熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
一昨日は
まだ蕾も気配もなかった
昨日の冷え込み
それに雨も加わり
桜にも刺激があった
のでしょうか
今日見ると
一輪に二輪と
咲き始めています
まだ蕾の方が多いのです
この寒さが
一気に咲くのを留めている
ようです
写真を撮り眺めていると
「うつくしいですね」
と、外国の方が
美しい日本語で話しかけて
こられました
「わたしは六角堂の桜が
京都で一番好きです」
と、
桜を愛でながらの
短い会話
もっと、
いろいろ話したかった
のですが、
ジムの時間もあり
ただ、このビルの上に
上ると上から六角堂が
ご覧になれますよ
わぉ
それは知りませんでした
ありがとうございます
とだけ話して
お別れしました
満開もいいのですが
こうやって
ちらほら咲いている姿も
なかなかいいものです
帰り道
紫の木蓮も
これから咲き始める
様子です
六角堂の桜も
まだまだ眺める方も少なく
私にとっては
今が一番の見頃です
日々開いていく姿が
楽しみです。
背きつつ近づく
ということもありますが
反対するということは
反面には近づいている
ということも言えます
高校生の頃
祖父に随分反抗しました
それは仏教についてですが
祖父のやっている仏教が
お釈迦さまではないか
ということです
そういうことで、
今思えば
祖父に背いたということは
仏教にそれだけ近づいて
いたように思います
講義では
有功用・無功用という
ことが出てきます
(うくゆう・むくゆう)
と読むのですが
この読み方の響きが
なんか不思議で
記憶に残っている言葉です
有功用というのは
努力の世界、つまり
初地から第七地までを
指しています
無功用というのは
努力の必要ない世界で
八地・九地・十地を
指しています
「有功用から無功用だから
質が異なるけれども、
そこにやっぱり連続する
そこで飛躍問うことが
いえるんであってですね。
全然質の違うものが
しかも結びつくと、
こういう意味で緊張と
いうようなことが
あるわけです。
自覚というようなことも
そういう一つの
質の異なったものが
しかも結びつくと。
西田哲学でも
矛盾するものが一つだと
いうね。
ああいうところに
やっぱり自覚というものが
出てくると思うんですね。
あるいは逆対応というか
むしろこの反対する
ことによって近づくと、
こういうような意味で
自覚というものが
現れてくるんです。
相対ということによって
絶対が自覚できると、
こういうような意味が
自覚の構造というものに
なるわけです。」
安田先生の本に
『仏に背くもの』
というものがありますが
人間というもの
本当のものには背いて
いながら
背いているだけではなく
背きつつ近づくという
ことがあり方あのようです
何かしら
素晴らしい、素晴らしい
と言いながら近づくのは
ある面では惚れている
ということがあって
その真実は見ていない
ということが言えると
思うのです
やはり、見たくない
聞きたくないといいつつ
聞かずにはおれない
ちょこっとだけ
聞いてみようと
そこには
本当のことは知りたいけど
知るのも怖いような
知ってしまえば
もう後には戻れない
そういう背きながら近づく
ということが事実だと
思うのです
この十地経の講義も
聞きたいと思って聞いた
のではなく
まあ、みんなが聞くから
三浦先生が聞くから
仕方なしに聞いた
けど聞けば
そうか、そうかと
頷くことがあり
気付かされていくことが
また聞かずにはおれない
自分になっているという
そういう妙なもんだと
思うのです。
仏法が好きというのは
ヘンな人でしょう
ある面では。
聞きたくないけど
聞かずにはおれない
そういう妙な衝動にかられ
近づくということでしょう
というようなことが
自覚ということの構造だと
述べておられるようです。
宗教ということも
分かったようで分からない
この
自己に死んで真理に生きる
という言葉が
的確に表していると思う
のです
自己に死んで真理に生きる
死なずに生きたら
入我我入でしょう
死んで生きると
自分に死ぬということは
法執に死ぬ
ということです
なにも肉体を滅すること
じゃない
我執と法執に死ぬという
ことだ
自覚だけが
我執を超えさせるんです
ということを
述べておられます
やはり煩悩というより
執という執着が問題です
妙なもので
わけもわからず自分に
固執するものです
そしてさらに
その固執を離そうと
しないのです
生まれたときは純粋だった
ように思うのです
ところがいつの間にか
自分の考えとかものとかに
固執して拘ってしまい
離そうとしません
しかし、
お経を読んでみると
「無始よりこのかた
妄想に纏われて…」
という言葉があります
無始よりこのかた
つまり、人間が始まる
以前からということで
生まれる前から
私たちに備わっている
のが「執」という
ことなのです
このことは西洋でも
悩んでおられるようで
『ゲルマニカ・
テオロギア』
という本があります
ドイツ騎士修道会士で
匿名の本です
「最大の問題は
『私が、私の、私を、
私に』
『私』というものを
手放すことが出来ず
『私が、私の、私を、
私に』という
こだわりを捨てることが
できない
それが問題だ
『私が、私の、私を、
私に』が引き離さ
なければなりません
ですが、
私たちはそれを望まず
抵抗し、痛みのために
うめくのです。
というようにあります
私という、我執そして
それに対する法執
それを手放すことが
できないということです
法執というのは
簡単には自分の考えです
聞くところによると
人間の細胞は2年もすると
すべて入れ替わっている
自分、自分と
いっていますが
細胞レベルではその自分は
すっかり入れ替わって
いるのに
自分、自分という考えが
なぜか残っていて
私たちを悩ますのです
煩悩にも
倶生起の煩悩と
分別起の煩悩という
ものがあります
俱生起というのは
生まれながらにして
持って生まれた煩悩です
それに対して
分別起は
生まれた後で経験とか
によって付いてくる
煩悩です
分別起の煩悩は
激しいといわれています
損か得か
そろばん弾くのですから
しかし
それは対治しやすい
ところが
俱生起の煩悩は
静かで目立たないのですが
それゆえ対治しにくい
こういう我執、法執が
悩ましてくるのです
それは
ただ、それは我執であり
法執なのだと知るという
自覚しか
対治できないのです
そのためには
「聞・思・修」という
修行しかないのです
やはり
本当の話を聞く
聞くということしか
自覚の方法はない
ということを
お釈迦さまもいって
おられます
お経の最初の言葉
「如是我聞」
このようにお聞きさせて
頂きますという
その言葉で始まることが
如実に表しているように
思います。
「感応道交」
この言葉も聞いたとき
衝撃を受けました
「感に応じ道に交わる」
読み方ですが
仏教辞典では
「かんのうどうきょう」
と、しかし先生は
「かんのうどうこう」
と読んでおられました
どちらの読み方もある
ようです
辞書を見てみると
「衆生が仏心を感じ
仏力がこれに応ぜられる
のを感応といい、
道交とは行き交わること」
とあります
しかし身近には
人の出会いでもそうだと
思うのです
やはり何か響くものがある
そこに感じ合うものがある
そういうことで
人との関係が出てきます
そうなると、よく
一心同体ということを
言いますが、
仏教ではそうでなく
一心異体といいます
心は一つなれても
身体は別もの、異体です
人との出会いも
生まれた場所も違うし
育った環境も違う
年も違う、
なにもかも違うのですが
何か感じるものがあって
交流して、縁が深くなる
考えてみれば
不思議なものです
講義では
「友達の間でも、
親子の間でも、階級や
何かを超えて、はっと、
こう握手できるものがある
精神と精神とが感応する」
とあります
この講義を文字にされた
方々ですが
後書きを読んでみますと
色々な方の手による
ものなのです
今回書かれている方も
植木屋さんです
何も分からず、言葉も
最初はこの人たちは
世間知らずの集まりか
と思われたそうです
分からないけど
何か感じるものがある
のでしょう
何か感じる、そのことに
惹かれて続けてこられた
分からないけど
何か惹かれるものがある
そういうことだと
思うのです
その微かなこと
分からないけど感じるもの
そういうことを大切に
してこられたことが
こういう講義の文章化に
大きな役割を果たされ
のです
理屈でわかるからやる
分からないからやらない
そういうことではなく
分かる分からんを超えて
感じたことに動く
ものごとの成りたちは
打てば響くというような
そういう心がないと
何ごとも
成り立たないようです
本蔵院の本堂建立も、
住職が感じた心に
周りにいる職員の心が
響き合ったのでしょう
そういう感応道交した心が
こういう大きな事業を
成り立たせたと思います
理屈では説明つかない
何とも不思議なことです
この響き合うという心は
こういう心に磨きをかけ
響き合う心のアンテナを
大事にしたいものです。
五条大橋の近くに
小さな公園があって
そこに木蓮の木があります
今ちょうど
蕾が膨らみ始めています
昨日とは打って変わって
綺麗に晴れ上がりましたが
風はまだ冷たさがあります
でも、
春の予感を感じさせる
気配があります
このつぼみの姿は
可憐というか美しい
開ききる前の姿が
美しさがあります
開く前はこのような毛に
覆われてます
そこから白い花びらが顔を
出してきます
また木蓮の木の枝ぶりも
面白い造形美を
見せています
この木蓮という名前
お釈迦さまの十大弟子の
一人、目連さんに響きが
似ているので何か気になる
花の一つです
神通第一といわれた
目連さん
この名前は目連さんが
モッガラーナという地の
出身で、モッガラーナの人
という意味で
目連という名前になった
ということです
神通力を得て
最初に気になったのは
両親が死んだ後どこに
行ったのかということです
神通力で見ると
母親が餓鬼道に堕ちている
その母の苦を救うことが
お盆の行事になった
そういうこともあって
関係はないのですが
モクレンを見ると
目連尊者のことを
思い出してしまうのです
また近くには
もとの五条大橋の礎石と
いわれる石があります
何やら字が彫ってあります
天正十年という文字が
見えます
この年は織田信長が
明智光秀の謀反により
討たれた年です
さりげなく置かれて
いますが
歴史の片鱗が残る
石でもあります
近くにあるのでまた
開く様子を見ていきたいと
思っています
開花の様子をアップします
「神通力」
これも誤解しやすい言葉、
インドの言葉では
アビジュニャーといいます
ジュニャーというのは智慧
の一つですから
神通ということも
智慧という内容をもった
言葉です
辞書には
「禅定を修めることで
得られる無碍自在な
超人間的な不思議な
はたらき」
といようにあります。
それには
神足通・天眼通・天耳通
他心通・宿命通の
五神通があります。
こういうことを講義では
「自己の中に世界を
宇宙を見出してくるんだ
そういうのが
梵我一如というものじゃ
ないかと思います。
梵、梵だね。
世界は梵や。
それから我ですね。
我の中に梵を見出してくる
大体インドの思想という
ものはこういう傾向です。
そういうものを、こう、
神通ということで
表すのじゃないでしょうか
神というのは、
これ精神でしょう、
神通の神は精神ですね。
それから通というのは
それはつまり壁ですね。
壁を破るんです。
壁を突き通すことです
それが精神です。
外の世界はそうはいかん
光が壁に突き当たったら
その壁の向こうを
光が通すわけにはいかん
でしょう。
ところが精神はその壁の
向うを通って行くんです。
何か我々が古い本読んで
生き生きと今のように
感動するというのは
不思議な話です。
聖書でも。
こういうような古典でも
読めば。
読み方が悪いから感動せん
けど、よおく読んでいけば
もう、ここに生きとる。
自分の心臓の波動まで
応えていくですね。
それから他人の場合ね。
同感するとか、文学作品。
古典で、
僕が経験あるのは、
オデッセイという西洋で
一番古い本だけど、
オデッセイがいろんな旅行
して帰るときにね、
覚えとるんや、
可愛がってた犬が。
漂流して帰ってきたら
犬が跳びついたんだ。
その描写が、
そりゃ感動するね。
あんな古典に。
今、生き生きしとる。
ああいうのが、
理解するということが
神通力ですね。
その階級、年代ね、時間、
距離、そんなもの
飛び越えて通づるでしょう
その壁を。
とうに死んだ古代の年代、
千年も三千年も昔や、
距離からいっても。
年齢からいっても。
教養からいっても。
全然縁もゆかりもないんだ
それをさあっと
等観していくんだ。
その精神力や。
こういうものをね、
普段忘れとるんですわ、
僕らなんかね。
あんまりこすいこと考えて
これを何か外の世界に
追われて、
みんな持っとるんだけど
その能力を忘れている。
精神力。
論理とかそんなものじゃ
出てこないのです。
無にして感ずるという。
何か腹に一物あったら
できないんです。
つまり、
感応道交みたいなもの。
感ずる。
こっちは感ずるんだ。
向うは応じてくるんです
打てば響く
というようなものだ。
努力して感動 …。
これは
何かから結果が出るもの
じゃないんです
もう初めからあるものです
何か修練して取り入れる
ものじゃないんです、
感応の力というものは
あるけど失っている
これから入れるものじゃ
ないんです。
そういうものがあればこそ
友達の間でも、
親子の間でも、
階級や何かを超えて、
はっと、
握手できるものがある。
精神と精神が感応する。
感応道交の感動力。」
ちょっと長くなりましたが
これで、この講は
終わります。
次回また新しい展開が
あるのでしょう。
「一切」ということも
西洋と東洋では見方が違う
ようです
ギリシャでいう一切とは
コスモというか外の世界の
全てを一切と、
ところが仏教では
世界といっても主体性の
中に世界を見ています
講義では
「そこに大きな世界観が
違うじゃないでしょうか。
外に見た世界と、
内面に開けてきた世界と。
けど中国では内面を見ない
から経済とか法律とかを
考えてきた。
インドは内面の眼を
開いてきた。
瞑想というような。
この、定という字も
一番平凡な言葉でいえば
瞑想ということ。
内観というような。
止観というのは内観なんだ
内の眼を開いてくる。
外の眼ばっかり開いとった
ものが転じて内の眼を
開いてくる。
世界を、宇宙、コスモスを
内から見るというような。
自己の内に世界を
見出してくる。
自己の外に見出す世界は
コスモスですけど。
しかし、
自己の内に
世界を見出してくると。」
普段は私たちの眼は
外しか向いていません。
そこで、瞑想とかでは
内に目を向けてという
ことをいいます。
ヨガでも瞑想の時に
眼を自分の内に向けて
静かに観察しましょうと
しかし、
このことも分かったようで
分からないものです
内に向けて何を見るのか
という疑問が出てきます
座禅とかでは
「数息観(すそくかん)」
といって
「一つ、二つ、三つ…」と
静かに数をかぞえます。
十までいったら
また一からはじめます。
そうやって雑念を退けて
いくのです
数息観のことを
アーナーパーナ・
スムリティ
といい、念出入息と直訳
します
ですから、まず
息を静かに吐く、すると
たっぷり息が入ってきます
しかし、この数息観も
もっと詳しくあって
五停心観
(ごじょうしんかん)
の中の一つです
一番初めには
不浄観というのがあって
肉体の不浄なことを観じて
貪欲を止める
ことから始めていって
最後が数息観になります
そのように
内を観るといっても
自分とって一番嫌なものを
見ていくのです
その中で数息観は
呼吸を数えることによって
散乱した心を整える
ということです
やはり一番大切なのは
呼吸を調える
ということです
呼吸が浅かったり
早かったりすると
心も乱れていくものです。
しかし、
この十地経の講義は
妙なもので
聞いている私たちを
三昧(定)の世界に
引っ張ってくれるのです
お釈迦さまも
説法の時には
聞いている人々を三昧の
世界に入らせたとあります
分かるわからないを超えて
そういう定(三昧)の
世界を味わえるという
ところにこの講義の醍醐味
があるようです。
今思うと
ほとんど理解できなかった
ように思いますけど
三昧という世界を体験で
とことが何よりの収穫
だったように思うのです。
この二つの言葉も
第七地の中で重要な言葉
方便行と智慧神通行とは
対比した言葉です
経典では
『方便行を具足して、
智慧神通行に得入する』
という言葉で出てきます
そこで講義では
「菩薩はこの第七地において
方便行を具足して、
方便行が満足すると。
工夫が満足すると。
満足成就すると。
そしてその、
満足成就した力によって
智慧神通行に得入する、と
こういうふうに、
方便行という概念と、
智慧神通行という概念と
対応して使われています。
ちょっと分からんけど、
智慧神通行という言葉が」
というように
やはり智慧神通行という
言葉が難しい
というのは
「神通」という言葉
固定観念があって
神通力というと分かり
にくいのです
読み方も「じんづう」と
濁って読みます
辞書にも
禅定を修めることなどに
よって得られる無碍自在な
超人間的な不思議な働き
というように出ています
さらに講義を見てみると
「神通というとはっきりせん
かも知れんけど、これは
止観といったでしょう。
止というのは、
これはつまり
三昧なんです、定です。
定という概念、
広い意味をもっています。
禅宗の禅というものも
定の一つだ。
三昧というのも定の一つ
いろんな種類がある。
止観の止というところに
神通というものが、
神通力というものがある
だから、
観というときに、
智慧もって観察するん
だから、観ね。
そういうところから
智慧神通ということが
出てきたんでしょう、
止観から。
ちょっと誤解されんように
神通ということが
何か分からんようですけど
これがさあ、
分からん方が実は
いいのか悪いのかという
我々は外ばっかり
追ったんじゃないかと
思うんです、
何か、こういう世界に
触れてね、
精神界というものを
一向知らずに過ごしてきた
外のことばっかりに
目を見張ってね。」
と続くのですが
別の講義で
「神通力」ということを
これは精神通力だと
精という字が抜けていると
こういうことを
聞いていました
「精神通力」といわれて
見ると何かしら
納得いくものがあるように
も思ってきます
仏教では「神」は
普通でいう「神さま」
ではなく、精神という内容
であるといわれます
ここの点が
私たちが誤解しやすい
ところです。
まあ、これからも
別な角度から
説いていかれると思います
定(じょう)ということは
散(さん)という言葉と
対の言葉で「定散」と
いいます
今の言葉でいえば
「集中」ということが
定という意味に近いかと
思います
反対の「散」は
心が散り乱れるという状態
今の時代、
定という心が失われ
散という心が支配している
ように感じられます
定という言葉
三昧という言葉の訳です
ところが、
ただそれだけではなく
色々な意味をもっています
講義では
「定という概念は広い意味
ですね。
禅宗の禅というようなもの
も定の一つだ。
三昧というようなものも
定の一つだ。
いろんな種類がある。
これはやっぱり、インドの
インドの精神文化という
ものを理解するためには
定という概念が非常に
大事になる。」
ということで
定ということを見てみると
七つあります
言葉がややっこしいですが
⑴サマーヒタ。等引と訳す。
「等」というのは、
心が浮き沈みするのを
離れて平衡を保ち
心身が安らかである
という状態。
「引」というのは、
定力がこの心を
引き起こすことをから
⑵サマーディ。三昧。
等持と訳す。
心が平等に摂持する。
おさめ持タモツということ
⑶サマーパッティ。
等至と訳し、
心身が平等に至ること
⑷ドゥヒャーナ。
これを禅那と音写し
さらに「禅」と略した
静慮ジョウリョと訳する
はからい(慮)を静める
⑸チッタイカーグラター
心一境性と訳し
心を一つの対象に向けて
集中する
⑹シャマタ 止と訳し
止観の止に当たること
邪乱を離れ想念を止めて
心を寂静にたもつ
⑺ドリシュタ・ダルマ・
スカ・ビハーラ
現法楽住と訳し、
現在世において定の楽し
みの中に落ち着く
というようにあります、が
「定の楽しみ」という
本当に忘れている心です
楽しみという概念が今とは
違うようですが
本当の楽しみというのは
御馳走食べたり会話が弾む
ということではなく
こういう三昧というか
定に入ることなのでしょう
こういうところに
定といえばただ一つで
片付けてしまいますが
インドの考えではこういう
七つもあるということが
私たちの心を緻密に
分析したということです
難しい言葉ですが
こういう心の状態がある
ということを知っている
だけでも
心の持ちようが違うのでは
ないでしょうか。
3月3日の善き日
新本堂が落慶しました
時と共に時代の流れに合わ
せるかのように新建立です
風雪に耐え、空襲では
焼夷弾が2発も落ち
水害、そして間近の地震
耐えて100年
わずかに歪み、壁も落ち
限界に近付いたようで
この度のご縁が成就した
ということです
これまでに
100年ごとに建て替えられて
いるようです
今度の新本堂はハイブリッド
鉄筋コンクリートと
屋根を支える
集成材の大きな梁
照明はLED仕様
季節に応じ春の光、秋の光
護摩の光、
星祭りの鬼登場の光と
それぞれの時に応じて
本堂の色彩が変化します
昔からお寺というもの
当時の最先端の技術の結晶
でもって作られたようです
平安の頃
お寺の柱は朱色
屋根は緑釉瓦で緑色
壁は白く塗ると
見るも鮮やかな色彩豊かな
形だったのです
一番最初のお寺は
お釈迦さまが安居(あんご)
の時に休まれ法を説かれた
祇園精舎が始まりでしょう
それから
お寺は変遷がありながらも
根本は法を学び法が説かれ
法を実践する場所であり、
人びとにとっては
心のふるさと
安田先生の言葉を借りれば
ハイマート(故郷・浄土)
ということです
迷い悩み苦しみ
その中にあって
方向を指し示し
人びとの安穏な場所
つまり心のふるさとが
お寺のあり方でしょう
お寺を伽藍ともいいます
何もないことをがらんどう
といいます
インドの言葉でお寺を
サンガー・マーラといい
僧伽藍摩と音写したのです
これが略され伽藍となり、
お寺の堂塔伽藍という言葉
が生まれました
落慶法要は音楽法要を
取り入れた形で
最初の入堂は子供山伏の
献灯献花で始まり
そこに花を添えたのが
「ベービーブー」による
『みほとけ』のコーラスで
写真はリハーサルの様子です
生歌は素晴らしい歌声です
子どもさんも歌に合わせ
美しく献灯・献花を
お供えされました
法螺貝の奉納もあり
これまた見事な音色です
お経の声も一つにそろい
その響きが堂内に広がり
なんとも心地よいものです
式の流れも古式に則った
ものもあり、
新しきコーラスも入り
という、バランスのとれた
法要でした
東側の植え込み
オタフクナンテン
それを囲う石垣は
前の本堂の束石
こういうところに
生かされているのは
嬉しいものです
夜の本堂
スポットライトに照らされる
懸魚(げぎょ)
こういう姿にも新しさを
感じることができます
こういうことを見るにつけ
身近に感じていただける
お寺になるようです
お不動さまの威神力により
威光倍増、
増々輝きますよう
どうぞよろしくお願いします