■ 国指定史跡 幡羅官衙遺跡群

埼玉県深谷市と熊谷市にまたがる国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」(はらかんがいせきぐん)を訪ねてみました。
深谷市の幡羅官衙遺跡と熊谷市の西別府祭祀遺跡(西別府官衙遺跡群も一部)を併せて「幡羅官衙遺跡群」としています。
正式に国指定史跡となる前から何度か他の史跡見学の折に付近を歩いてはいましたが・・・

深谷市東方地内の新設中の道路から正倉院跡方向を見ています。熊谷衛生センターの建物方向に向かって正倉院はあったようです。

新設中の道路脇に設置されている「古代幡羅郡役所跡 幡羅遺跡」の説明板

上記説明板の地図部分 発掘されたところは埋め戻されていますので遺構によって場所を特定することができません。地図を基
に大まかな場所を特定して写真を撮っていますので正確ではありません。

説明文

中央の森が湯殿神社ある場所で、この一帯が「西別府祭祀遺跡」(熊谷市分)です
手前の畑が実務官衙域の一部分かと思われますが、果たして・・・

湯殿神社の社号標石柱
左側にある道路沿いに湯殿神社の表参道があります

湯殿神社の表参道

参道入口に設置されている「西別府官衙遺跡群」の説明板
文字が細かくて写真では判読できませんのでの一部(国指定史跡の指定区域となった西別府祭祀遺)を転記しておきます。
西別府祭祀遺(熊谷市指定文化財史跡)
湯殿神社が所在する台地の縁辺部に位置し、7世紀後半から11世紀前半に至るまで連綿と行われた水辺の祭祀(湧泉祭祀)の
遺跡で、湯殿神社裏の湧水地点をちゅうしんにして、7世紀後半の石製模造品と、7世紀末以降の土師器・須恵器などが多数出土
しています。
水の恵みを願う7世紀後半の石製模造品を用いた祭祀が、7世紀末から8世紀初頭にかけて群家が成立したことにより群家に所
属する公の祭祀と変遷し、9世紀後半には願文や吉祥文字を墨書した土器などを用いた祭祀へと変化していったことが推測されま
す。

上記説明板の地図部分

湯殿神社社殿

湯殿神社社殿東脇にある西別府祭祀遺跡入口

昭和38年の西別府祭祀遺跡の調査地点を示す標柱

湯殿神社社殿裏の水路(堀) 西方から東方に

湯殿神社社殿裏の水路(堀) 東方から西方に

湯殿山の水神様

御手洗池

西別府廃寺(古代寺院跡)は、蔵のあたりからその先一帯であったと思われます。中央に少しだけ見える茶色の建物が特別養護
老人ホーム永寿苑です。

実務官衙域(深谷市分)は、この前方一帯辺りと思われます。

国の文化財審議会が「幡羅官衙遺跡群」を国指定史跡するよう文部大臣に答申したことを報じる新聞記事
官報に登載されて初めて国指定史跡となりますが、答申されたということは国指定史跡に決定も同然です

平成30年2月13日付けの官報に国の史跡に指定したとの告示がなされ、正式に国指定史跡に登録されました
※「幡羅官衙遺跡群」に関する部分のみを抜粋
これで埼玉県で20件目の国指定史跡となりましたが、深谷市にとっては初めての国指定史跡です(熊谷市には既に
国指定史跡「宮塚古墳」があります)

「幡羅官衙遺跡群」を構成する幡羅遺跡発見の立役者である知久裕昭さん(深谷市職員)が、これまでの研究成果を
まとめた「武蔵国幡羅郡から見た古代史」(まつやま書房)を本年1月下旬に出版しましたので、発売とほぼ同時に
購入しました。ただし、まだ読んでいません(恥)
散策日:平成30年(2018)3月15日(木)

埼玉県深谷市と熊谷市にまたがる国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」(はらかんがいせきぐん)を訪ねてみました。
深谷市の幡羅官衙遺跡と熊谷市の西別府祭祀遺跡(西別府官衙遺跡群も一部)を併せて「幡羅官衙遺跡群」としています。
正式に国指定史跡となる前から何度か他の史跡見学の折に付近を歩いてはいましたが・・・

深谷市東方地内の新設中の道路から正倉院跡方向を見ています。熊谷衛生センターの建物方向に向かって正倉院はあったようです。

新設中の道路脇に設置されている「古代幡羅郡役所跡 幡羅遺跡」の説明板

上記説明板の地図部分 発掘されたところは埋め戻されていますので遺構によって場所を特定することができません。地図を基
に大まかな場所を特定して写真を撮っていますので正確ではありません。

説明文

中央の森が湯殿神社ある場所で、この一帯が「西別府祭祀遺跡」(熊谷市分)です
手前の畑が実務官衙域の一部分かと思われますが、果たして・・・

湯殿神社の社号標石柱
左側にある道路沿いに湯殿神社の表参道があります

湯殿神社の表参道

参道入口に設置されている「西別府官衙遺跡群」の説明板
文字が細かくて写真では判読できませんのでの一部(国指定史跡の指定区域となった西別府祭祀遺)を転記しておきます。
西別府祭祀遺(熊谷市指定文化財史跡)
湯殿神社が所在する台地の縁辺部に位置し、7世紀後半から11世紀前半に至るまで連綿と行われた水辺の祭祀(湧泉祭祀)の
遺跡で、湯殿神社裏の湧水地点をちゅうしんにして、7世紀後半の石製模造品と、7世紀末以降の土師器・須恵器などが多数出土
しています。
水の恵みを願う7世紀後半の石製模造品を用いた祭祀が、7世紀末から8世紀初頭にかけて群家が成立したことにより群家に所
属する公の祭祀と変遷し、9世紀後半には願文や吉祥文字を墨書した土器などを用いた祭祀へと変化していったことが推測されま
す。

上記説明板の地図部分

湯殿神社社殿

湯殿神社社殿東脇にある西別府祭祀遺跡入口

昭和38年の西別府祭祀遺跡の調査地点を示す標柱

湯殿神社社殿裏の水路(堀) 西方から東方に

湯殿神社社殿裏の水路(堀) 東方から西方に

湯殿山の水神様

御手洗池

西別府廃寺(古代寺院跡)は、蔵のあたりからその先一帯であったと思われます。中央に少しだけ見える茶色の建物が特別養護
老人ホーム永寿苑です。

実務官衙域(深谷市分)は、この前方一帯辺りと思われます。

国の文化財審議会が「幡羅官衙遺跡群」を国指定史跡するよう文部大臣に答申したことを報じる新聞記事
官報に登載されて初めて国指定史跡となりますが、答申されたということは国指定史跡に決定も同然です

平成30年2月13日付けの官報に国の史跡に指定したとの告示がなされ、正式に国指定史跡に登録されました
※「幡羅官衙遺跡群」に関する部分のみを抜粋
これで埼玉県で20件目の国指定史跡となりましたが、深谷市にとっては初めての国指定史跡です(熊谷市には既に
国指定史跡「宮塚古墳」があります)

「幡羅官衙遺跡群」を構成する幡羅遺跡発見の立役者である知久裕昭さん(深谷市職員)が、これまでの研究成果を
まとめた「武蔵国幡羅郡から見た古代史」(まつやま書房)を本年1月下旬に出版しましたので、発売とほぼ同時に
購入しました。ただし、まだ読んでいません(恥)
散策日:平成30年(2018)3月15日(木)