
東松山市正代851に所在する青蓮寺周辺を訪ねてきました。この地に「小代氏館」があった場所と言われています。
小代(しょうだい)氏については、青蓮寺境内にある小代重俊供養塔
「埼玉県指定史跡 弘安4年銘板石塔婆」
の説明板の中から一部を下記に引用させていただきます。
小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。
子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原庄(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。
当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため
重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。
小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。
平成16年3月 埼玉県教育委員会 東松山市教育委員会
小代氏の名はそのまま大字「正代」として、この地に今も残されています。

小代氏館は、都幾川と越辺川との間に張り出した台地の東端という地の利を得た場所に築かれていたようです。
この青蓮寺のある所が、南東端付近とされるようです。

青蓮寺境内と本堂

小代重俊氏供養塔(弘安4年銘板石塔婆)

同 上

「埼玉県指定史跡 弘安4年銘板石塔婆」の説明板
この中の一部を冒頭で使わせていただきました

御霊神社
小代氏館跡(青蓮寺)の南隣にあります。源義朝の長子悪源太源義平は、久寿2年(1155)叔父の帯刀先生源義賢(駒王丸・木曽義仲の父)を
大蔵館(嵐山町)に攻め滅ぼした時に、この地に居館を構えて居住していた。
その後家臣の小代遠弘が居住し、悪源太義平(源義平)を御霊と祀り崇敬してきたとされる。
(悪源太義平は「平治の乱」で捕らえられて、平治元年(1160)に六条河原で処刑された)

御霊神社の社号額

社 殿
散策日:2017年(平成29年)2月17日(金)