本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

みどりの日、御所の新緑

2017-05-04 17:40:32 | 住職の活動日記

さくらも終り、御所の中は

美しい緑に覆われています。

おにぎりのお弁当を持って、

新緑を味わいに、

 

 

御所の西北の方に小さな遊園地

というかちょっとした遊び場があり

子どもたちにとっては格好の遊び場

安全で木陰もあり、

疲れたら、

お茶を飲みお弁当食べて、と

御所という中にも

このような施設もあります。

 

 

周りは新緑一杯、

樫の木の垣根も初々しい葉を広げ

 

 

松の香りのする、あたりには

風は心地よく吹いてきます

 

 

さくらの若葉も目に鮮やか

 

 

広い御所の空間

こういう場所が保存されてあり

解放されているとは勿体無い

気がします。

 

 

歩いていても面白い松の姿に

驚いたり、

 

 

下に眼をやれば、たんぽぽもあり、

 

 

御所の塀は歴史を感じさせ、

 

 

イチョウの木もまだ小さい若葉を

広げ始めています。

 

 

この公園の近くには一条邸跡という

何気ないこんもりした森ですが

こういう所にも歴史を垣間見る

ような気がします。

 

 

西に向かって歩くと、

松の並木が途切れ、

 

 

さくらの柔らかそうな新緑が

見えてきます。

枝垂れ桜の塊です。

 

 

中に踏み込むと、紅葉の新芽もあり

 

 

さくらとモミジの新緑のコラボも

美しいものです。

その奥へ進んで行くと、

 

 

小さな池が見えてきました。

立札には五摂家の一つ近衛邸跡と

 

 

この池の西側に館はあったようです。

御所炎上の際は仮の御所にもなり、

池のほとりは糸桜(しだれ)の名所で

孝明天皇も、

「昔より 名には聞けども

 今日みれば むべめかれせぬ

 糸さくらかな」

と詠んでおられます。

 

 

その近くでは

カラスが餌を見つけたようです。

上手についばんでいます。

御所の野鳥という看板があり

色々な鳥が紹介されていますが、

残念!カラス君は載っていません

私も野鳥の一人ですけど??

 

木陰には「シャガ」の花が

 

 

のびのびと、

 

 

花を広げています。

 

 

緑の大きな木には目がいくのですが

その下にもこういう花々も

静かに咲いています。

 

 

また、珍しい木も

「とべら」という木です。

枝ぶりが面白い木です。

その新芽も、

 

 

産毛に包まれたなんとも美しい!!

 

 

クスノキの黄緑も美しく形もいい

 

 

見上げる黒松、樹齢はどれくらい

 

 

その松の新芽??

松ぼっくりの出始めでしょうか、

まあいろいろな木々が楽しめます。

 

 

事務所の中に咲いている

躑躅(つつじ)

とても色鮮やかです。

 

お弁当も頂き、緑も楽しんで

心豊かに御所をあとにしました。

 

 

 

 

 

 

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下鴨神社「流鏑馬」(やぶさめ)

2017-05-03 20:37:47 | 住職の活動日記

高野川と賀茂川が合流する出町柳

そこから高野川を上り

 

 

川向うには「下鴨茶寮」

 

 

とてもいい場所にあります。

 

 

高野川(たかのがわ)、

橋元には不思議に手すりと

共存している

 

 

手すりは完全に木に埋まり

そこからはまた別の木も伸びて

三者共同で成り立っています。

 

 

高野川を渡り、

下鴨神社の神域へ

 

 

普通には下鴨神社しかし、

正式には「加茂御祖神社」といいます。

鳥居をくぐると、

名物の「みたらし団子」

 

 

やはり求めなければ、

 

ここから、糺の森付近は

 

 

新緑が目にまぶしい

 

 

京都市内にこのような静かな

自然を残した森がある

とても好きな場所です。

 

 

葵祭、

出店には「ふたば葵」の苗も

でています。

 

この森には一筋の小川が流れていて

 

 

自然の美しさを尚更

醸し出しています。

 

 

目を凝らして見ると

もうトンボが生まれているようです

 

 

羽をはばたかせ飛び立つ準備

 

 

うまく飛び立っていきました。

 

流鏑馬までは大分時間があります。

 

 

ひとまず、みたらしを頂いて、

五つのお団子のうち

一つ目と四つ目が離れている

これが正式です。

御手洗川からわき出て来る

泡を形にしたのがこのみたらし団子です。

 

 

流鏑馬の、ここが出発点

ここから走り、三つの的を射とめます。

 

 

 

本殿での神事も終り、

神主さん方がお清めに行かれます

 

 

雅楽の方たちも、

 

 

古式豊かに平安時代の装束で

歩まれます。

 

そして、いよいよ

 

 

弓を持った、流鏑馬の方の登場です

 

 

次々と行かれます

 

 

なかなか勇壮な姿です。

 

大きな掛け声とともに

駆け出して行かれます。

その迫力はすごいものです

 

しかし、

なんとも速い !!

あっという間に駆け抜けて行かれます。

シャッターを切ったのですが

とても捉えることはできません。

来年は早めに有料の観客席を

求めなければ、

的に当った瞬間や勇壮な流鏑馬の

様子は見れないようです。

 

 

 

みあれの神まつり、

今日は流鏑馬でしたが

まだまだいろいろな行事は続くようです。

 

しかし、新緑の中に身をひたす

これだけでもご利益を頂いたようです。

 

 

 

 

 

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牡丹華(ぼたんはなさく)

2017-05-02 19:40:08 | フラワー

二十四節気の穀雨

その七十二候でいうと、

初候(4/20~4/24)が

葭始生(あしはじめてしょうず)

次候(4/25~4/29)が

霜止出苗(しもやみてなえいずる)

末候(4/30~5/4)が

牡丹華(ぼたんはなさく)

ということです。

 

ちょうど今の時期は

牡丹華ということですが

我が家の

牡丹は昨日花を落としました。

 

そこで、玄関には

 

 

ボタンのようですけど

シャクヤクが活けられました。

牡丹と芍薬とても似た花です

どちらもボタン科の花、

 

 

今日活けられた芍薬の方が

ピンクの色が鮮やかです。

 

「立てば芍薬、座れば牡丹

  歩く姿は百合の花」

 

と、美人の姿を歌ったもの

のようですが、

今では知る人も少なく

私もなぜそうなのか

よくわかりません。

 

ただ芍薬と牡丹の違いは

花形で見ると

 

 

ツルンとして細長い方が

シャクヤク、

 

 

葉がしっとりとして

ツルンとしてないほうが牡丹

両方見比べると分かりますが

一つだけ出されたら

見分けがつきにくいかもしれません

 

 

牡丹も元は赤かったのでしょう

今はピンクとかも多くなって

きていますが、

「丹」ということは「朱」という

ことですから、

赤を意味したのです。

水銀のことを「丹」といい

お寺の柱の朱は「丹」水銀です。

 

穀雨が終わると立夏

いよいよ夏がやって来ます。

その七十二候は

蛙始鳴(かわずはじめてなく)

蚯蚓出(みみずいずる)

竹笋生(たけのこしょうず)

 

七十二候の言葉も

季節感を表し、

なかなか味のあるものです。

 

牡丹が終わり玄関には

芍薬が活けられ

しばらくこの朱色を楽しめます。

花が開くのも楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

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食べ放題!

2017-05-01 20:45:42 | 漢字

「食べ放題」

レストランとかのキャッチコピーで

この言葉を見かけますが、

個人的には何とも好きな言葉では

ありません、

何もそこまでして食べなくても

世界中ではまだ飢餓に苦しんでいる

人がたくさんいるというのに

そう、むちゃくちゃ食べなくても

いいのではないかと思います。

 

「放題」

という言葉、漢字を見ると

題を放つ、と書きます。

それが、自由勝手なさま、

自由に思う存分に行う意、

となります。

辞書には、この言葉に

「たい」を添えて使うと

「喰いたい放題」「言いたい放題」

というように、

 

この「題」という漢字も

「頁」に「是」が合わさった

字になります。

頁は頭という意味で

奴隷の頭に印しを付けたことが

この字の起こりのようです。

そこから、めじるし、という意味に

ですから、

「題」には、

ひたい。かしら。という意味があり、

それから、文章の見出し

という意味が出てきた、

ということです。

 

しかし、漢和辞典を引いても

「放題」という言葉は

出てきません。

たぶん日本で作られたのでは

ないでしょうか。

 

広辞苑には、

「傍題」の混同に基づく語

ともあります。

題の主たるものを詠まずに

他のものを詠むこと。

つまり、本題から外れたこと

というような意味でしょう。

 

本題から外れて

自由に勝手に詠んだことから

「自由勝手」というような意味で

もっぱら使われるように

なってきたのでしょう。

 

よくよく見てみると

私たちの口の凄さ、

よく食べるし、よくしゃべる

腹いっぱいになっても

口という煩悩は止まる所を

知らず、別腹とかいって

さらに食べてしまいます。

 

お寺では、

食事作法(じきじさほう)と

いって、

並んだものをすぐに

食べだすのではなく、

『五観の偈』といって

この食事を頂くことを思い

感謝の気持ちを込めて

いのちを頂く、ということで

食事を頂きます。

特に、修行のときは

二食(にじき)といって

朝、昼の二回だけになります。

自分のいのちをつなぐために

最小限の命をいただきます。

ということなのです。

 

キリスト教の方も、

食事の前には

神に感謝の言葉を捧げてから

頂かれています。

 

私たちが普段使っている

五感の働きは

視・聴・嗅・味・触の五つの感覚

ですが、

使っている順番でいうと

視覚、目の働きが80%以上

そして、聴覚、臭覚、触覚と

最後に1パーセントが味覚

ということのようですけど、

しかし、

人間の煩悩というか欲の面から

見ていくと、

人の話は聞かない、

食べたいものはお腹が一杯でも

さらに食べようとする。

見たくないものは

見て見ぬ振りする。

 

この欲望ということから

それを形で表すと

口だけは以上に大きく

ワニのように大きな口で

その上、ペラペラしゃべる

なんとも大変な口、

そして、耳は小さくなって

眼は獲物を探して大きな目玉

臭覚の鼻はほとんど退化したような

漫画で描けば

頭でっかちで

それも口だけが大きく

眼もキョロキョロと

見まわすように大きく

鼻とか耳が小さなものに

なったような、

大変な姿になるのではないでしょうか

 

色々な生き物がいますが

欲望のままに動く人間ほど

手におえない生き物はないのでは

ないでしょうか?

 

それでも、

人と人とは触れ合うことが

できるし、

また教えを聞き、

仏法に触れることもでき、

人生を深く味わう

こともできるのも人間です。

 

どうか、

口だけのお化けにならないよう

心しなければと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

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