四季・めぐりめぐりて

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「国指定史跡 鎌倉街道上道」を歩く

2022年11月28日 | 鎌倉街道

                                      [合成してあります]
埼玉県毛呂山町の「鎌倉街道上道」(かまくらかいどうかみつみち)が、国の史跡として指定されたことが、
令和4年11月10日付けの官報に告示されました。
これは、令和4年6月17日、国の文化審議会が入間郡毛呂山町地内に所在する「鎌倉街道上道」を国の史跡
に指定するよう文部科学大臣に答申したことにより、今回の国指定史跡となったわけですが、埼玉県では
23件目(特別史跡を含む)、毛呂山町では初の国指定史跡となります。また、街道を中心とした国の史跡
では県内初でもあります。

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毛呂山町の史跡鎌倉街道上道は、交通遺跡、集落跡、寺院跡、塚の異なる種類の遺跡で構成されています。
街道跡は北から鎌倉街道B遺跡・同C遺跡・同A遺跡・仏坂(ほとけざか)遺跡の総延長1,305.9m、B遺跡を挟
んで両側に広がる堂山下(どうやました)遺跡、その西側の崇徳寺跡(すうとくじあと)と想定されている箇所、
堂山下遺跡と崇徳寺跡の南側に広がる川角
(かわかど)古墳群の一部からなります。
                                  《毛呂山町HPより引用》
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また、この鎌倉街道上道は、小川町~寄居町に遺る鎌倉街道上道とともに文化庁選定「歴史の道百選」に
選定されています。
  文化庁選定「歴史の道百選」〔平成8年(1996)選定〕
№24.
 名 称:鎌倉街道-上道
(かまくらかいどう-かみつみち)
 選定箇所:伊勢根(埼玉県小川町)~赤浜(寄居町)、大林坊~川角(毛呂山町)
 概 要:鎌倉街道上道は、鎌倉から埼玉県西部の台地・丘陵地帯を抜け、北部の児玉郡から群馬県藤岡
   市方面に抜ける。街道の周辺は、中世城館や寺社、宿などが形成され、幾多の合戦の舞台にもなり、
   文化・軍事・物流の幹線ルートとして重要な役割を果たした。埼玉県内には、台地から低地へ向か
   う転換点に、地面を逆台形状に掘削して道を造りだす掘割遺構が多数確認されている。なかでも、
   小川町の大字伊勢根、寄居町の大字赤浜、毛呂山町の大字市場字大林坊には掘割遺構が顕著に残る。

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この毛呂山町の「鎌倉街道上道」は数年前に既に歩いていましたが、国指定史跡への話を知り、正式に指
定されたら【国指定史跡としての鎌倉街道上道】をもう一度歩いてみようと思っていたものですから今回
の散策となりました。




毛呂山町歴史民俗資料館で開催中の  《会期:令和4年10月15日(土)~令和5年5月7日(日)
 令和4年度特別展 史跡鎌倉街道上道~道・宿・寺・塚~
をまず見学(鎌倉街道散策前でしたのでざっと見ただけでした。機会あれば今度はゆっくりと)


歴史民俗資料館敷地を出て左折・・・


少し歩くと「鎌倉街道」の標柱の前に
標柱の前を南北に鎌倉街道上道が走っています ここがB遺跡と呼ばれる所です
まずは北方向に進んでみます


掘割状の鎌倉街道上道です
元は左側の林の高さであったものを掘って道を作っています 故に掘割!
鎌倉街道は村境を走っていることがよくあり、道の左側は元・川角村(現在は毛呂山町大字川角)
右側は元・大類村(現在は大字大類)・・・道を境にして別々の村が出来たのかもしれませんが


すでに埋め戻されていますが、街道の一部に石敷が発見された場所が写真の右側あたりです


標柱の前が鎌倉街道上道  背後は川角古墳群(一部)


上の写真の標柱のすぐ背後の塚の上にある「諏訪の森の庚申塔」延宝4年(1676)【文字塔+三猿】


更に北方に進みます


「鎌倉街道遺跡」標柱
側面に、
『ここの前を南北に通るのが鎌倉街道上道の旧道である。うしろの塚は昔大薬寺があった所。この標識に向って左手に
進めば、苦林と川角との大字境に沿い、越辺川を渡り、鳩山町に入り、笛吹峠に出る。この辺の台地を削り込んだ跡が
旧道西側に残っているが、東側は崩されてしまって残っていない。この街道が作られた当時は越辺川の水は、今より北
の今宿のすぐ下を流れていたらしく、向こう岸は急な崖になっている。ごみ焼却場は中州』

と記されています。


左側:県立毛呂山特別支援学校  右側:大類グラウンド(堂山下遺跡)


突き進むと道路に出ます。道路の向こう側に「越辺川」(おっぺがわ)が流れています


「越辺川」
今は流路が変っていますが、このいずれかの場所に渡河する河道あったようです


来た道に戻ります


銀杏が色づいています ゆっくり写真を撮ってみたい気もしますが目的が違いますので


「大類グラウンド」 = 「堂山下遺跡」です
鎌倉街道と越辺川がぶつかる場所にあり、街道の両側に鎌倉時代から室町時代にかけての集落(苦
林宿)が形成されていた


「鎌倉街道遺跡」標柱のところまで戻ってきました


「崇徳寺跡」を通って「延慶の板碑」に向います


左側は川角古墳群


「崇徳寺跡」


道路を横切って「延慶の板碑」に  越辺川に行くときに横切った道路と同じ道路です


「延慶の板碑」案内標柱


両脇に並んでいる大きな石は何の石でしょうか?


「延慶の板碑」に着きました


「延慶の板碑」説明板


「延慶の板碑」
元は崇徳寺跡に建っていたようです


再び崇徳寺跡前を通って掘割遺稿の鎌倉街道上道に戻ってきました
今度は南下します


鎌倉街道上道歩きを開始した最初の場所です
舗装された道路の下1mのところに古道の表面と側溝が埋もれているとのことです
このまま舗装道を南下します


県道川越坂戸毛呂山線を横切って


鎌倉街道掘割遺構(A遺構)に向います


狭い道が続きます


この辺りが「鎌倉街道C遺構」のようです
道路左側が元・大類村(原毛呂山町大字大類) 右側が元・市場村(現・毛呂山町大字市場)


仮囲い鋼板が建てられていますが建物でもできるのでしょうか?
以前は景観がよかったのに・・・


右側に社会福祉施設の建物が何棟も建っていますが、この辺りの地名が「大字市場字鎌倉道」
このすぐ先が鎌倉街道掘割遺構(A遺構)


鎌倉街道掘割遺構(A遺構)
歩いてきた道の延長上にあり、現代の道は右にカーブしています


「鎌倉街道遺跡」標柱
側面に、
『ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越え
て、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残
して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側
は排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。』

と記してあります。


調べたところによればここの堀割状遺構は 長さ約200m 幅6~7m 深さ0.5~2m とあります
この堀割状遺構も村境にあり、左側(木のある方)が元・西大久保村(現・毛呂山町大字西大久保)
右側(現在の道路がある方)が元・市場村(現・毛呂山町大字市場)


奥正面に見える木のところで堀割状遺構は消滅しています


掘割遺構の中から道路を見ています 鎌倉街道上道は真っ直ぐに延びていたのがよくわかります

※ここから再び歴史民俗資料館まで歩いて戻りました、仏坂遺跡までは足が伸びませんでしたので
折を見て単体で訪ねてみようかと思います(どんな状況かも未把握)


鎌倉街道上道を国指定史跡とする旨の告示の【官報】
地域の中に 大字市場字鎌倉道の地名があります

散策日:令和4年(2022)11月25日(金)

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