四季・めぐりめぐりて

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荘小太郎頼家供養塔(埼玉県本庄市)

2020年02月25日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:荘小太郎頼家供養塔(しょうのこたろうよりいえくようとう)
別 名:-
指 定:県指定旧跡(名称:荘小太郎頼家供養塔 昭和38年(1963)8月27日指定)
所在地:埼玉県本庄市栗崎155 宥勝寺 (旧本庄市)

武蔵七党の一つ児玉党の本宗家6代目を継いだ武将・荘小太郎頼家は源平合戦のひとつである一の谷の
合戦で戦死しましたが、その供養塔が宥勝寺にありますので訪ねてみました。

 ※ 荘  庄




宥勝寺 本堂
本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下の下(写真右端)をくぐって行くと墓地に通じます。




本堂前に設置されている「宥勝寺」説明板

宥勝寺は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、本尊に不動明王を祀る。
寺伝によると、武蔵七党の一党である児玉党の一族の荘小太郎頼家が、源平合戦で有名な一の谷の
合戦において戦死したため、その菩提を弔うために夫人により建仁年間(1201-1204)に建立された
のが開山と伝えられる。境内北側の墓地内に、小太郎頼家の墓と伝えられる古びた五輪塔が現存し、
県の指定旧跡になっている。
天文6年(1537)、北条氏と上杉氏の浅見山合戦の戦火のため堂塔を焼失したが、その後の天文23年
に再建され、当寺宥勝寺は10数ヵ寺の末寺を保有していたと伝えられる。なお、慶安元年(1648)に
三代将軍家光より寺領10石の御朱印を与えられた。
また、当寺の南方には、以前西光寺と呼ばれる大がらんが存在した。これは本庄市では数少ない中世
寺院跡として埼玉県選定重要遺跡の一つとなっており、現在、西光寺の名は宥勝寺の山号である西光
山として、その名ごりを伝えている。





ほんじょうかるた石碑
 し  荘小太郎 静かにねむる 宥勝寺




荘小太郎頼家の供養塔に向かう途中にある説明板
本堂前に設置の説明板同様この説明板でも 小太郎頼家の「墓」となっていますが、現在の旧跡指定
名称は「供養塔」です。
あくまでも推測ですが、昭和38年に埼玉県の旧跡指定を受けたときの名称は「小太郎頼家の墓」であ
ったのかもしれません。その後の平成8年3月27日に名称変更されていますので、その時、「供養塔」
と変更になったのか思われます。

荘小太郎頼家の生年は不詳ですが、治承8年の一の谷の合戦で戦死しました。この時、小太郎、妻とも
若かったようで、嫡子が誕生してなかったことから、児玉党本宗家の血筋は小太郎の死によって途絶
えたました。




五輪塔の『荘小太郎頼家供養塔』




『荘小太郎頼家供養塔』説明板  簡単な説明のみです




一族の石塔

参詣日:令和元年(2019)12月6日(金)