなく、ゆっくりと参道を進んでいく。
前方に、二つ目の石の鳥居が見えた。
(二つ目の鳥居)
人の気配は全くなく、依然として「山の入口」へ向かって進む感じだ。
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<遥かなる菅浦の歴史>
振り返ると、一の鳥居のすぐ向こうは、湖が入り込んだ入り江である。入り江の向こうは、つづらおの突端の岬だ。
(振り返れば湖)
地形から言えば、菅浦の集落は大きな琵琶湖の最奥部の小さな入り江にへばり付くようにして存在する。
しかし、現代社会から見れば、世間から隔絶したようなローカルな集落だが、その歴史は遥かに古い。
つづらお崎の湖底からは縄文遺跡が出ている。菅浦の裏山の山腹からは弥生時代の集落跡が見つかった。
この参道の入口の脇に、立派な石造りの歌碑が建てられている。
「高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今かこぐらむ」(小弁 『万葉集』巻9)
「あど」は安曇川の「安曇」。
高島の安曇川の河口にある港を漕ぎ過ぎて、今は塩津、菅浦のあたりを漕いでいるのだろうか。
小弁という人がどんな人かはわからない。あるいは、地方官名かもしれない。歌の部立は「雑歌」。恋の歌ではない。
万葉の頃には、舟が湖上を行き来し、菅浦は琵琶湖の舟どまりの一つであった。
歴史研究者によると、菅浦は贄人(ニエビト)が定着した集落ではないかと言う (網野善彦「湖の民と惣の自治 ─ 近江国菅浦」)。
贄人とは、天皇に魚介などの特産物を貢納した民で、律令時代以前から存在したという。律令以前というと、飛鳥時代とか、さらに遡れば古墳時代になる。そういう民であったから、天皇(大王)に対する特別の親近感があったのかもしれない。
奈良時代の淳仁天皇は、平城京から琵琶湖岸の保良(ホラ)宮に出かけて滞在されたという。歴史家は保良宮の場所は湖南(大津市)ではないかと言うが、確たる文献証拠や発掘があったわけではない。菅浦の人たちは、ここ、即ち、須賀神社のある場所に保良宮はあったと伝えてきた。
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<須賀神社にお参りする>
参道の最後の石段の下に、手水舎があった。
(手水舎)
ここより先は履物を脱ぎ、裸足で石段を上がって、参拝することになっている。
(拝 殿)
長浜市の説明板があった。それによると、
拝殿の奥に東本殿と西殿の2社がある。東本殿の祭神は淳仁天皇。
そして、その背後には、淳仁天皇の墓と伝える舟形御陵が残っているそうだ。
しんとした、秋の日差しの差し込む神前で、参拝した。
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<今、菅浦の祭祀はどのように行われているか>
今、須賀神社の祭祀はどのように行われているのだろうか??
ネットを検索すると、長浜市地域おこし協力隊員として2015年から活動されているという植田淳平さんの記事が見つかった。かつて須賀神社の氏子総代を務めらておられた須原伸久氏へのインタビュー記事である。
以下、その内容から、ポイントだけ。
2013(平成25)年に、淳仁天皇の1250年祭が行われた。50年ごとに行われる祭祀で、菅浦にとって最大のイベントである。菅浦に生まれても、一生に一度かかわるだけ。うまくいけば2度目は体験者として、経験を伝える貴重な古老となる。
毎年の祭祀もある。4月の第1週の土、日に「須賀神社例祭」が取り行われる。(今年は4月2日、3日)。このお祭りには神輿を出す。昔は曜日に関係なく行われていたが、今は土曜、日曜に設定しないと人手が足りないそうだ。
「新嘗祭」は11月。午前2時に本殿に行き、供え物をして、作法に従って参拝する。
こういう祭祀が年4回ぐらいはあるが、それ以外にも、毎月1回、お参りして祝詞をあげる。
もちろん、日頃から社の鍵を管理したり、周辺の清浄を保つ必要もある。
そういう祭祀を誰が執り行うのだろう??
菅浦では、遠い昔から、地域を東西の2地区に分けている。この2地区が1年交代の当番で神事に当たってきた。
専任の神主さんはいない。当番の地区は、「神主」として9人を選び、氏子総代(複数)とともに神事を担う。
神主は世帯の順番制。氏子総代は1期3年で、村人全員による選挙で選ぶ。
神主の9人は3人1組で4か月ごとに交代し、4月の例祭のほか、上記のような数々の神事を執り行う。そのときは、ふだん菅浦を離れている人も帰省して役目を果たす。
いずこも同じだが、今、人口減と子供がいないことが最大の問題のようだ。神輿を担ぐ人の数も少なくなって、祭りの日に戻ってこられる人の数によって、3台のうち何台の神輿を出すか決めなければならない。
インタビューに応じた須原氏は、氏子総代のとき、後世に残すために祭事の写真集を作られたそうだ。
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「淳仁の みかどの伝え 今に尚 人々親しも 菅浦の里」
菅浦だけではない。何百年、或いは、千年以上も前から伝えられ、残され、世代を経て続けられてきたことが、近代社会の「進歩」の中で、特に戦後のスクラップ・アンド・ビルドの大変動によって、失われていった。変化の速度は幾何級数的に速くなっている。
便利になったこと、良くなったことも多いが、失われてはいけなかったモノやコトも多いように思う。
私たちの世代は、この激変を見てきた。
今は世の片隅で、ただ、ため息をつくばかりだ。
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上記のこととは関係ないのですが、先日、読売歌壇に掲載されていた歌の中から1首を紹介します。
すきとおる 水をあらわす 「露」という
うつくしい字を 血で染めないで
(上尾市/関根裕治さん)
【ことば(詩歌)】だけでは、命や平和や人間の尊厳は守れませんが、【ことば】もまた、人間の「真実」を伝えるものとして大切です。そういうことを教えてくれる1首だと思いました。
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