四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

砂久保陣場(埼玉県川越市)

2018年09月28日 | 古戦場・陣所


名 称:砂久保陣場(砂窪陣場)
別 名:―
形 態:陣所
時 期:①天文14年(1545)  ②天文15年(1546)
築城主:①上杉憲政       ②北条氏康
城 主:①上杉憲政       ②北条氏康
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和33年〔1958〕3月6日)
現 状:砂久保稲荷神社
所在地:埼玉県川越市砂久保

戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに張られた陣所と
される砂久保陣場跡を訪ねてみました。砂久保稲荷神社一帯がその場所とされておりますが、遺構はありません。
なお、上記概要で①、②とした部分は説が二つあるためです。




写真にある大きな説明板がいつ設置されたのかはわかりません。以前は高札型の説明板が設置されていたようです。残念なが
ら写真は持ち合わせておりませんが、内容は次の通りであったようです。

【市指定史跡  砂久保陣場跡】
天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北
条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月
20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、
正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
     平成元年2月    川越市教育委員会

上記説明文では、上杉憲政が砂久保に陣をとりとあり上杉方の川越野戦における陣場としております。また、「埼玉の館城跡」
(埼玉県教育委員会編)や、諸先輩方のHPやブログ等でも多くの方が同様の記述をしており、砂久保陣場は上杉憲政の陣場
との認識となっていました。




次に、上掲写真説明板の砂久保陣場跡部分の内容を全文転記しておきます。

【砂久保陣場跡(市指定・史跡)】
 砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに
陣が張られた場所です。
 関東の戦国時代は、享徳3年(1544)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、
古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返して
いきます。明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵
に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
 河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文6年(1537)、朝興が没し朝定が跡を継ぐと、父の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条
氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文10年(1541)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越
城奪還を企てますが失敗します。
 単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康が駿河今川氏との対戦のために駿河国境に
出陣中の隙を衝いて、天文14年(1545)9月26日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱
成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方
足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、10月27日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先
し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、11月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越
します。
 天文15年(1546)に入ると氏康は、足利晴氏に城兵3,000人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし、3月初めに扇谷上
杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に
着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、4月20日、上杉憲政が氏康陣所の砂
窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面から北条方は勝
利します。この結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅
びます。
 一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵3千と援軍8千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて
奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。いず
れにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語る上で貴重な合戦で
あったことはまちがいありません。
      昭和33年3月6日指定                         川越市教育委員会

この説明文では川越野戦に至る前段まで詳しく説明がなされています。しかし、以前の説明文とは逆に北条氏康が砂窪(砂久保)
に着陣し、これを上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかるも、氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃したとあります。
つまり、砂久保陣場は上杉憲政の陣所ということから、北条氏康の陣所へと見解が逆になっていますが、それなりの理由となる
文書等が発見になったのでしょうか?

なお、この砂久保陣場から約8km離れた所にある「柏原城跡〈城山砦跡〉」(狭山市)の現地説明板では、
「『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際にここに陣
を敷いたとされており」
とあります。
以前の説明文の見解ですと、上杉憲政は柏原城と砂久保陣場の2か所に陣所を構えたことになりますので、これには無理があり、
砂久保陣場は氏康の陣所と考えた方がよいのかもしれません(あくまで素人の見解ですが、正直なところは分りません)

しかしながら、ここ砂久保陣場跡の説明板には、新旧ともに「柏原城跡〈城山砦跡〉」に関する文言はひとつもありません。




上掲説明板の主な城・要害図




砂久保稲荷神社社殿




奥の建物は社務所兼砂久保集会場




《参考》 川越市志多町に所在する河越夜戦の舞台となった東明寺  ※平成22年(2010)5月16日撮影 以下同じ




門前に設置の「河越夜戦跡」説明板




東明寺境内に建立されている「河越夜戦跡」石碑

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)

三ツ木原古戦場(埼玉県狭山市)

2018年09月25日 | 古戦場・陣所


名 称:三ツ木原古戦場
概 要:天文6年(1537)三ツ木原で武蔵の支配を狙う北条氏綱と扇谷上杉朝定の戦いがこの辺りで行われたとされる
指 定:―
遺 構:―
現 況:三ツ木公園
所在地:埼玉県狭山市新狭山3丁目

天文6年(1537)7月11日、北条氏綱は川越城を攻略するため、三ツ木に着陣しました。これに対し扇谷上杉朝定は15日
川越城を出陣し、三ツ木原で両軍は争いましたが、朝定合戦は後北条氏方が勝利し、朝定は松山城へ敗走し、16日川越城は
落城しました。
三ツ木原の古戦場では、数々の戦が行われたところらしく、これ以前の元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時軍の戦い、永
享12年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦いがあったとされます。

三ツ木原古戦場跡は、川越狭山工業団地の南西隅「三ツ木公園」として残っていますが、本来はもっと広範囲であったと思わ
れます。




三ツ木公園の南側の道路に面して建てられている「三ツ木原古戦場跡」の標柱  公園内後方に石碑と説明板が見えます





「三ツ木原古戦場の碑」と「三ツ木原古戦場の碑」説明板




汚れていて読み辛いかもしれませんが、何とか読めそうですので説明文の転記は省きます




石碑の裏面にも色々と刻まれています
金子和泉守国重は、武蔵七党のひとつ村山党に属した金子十郎家忠の子孫とのことも触れています




三ツ木公園内の一角




同上




この辺りで緑が残るのはこの三ツ木公園のある一画だけかもしれません




三ツ木公園の東側(正しくは北東側)の道路
車の先に見えるのが西武新宿線の線路 この左手少し先に「新狭山駅」があります




東側道路を挟んだ三ツ木公園の反対側は川越狭山工業団地で、世界の「HONDA」の工場です。




三ツ木公園北側の状況




北側道路から見える世界の「HONDA」

工業団地、住宅地として大規模な開発がされたようで、古戦場跡もその侵略の犠牲になっても不思議でなかったなかで、こうし
て一部かも知れませんが、三ツ木公園として古戦場跡が残されたことは歴史の大事な財産かも知れません。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)

高見原古戦場(埼玉県小川町)

2018年09月22日 | 古戦場・陣所


『長享の乱』とは、長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上
杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた戦いの総称です。この戦いの中に「長享三戦」と呼ばれる合戦があ
りました。

長享2年(1488)2月 5日 相模国 実蒔原の合戦  (現神奈川県厚木市・伊勢原市)
  同 年     6月18日 武蔵国 須賀谷原の合戦 (現埼玉県嵐山町)
  同 年    11月15日 武蔵国 高見原の合戦  (現埼玉県小川町・寄居町)

長享の乱に至る経緯や詳細を書くだけの知識や能力はありませんので省きますが、長享三戦のひとつ「高見原の戦い」の場と
なった高見原とされるのは、現在の比企郡小川町高見・大里郡寄居町今市辺りだと言われています。そんな高見原跡を散策し
てきました。

【長享2年6月に須賀谷原の合戦が行われてから約4か月後、11月に再び両上杉氏が鎌倉街道に沿った高見原で3度目の激
突をしています。この合戦は扇谷上杉方の勝利に終わり、山内上杉氏は鉢形城に敗走しました。この合戦の後、明応3年(1
494)7月に扇谷上杉氏は再度高見原に出陣し、荒川を挟んで山内上杉氏と対峙しましたが、扇谷の大将・上杉定正が落馬
して頓死し、扇谷上杉方は河越城に敗走しています。(改訂歩いて廻る『比企の中世・再発見』埼玉県立嵐山歴史の資料館発
行から)】

写真に撮ったところが実際に合戦の場になったか否かは知るべきもありませんが、こんなところなんだと思って頂ければと。




高見城本曲輪から望む高見原と言われる高見地区    眺望の関係でちょっとずれているかもしれませんが




高見地区  この辺り一帯で合戦があったのでしょう




高見地区   高見城も合戦の場となったようです 
この道は鎌倉街道上道です   右のカーブの少し先から今市地区(寄居町)




今市地区に入りました  今市地蔵前です
鎌倉街道上道は矢印の方向に曲がって進みます  写真では切れてしまっていますが、今市地蔵堂の左側も道路が走っており、
矢印と反対方向(地蔵堂右側、丁度車が走っている方向 多分これが旧道)の道路と合流します。この道を行くと畠山重忠の
生地である畠山重忠館跡(畠山重忠史跡公園)方向です。




今市地蔵堂の境内に設置されいる「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の大きな案内板




①が須賀谷原の合戦の場所と言われるところ  ②がこの高見原の合戦 の場所と言われるところです
②の印の右に「畠山館跡」、その下に畠山重忠の重臣であった本田親恒(近常)の「本田館跡」の表示が見えます




鎌倉街道沿いの今市地区  道端に何やら標柱と祠が見えます
(この辺りの実際の鎌倉街道はこの道より少し西側を走っていたようです。この写真では右の方)




標柱には一部剥離していますが、  
  高見原古戦場跡  慰霊首塚稲荷  長享二年(1488)
とあります。
無論近世のもので地元の篤志家が建立したのでしょう。




覆屋の中に納められているのは石の小さな祠です   覆屋には稲荷鳥居が取り付けられています

戦国時代は、応仁の乱(応仁元年〔1467〕)から始まった(諸説あり)と言われます。その過程において発生した「長享の乱」
は「享徳の乱」(享徳3年〔1454〕~文明14年〔1483〕)とともに 関東版の応仁の乱とも称され、応仁の乱が11年間の戦
いであったのに対し、長享の乱は約30年にわたる争いでした。
この結果、上杉氏は衰退し、北条早雲の関東進出を許す結果となりました。そうした歴史のひとつの舞台が高見原に繰り広げら
れたわけです。そんな歴史を後世に伝えていくことは大切なことでしょう。

散策日:平成30年(2018)7月19日(木)

須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町)

2017年12月17日 | 古戦場・陣所


戦国時代の初めに「長享の乱(ちょうきょうのらん)」と呼ばれる関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による争い
がありました。その戦いの中のひとつに、長享2年(1488)6月18日の須賀谷原の戦いがあり、戦死者700余り、馬数百
がたおれた未曾有の激戦であったと記録されているようです。このとき、山内上杉方の軍勢は平沢寺(嵐山町平沢)に陣
を置いたとされます。一方の扇谷上杉氏の軍勢がどこに陣を置いたかははっきりとはしていないようです。
須賀谷原古戦場は推定の域を出ませんが、須賀谷原遺跡のある現在の埼玉県比企郡嵐山町菅谷あたりではないかと言われ
ます。
「長享の乱」の詳細については省かせていただきますが、「須賀谷原遺跡」については、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行
の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」に次のようにあります須賀谷原古戦場。

国立女性教育会館の国道254号線バイパスを挟んだ北側にあります。平成12年に発掘調査され、鎌倉時代の道路跡ととも
に戦国時代の塚2基と50基の墓壙群が発見されています。出土した五輪塔、土器から15世紀後半から16世紀前半にか
けての遺跡であることがわかりました。土壙墓群の墓域であった所を一度片付けたうえで塚を構築し、塚の周りに新たに
墓を作っていました。遺跡の年代が長享2年(1488)の須賀谷原の合戦の時期と重なり、遺跡の位置からこの合戦との関
係が推測できる遺跡です。なお、遺跡は造成され消滅しましたが、出土した五輪塔が現在も遺跡内で覆屋に安置されてお
り、見ることができます。

そんな「須賀谷原古戦場」と推定される須賀谷原遺跡を訪ねてきました。

この写真のあたり一帯が須賀谷原古戦場推定地・須賀谷原遺跡と思われますが、宅地造成が進んでいます。




道路突き当りの所が最高地点で、この林の中に五輪塔を安置した覆屋があります。
このようにまだ造成されただけの場所が残っておりましたので何とか五輪塔を安置した覆屋の場所が分りましたが、住宅が
建ち並んでしまったら、おいそれとは見つけられなくなるでしょう。




覆屋のある高所から南方を見下ろしてみました。写真左側の住宅の先にある木立は国立女性教育会館。
右側の建物(菅谷中学校)の先に菅谷館跡(嵐山史跡の博物館)があります。




五輪塔を安置した覆屋




一応、丘の東側に階段が設けられています。




五輪塔




柵の上から撮ってみました。

長享の乱やこの須賀谷原の戦いについてはもう少し(もっと)勉強の必要がありますね。気持ちだけはあるのですが・・・

散策日:平成29年(2017)12月7日(木)

苦林野古戦場(埼玉県毛呂山町)

2017年12月09日 | 古戦場・陣所


苦林野合戦(貞治2年(1363))は鎌倉街道沿いに広がる苦林野(さらに東松山市の岩殿山)を舞台にした合戦です。
越後守護職を巡って反乱を起こした芳賀禅可・高貞とそれを鎮圧する鎌倉公方足利基氏の対立により起きた戦いです。
なお、供養塔の近くには戦死者10人をまつるという十社神社があります。この苦林では文明年間に起こった長尾景春
の乱でも、景春与党の矢野兵庫助が河越城攻めに際して布陣しています。
             (改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」の”苦林野合戦供養塔”の項から抜粋引用)

毛呂山町の苦林野古戦場跡と推定される場所、及び、関蓮する場所を散策してみました。この苦林野合戦は岩殿山合
戦とも言われるようで、この合戦に際し、足利基氏が築いたとされる「足利基氏館(足利基氏塁)」跡が、東松山市
岩殿の弁天沼近くにあります。

冒頭の写真は、苦林野古戦場之遺跡碑、苦林野合戦供養塔が建つ苦林古墳(大類1号墳)。手前が方墳、奥が円墳です。

名 称:苦林野古戦場
時 代:貞治2年(1363)
指 定:県指定旧跡(昭和36年(1961)9月1日指定)
場 所:埼玉県入間郡毛呂山町川角2239ほか

名 称:苦林古墳(大類1号墳)
墳 形:前方後円墳
時 代:6世紀末から7世紀初頭
指 定:町指定記念物史跡(昭和39年(1964)5月1日指定)
場 所:埼玉県入間郡毛呂山町川角

名 称:苦林野合戦供養塔
時 代:文化10年(1813)
指 定:町指定有形民俗文化財(平成27年(2015)3月19日指定)
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町川角




大類1号墳を横から




後円部  頂きに建っているのが苦林野合戦供養塔




古墳頂に上がっています  前方部頂に立っている説明板、苦林野古戦場之遺跡碑 奥(後円部)に供養塔が見えます。




説明板  最近建て替えられたようですね。




苦林野古戦場之遺跡碑  碑文は読めませんね




碑の頭部だけでも 




供養塔前面 
千手観音像が彫られています




供養塔背面 
読めませんが、貞治4年(1365)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれているようです。




大類運動場近くのこのあたりが苦林野合戦が行われたと推定している古戦場跡




神明台の庚申塔・馬頭観音  延享2年(1745)の庚申塔や馬頭観音が並んでいます。




十社神社  
苦林野合戦で足利基氏方で戦死した武将、金井新左衛門ほか9名の英霊を祀ったといわれ、古くは十首明神と称された
そうです。境内には大類古墳群の円墳が残り、合戦の戦死者のお墓という言い伝えがあるようです。




十社神社社殿

今回も毛呂山町歴史民俗資料館にはお世話になりました(多謝)

散策日:平成29年(2017)10月31日(火)・11月9日(木)

神流川古戦場跡(群馬県高崎市)

2016年12月24日 | 古戦場・陣所


神流川古戦場へ行ってきました。正しくは神流川古戦場跡の碑が建っている場所へですが。古戦場跡は武蔵国と上野国との境で、今で言うと群馬県高崎市(旧多野郡新町)と
埼玉県児玉郡上里町との境を流れる神流川で、国道17号線の神流川橋あたり。群馬県側に、神流川古戦場跡の碑が建っており、埼玉県側にもやはりあるとのことでした。
神流川古戦場跡の碑があるということは知っていましたが、まさかあの場所にあったとは、何度か前を通っていながら気づきませんでした。

この神流川古戦場跡の碑を見るために埼玉県側から神流川橋を渡り群馬県高崎市(旧多野郡新町)に入り、碑のある場所を確認してから駐車できそうな場所を探しましたが
交通量の多いところで適当な場所は見当たりません。埼玉県側ならあるかもしれないと、再び神流川橋を渡って埼玉に戻り、河川敷の堤で駐車できそうな場所を探して駐車。
あとは徒歩で神流川橋の袂まで戻り、橋を渡り神流川古戦場跡の碑のある所まで。正直、一番やりたくない方法だったのですが・・・

先に、神流川の合戦とはどんなものであったを記しておいた方がよいでしょう。と言うことで、本来なら自分の言葉で紹介したいところですが、その知識と能力がありません。
このあと写真でも紹介しますが、碑の脇に建てられている「神流川合戦」の説明板の文面を書き写させていただきます。実際には、もっとたくさんの説明が必要な神流川の合戦であるようです。


  『神流川合戦』
天正10年(1582)6月19日織田信長が本能寺で倒れた直後、関東管領・滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、
これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて
石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760もの戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。
後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。
                                        (以上 現地説明板より)

少し補足しますと合戦は2度にわたって行われ、6月18日の緒戦は滝川勢の勝利、19日の二戦目は北条勢の大勝利で滝川勢は箕輪城に敗走。
これが原因でか滝川一益は、信長の後継者を決める清須会議に間に合わず出席できなかったようです。一説には負けたから参加させてもらえなかったとも。




上里町側の堤を歩いていく途中に見つけました。埼玉側にも碑があると言われていたのはこのことだったようです。




石碑でも建っているのかと勝手に思っていましたが、いつもの高札の形をした案内(説明)板でした。判読するのは大変なので写真のみで。




いよいよ橋を渡ります。こんな長い橋を歩いて渡ったことはありません。
橋の両端にある灯籠でこれは埼玉県側のもの 




この灯籠のモチーフとなった武州側の常夜灯は大光寺(上里町)に移築されている旨の記載があります。




合戦があった当時とは地形も流れも変わっているようですが、この辺りを舞台に合戦が行われたのですね 埼玉県側に近い方で撮影
高所恐怖症の私、橋を渡っているだけで足が竦んでしまいました。更に、車が走り去るときの風と橋の揺れが恐怖を誘う。
帰りもまたこの橋を渡って行くのかと思うと・・・




大体この辺りが中間でしょうか
写真左側群馬県側が滝川一益が領していた織田領 右側埼玉県側が北条領




上の写真より若干群馬寄りかな




群馬県高崎市に入りました  10年前までは  高崎市ではなく「新町」の地名標識が架かっていたはずです




神流川橋を渡り終えた目の前に・・・




神流川合戦ゆかりの里と白く抜かれた幟旗 上部の紋は「丸に竪木瓜紋」 滝川氏の家紋ですね。まあ、ここはかつての滝川領ですから
埼玉県側に北条の三鱗紋の入った幟でも立っていれば、なんてつまらない考えは止しましょう




目的の神流川古戦場跡の碑




そして、神流川合戦の説明板




道路反対側から 車の途切れた一瞬を狙って




帰りは来た時撮った神流川とは反対側を高崎線の鉄橋入りで  当然ですが左が埼玉 右が群馬となります

神流川古戦場跡の碑を見たからどうってことはないのでしょうが、でもなぜか歴史へのロマンがあるようで・・・

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)

川中島古戦場八幡原(長野県長野市)

2010年05月25日 | 古戦場・陣所








1561年(永禄4年)の第4次の川中島合戦の際、山本勘助のキツツキ戦法を採用した武田信玄が本陣を布いたと言われる『川中島古戦場八幡原』に寄ってみました。




武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像




三太刀七太刀之跡




首塚




風林火山の旗の説明板




旧本殿




逆槐(さかさえんじゅ)

ここの駐車場(北駐車場)は午後5時で閉まってしまう。それに伴い、売店も店仕舞を始めていた。そのうちのひとつで野菜を商っている店の
女の人に尋ねごとをしたら、胡瓜と長芋を購入する羽目に・・・お土産にしました。

散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)            

川越夜戦跡(埼玉県川越市)

2010年05月16日 | 古戦場・陣所


「日本三大夜戦」のひとつである『川越夜戦』が行われたという跡に行って見ました。無論、戦いの跡を残すものはありませんが、
沢山の方が訪れているようで、私が訪ねたときも、男女のカップルがほぼ同じに訪れカメラを向けていました。

写真は、川越夜戦の舞台となった東明寺です。「川越夜戦」とはどんなものだったか? 東明寺の門前脇に建てられている案内板の文言を下記に写しておきます。

  川越夜戦跡  所在地 川越市志多町
天文6年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢8万余騎をもって、
同14年10月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか3千でたてこもっていたが、翌15年にはすでに食糧も尽きて非常な苦戦におちいって
いたところ、北条氏康が8千騎をひきいて援軍としてかけつけ、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、
東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に敗走をはじめ、
この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。
                          昭和58年3月       埼 玉 県




東明寺境内にある「川越夜戦跡」石碑




上記説明が書かれた案内板




やはり境内にある東明寺の由緒書


ちなみに三大夜戦の他の二つは、
毛利元就と陶晴賢が戦った厳島の戦い(1555)、織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦い(1560) だそうです。

実は、この川越夜戦のあった東明寺を訪れたのは今回が初めてですが、このすぐ目の前の道を何年も通勤で通っていたことがあります。

散策日:2010年(平成22年)5月16日(日)