映画「つゆのあとさき」を観た。
実物の女の子が並んで顔を見せて、客が選んで遊ぶシステムは、江戸時代の吉原の遊女みたいだ。本当にこんな店が渋谷にあるのか、寡聞にして不明だが、ありそうな気もする。
今も昔も男の遊びといえば、女と酒である。それ以上にやりたいことがある人は、何事かを成し遂げる。何も成し遂げられない男は、女と酒に逃げる。
そんな男たちが落とすカネで生き繋いでいる女たちがいる。客も女も同じレベルだ。説教される謂れはない。友だちがいないことなど、最近では当たり前で、非難される理由にならない。
遊女に対して「どうしてこんな仕事をしているの?」と聞く男に対しては「あんたみたいな男がいるからさ」と答えるしかない。つまらない男にもプライドがあることを知っている女は、何も答えない。バカを刺激してもいいことは何もない。
稼げるのは若いうちだけだと、女たちは知っている。そしてこの世はバカばかりで、何の価値もないと思っている。ある意味で正解だ。
勢い、刹那的な生き方になる。その場だけの会話、その場だけの関係、そしてその場だけのカネ。仕方がない。貨幣経済の社会だ。生き延びるためにはカネが要る。
それでも好き嫌いはある。信じる信じないもある。いまのところ信じられるのはカネだけだが、もしかしたら信じられる人や言葉に巡り会えるかもしれない。
本作品は遊女たちのデスパレートな日々を淡々と描くが、それなりの出会いと別れがある。さくらは聖書を読んで中の言葉を紙に書く。変わった女子大生だった。
それでも言葉には力がある。琴音も気づかないうちに影響を受けている。そんな微妙な関係性に、本作品の面白さがあった。
さくらの聖書にひっかけたのか、琴音が着ているTシャツの背中には「Tenjotenge」とプリントされている。漢字だと「天上天下」で、次に「唯我独尊」と続けば、仏教の言葉になる。
監督の遊びなのかもしれないが、救われない彼女たちが、どこかで救いを求めている気がした。