名 称:平重衡の首塚(たいらのしげひらのくびづか)
別 名:-
指 定:市指定史跡
所在地:埼玉県本庄市児玉町蛭川(旧児玉郡児玉町)
平重衡は、平安時代末期の平家の武将・公卿で、平清盛の五男。平氏の大将の一人として各地で戦い、
治承・寿永の乱においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍しましたが、一ノ谷の戦いで捕
虜になり、鎌倉へ護送されました。平氏滅亡後、木津川畔で斬首されました(享年29)。その遺骸と
首は妻が貰い受けて荼毘に付し、その墓は京都市内にあると言います。他にも平重衡の墓と呼ばれる
ものや供養塔があるようです。ここ蛭川郷にある首塚は(伝)かもしれませんが、敵方であった源氏
軍の武将の所縁の地で大事にされています。
国道462号線際に建つ『本庄市指定文化財 平重衡の首塚』標柱
側面に、
この地は、一の谷合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち 帰り供養した首塚であると伝えられている。 |
と、あります。
供養塔の先に見える堂宇が『釈迦堂』
五輪塔の供養塔
「供養塔」の陰刻の下に 「為本三位中将 平重衡卿」と陰刻されています。
重衡の官位が【左近衛権中将、蔵人頭、正三位】であったことから【三位中将】と称されていた。
この供養塔は昭和60年(1985)に、児玉町史蹟研究会・釈迦堂墓地総代一同・児玉町蛭川地区有志
によって建立されたもの。
供養塔の背後に石祠がありますが。首塚と関係あるものなのでしょうか?
首塚のある釈迦堂墓地の西隣りに鎮座する『駒形神社』
『駒形神社 御由緒』
□ 御縁起(歴史)
当地は、児玉党蛭川氏の本貫地とされ「児玉党系図」では摂津一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家
の子・定重が蛭河太郎を称している。当地の中央やや北東寄りの小名東廓で、蛭川氏の館の周囲を巡
っていたと伝わる堀跡が確認されている。応永25年(1418)の「足利持氏御判御教書」には「児玉郡
蛭河郷」と見える。
上記は、駒形神社御由緒の冒頭部分ですが、『平家物語』では、一ノ谷合戦で平家は源氏軍に大敗を
喫し、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは梶原景季と庄高家あるいは梶原景時と
庄家長とあるようですから、平重衡の首を持ち帰り供養したという伝説が生まれたのかもしれません。
散策日:令和元年(2019)12月5日(木)