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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

日本100名城スタンプ 41駿府城(静岡県)

2012年02月18日 | 城館雑記


静岡市の『駿府城(跡)』を攻めたのは昨年の11月14日の月曜日でした。 復元された東御門や二の丸巽櫓を見て歩き、攻城の証として
100名城スタンプを押印してこようとしたのですが、スタンプ設置場所である東御門券売所は閉まっておりました。
あとで分かったことなのですが、月曜日は東御門・巽櫓の内部公開の休みだったようです。予めこのことを知っていたとしても自身の都合上、
他の曜日にというわけには行きませんでしたが。こうした場合、窓口にスタンプを押した用紙が置いている100名城がありますが、
残念なことにここにはありませんでした。折角、遠路を攻城に来てスタンプを押せずに帰るのは忍びないので、どこか他の場所にスタンプは
置いてないだろうかと駿府公園を管理しているであろうと思われた静岡市役所に問い合わせをしてみました。
そうしたところ、同市役所の某部署にあるとのことでしたので早速市役所に赴き100名城スタンプ帳に押印させていただきました。

ところが、つい先日「日本100名城スタンプ帳」を開いてみたところ、漸くの思いで押印してきた駿府城のスタンプはインクが広がってしまい
印影がはっきりしなくなっていました。何故そうなってしまったかの理由は判明するのですが、それについては触れずにおきましょう。
駿府城のスタンプであることはわかるにはわかるのですが、やはりはっきりとしたものを残したいと思うのが人情(私だけかな)です。
といってスタンプだけのために再度駿府城まで赴く余裕はありません。そこで静岡市役所の担当部署にスタンプの押印を依頼(お願い)しようと、
返信用封筒、押印用の用紙を同封して文書にてお願いをしました。 すると早速私のわがままに応えてくれ、本日、名城スタンプが押印された
用紙が返送されてきましたが、丁寧に押印された上、汚れないようにとの処置も施されてありました。それが上の写真に挿入したスタンプの印影です。
この親切な対応に、即日、お礼の葉書を投函させていただきました。

静岡市役所職員の方、本当に有難うございました。そして、機会あればまた駿府城を攻城したいと思っております。

投稿日:2012年(平成24年)2月18日(土)            

静岡戦國ガイドブック

2012年02月13日 | 城館雑記


貰って来たまま整理せずにあったパンフレット類を整理・処分しようとパラパラと見てみたところ、中に「静岡戦國ガイドブック」なる小冊子があった。
昨年秋に静岡県の掛川城を訪ねた時に頂いてきたものだが、他のパンフレットなどと一緒にしたままその存在さえ忘れてしまっていたようです。
これはいいと思い頂いてきたにもかかわらずこの有様ですから・・・

掲載内容は、

 戦国舞台静岡
 静岡県城総覧
 戦国舞台静岡おすすめの城
 静岡県戦国催し案内

等です。静岡県下の城を訪ねるに役立ちそうで、この小冊子は、
 
ホームページ「Shizuoka城と戦國浪漫」のペーパー版と言えます。
更に、この「静岡戦國ガイドブック」をデジタルデータで見ることも出来ますので興味ある方はどうぞ。 

投稿日:2012年(平成24年)2月 13日(月)            

空撮で甦る現存天守12城

2011年12月04日 | 城館雑記


別冊 歴史REAL「空撮で甦る現存天守12城」

発行 洋泉社 定価 1890円

過日、この本を目にしたとき購入を迷ったのですが、弱い意志に負けて、本日、買ってしまいました。
12城のうち4城(松本城・彦根城・犬山城・高知城)しか訪城していません。丸亀城は列車の中からちょっとだけ見ましたが・・・
12城制覇は無理でしょうが、ひとつでも多く訪城できればと。  
                          
                                              

車窓からの「掛川城」(静岡県掛川市)

2011年05月08日 | 城館雑記


掛川城は、山内一豊が土佐24万石を与えられ高知城を築城する以前に居城していた城である。小田原の役で豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封し、
家康の旧領の掛川・浜松・岡崎・駿府などの東海道沿いの城には豊臣家の直臣を配置して家康を牽制した。この掛川城には近江長浜城から
山内一豊が封じられた。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、一豊は家康率いる東軍に味方し、家康に掛川城を宿所として明け渡した。この功により一豊は掛川5万石から
土佐一国24万石の太守となり移封した。そんな山内一豊の大出世の元となった掛川城を新幹線の車窓から見ることが出来ると某雑誌に書かれていた。

今回、東海・近畿の名城4城を巡ってきたが、車窓からこの掛川城を是非とも見たいと思っていた。新大阪方面に向かって右方向に見える
掛川城を見右方向に見える掛川城を見るためには右側の座席を確保しなければならないが、幸いにして一番右の席の指定席を確保できた。
しかし、車窓から見えるといっても掛川駅に入る前のほんの僅かな時間でしかない。静岡駅を過ぎた辺りからカメラを出して用意をし、
いつでもシャッターを押せるよう準備をして外を眺め続けていた。「見えた!」。視界に入ってきた掛川城にレンズを向けてシャッターを
押すも何せ凄いスピードの新幹線だけあって、写ったのは線路端の建物の姿。必死になってシャッターを押し続けるも肝心の掛川城は写って
いない。そうしている間に城の姿は見えなくなってしまった。そんな中、どうにか城の姿を捉えられたのがこの2枚の写真である。

そんな掛川城、車窓から見るだけでなく実際に登城してみたいが果たしてその機会をつくることができるかどうか・・・

撮影日:2011(平成23年)4月30日(土)       

桜咲く熊本城

2011年04月07日 | 城館雑記


平成13年4月1日現在   




平成23年3月現在

上の平成13年4月のものは私がこの年の10月に行った時にいただいたもの。下は娘が貰ってきた最新版の熊本城の絵地図です。
私が行った際も復元工事をやっていましたが、10年の間に幾つもの建物が復元されたようです。ぱっとふたつの地図を見比べただけでも
これだけ復元されています(赤丸で囲んだところ。ただし、左下のひとつは飲食物販施設で復元建造物ではない)
この先も復元工事を進めていくようですから、往時の熊本城にまた近づいていくのでしょう。
熊本城を再び訪れてみたいと思うのですが先立つもの等クリヤーしなければならない問題が色々ありますので・・・ 






そんな熊本城ですが、昨6日午後8時からテレビ東京で「いい旅夢気分 桜SP 25周年記念”桜満開”・・・」という番組の中で、
女優かたせ梨乃・秋本奈緒美の二人が桜満開の熊本城を旅していました。(帰宅時間の関係で途中からちょっと見ただけですが) 

投稿日:2011年(平成23年)4月7日(水)          

鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城

2011年04月07日 | 城館雑記


10日ほど前にK市にある某書店で見つけたのですが、私には高価すぎるため購入を躊躇っていた城の本(雑誌)『鳥瞰イラストでよみがえる日本の名城』
昨日そのK市の書店に行き購入してきました。本文ページ数431のこの本は、城の写真もあるにはあるのですが、名城を再現した鳥瞰イラストや城絵図が
多数ありますので、写真だけの城の本とはまた別の楽しみがあります。     

購入日:2011年(平成23年)4月6日(火)          

今日の熊本城

2011年04月01日 | 城館雑記


今日(4月1日)の熊本城です。
熊本ではもう桜が咲いているんですね。
この写真、熊本市に疎開中(?)の娘が先ほど携帯電話で送ってくれました。 

投稿日: 2011年(平成23年)4月1日(月)        

水戸城

2011年03月23日 | 城館雑記


鎌倉時代初頭、源頼朝の家臣・馬場資幹が館を構えたのが起源とされ、1426(応永33)年に江戸通房が奪った後、その本拠として拡張した平山城。
那珂川と千波湖に挟まれた天然の要害である台地に、土塁と堀のみで築かれた。1590(天正18)年、江戸重通に勝利した佐竹義宣がその翌年に入城
すると、近世城郭として城下町も含めて整備。関ヶ原の戦い後、義宣が出羽国秋田(秋田県秋田市)に本拠移転を命ぜられたため、徳川家康の五男・信吉、
十男・頼宣が続けて城主となり、水戸徳川家初代となった十一男・頼房が城主となると徳川家一門の居城としてさらに拡張されたが、石垣も天守も持たな
いまま幕末まで使用された。廃城後は、残されていた三階櫓も戦災で焼失。現在は城門と堀と土塁、三の丸に設けられた藩校・弘道館が残されている。
   (「戦国武将データファイル43 名城コレクション 水戸城 」より引用転記)

本日、毎週発刊されている「戦国武将データファイル」43号を購入してきたが、今号の名城コレクションは「水戸城」であった。ここにも書かれている
弘道館は今月11日に発生した大地震の影響を受けて一部損壊したとの報道である。被害はこの弘道館に限らず、鉄道、市街地受けたようである。
実は地震発生の翌日に当たる3月12日(土)に、私は水戸市を訪ねる予定でいた。某旅行会社企画の貸切列車を利用して水戸市に行き、
偕楽園梅まつりや水戸城跡等を見て歩く計画をたて、この企画に申し込みをし代金振込み済みであった。
ところが前日に地震発生となり、この企画は中止となった。このときはまだ被害の大きさが分からず、正直な話、水戸行きが出来ないことを残念に思ったのである。
しかし、日を経過するに伴い、水戸市を含む茨城県下も大きな被害を受けたことが分かり、地震がもう1日後に起こっていたら私は水戸市にいたわけであり、
考えただけでもぞっとしてきた。
今回の災害から復興までには長い道程があるかもしれないが、水戸市を訪れることが許される時がきたら再度水戸散策を計画したいと考えている・・・・   
    
投稿日:2011年(平成23年)3月23日(水)           

天神山城 その歴史(埼玉県長瀞町)

2011年02月27日 | 城館雑記


荒川を見下ろす小高い山の上に建っていた「天神山城」は、天文年間(1540年ころ)、この地方の土豪で、山内上杉氏の重臣であった
藤田重利が築城したと伝えられています。関東地方に勢力を拡大してきた後北條氏の天文15年(1546年の河越夜戦以降に
北武蔵に勢力を伸ばしてきた北條氏康に重利は天文18年(1549)年7月従属しました。
氏康は、三男の乙千代(北條氏邦)を重利の養子に入れ秩父地方の統一を図ることにしたとのことです。乙千代(北條氏邦)は、
この天神山城に入り拠点としていたが、氏邦が鉢形城に移ってからは、鉢形城の支城的な存在となったようです。
そんな天神山城も、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に鉢形城と共に落城しました。

それから380年の時を過ぎた昭和45年(1970年)、長瀞町の山に白壁の城が建ちました。この城は、国道140号線からよく見えました。
私はこの城の名を「白鳥城」と聞いた覚えがあります。しかし、この頃の私は、城郭・城跡に特段の感心を持っていたわけではありませんでしたから、
この城は観光目的で建てられたものであることは理解できたものの、かつてそこに天神山城なる戦国時代の城があったところなどとは知る由もありませんでした。
そんな城もいつしか目に入らなくなりましたが、ただ漠然と、訪れる客もいなくなり取り壊したのかと思う程度で気に留めることもありませんでした。

ところが、ここ最近になって城跡に興味をもつようになり、いくつかの城跡を訪ね歩いたり歴史を調べたりしているうちに、天神山城(別名:白鳥城)
のことを知ったわけです。そして、実際の天神山城には、あのような天守(二層櫓)はなかったようですし、この擬似天守を建てるに際し、遺構がだいぶ
壊されたということも知りました。気にも留めることがなかった擬似天守は廃墟となって残っているとのことでしたので、確かこのあたりだったと探して
みたところ、木々の間にかすかに天守を捉えることができましたので撮ったのがこの写真なのです。本当なら、登城してからその状況をと思ったのですが、
まだ、登城の予定が起ちませんので取りあえずは、遠景での天神山城をと・・・ 

投稿日:2011年(平成23年)2月27日(日)