熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
何気なく見ているものでも、
なんだかわかったつもりになっている。
先日、NHKのEテレでしかたか?
粘土と針金で「アリさん」を作ってもらう
という企画、
いざ、作ってみて下さい、
といわれると
アリさんの頭は胴体は足は何本??
と、全く分からないのです。
頭があって体があって、と
足は4本かな、6本かな
という具合に、
まともに作れた方は一人も
いなかったのです。
そこでアリさんを拡大してみると
分かったつもりで見たいたものが
自分勝手にアリさんのイメージだけで
「蟻」という昆虫を見ていたということが
分かってきます。
そうやって見ていくと
本当に疑問がわいてきます。
どうやって歩くのか、
6本の足をバラバラに動かすのか
前は前、後ろは後ろと
前後に動かすのか、と
スローモーションカメラで見てみる
1本2本が対になって動かす
右の1本と左の2本が一緒に
次に、右の2本と左の1本が
交互に動く、
そうやってあるいている。
その動作は早くて目で見ただけでは
わかりません。
身近にいる昆虫一つとっても
その実態は分かっていない
というか私たちが知らないだけです
そういうと、
私たち自身もわかっているようで
よくよく見れば
わからないことだらけです。
「みかたがわかれば
ふしぎがうまれる」
私たちも知らないから
わかったつもりになっている
ちょっと観察してみると
わからないことが見えてくる
不思議が生まれてくるのです。
経典とは
私たちが分かったつもりに
なっていることを厳密に明らかに
してくれるチャートみたいな
ものなのでしょう。
先人たちは自分の心を分析することに
心血を注いだのです。
自分の心を覗いてみると
わからないことだらけ
「世の中は不思議の建立」
といわれた方もいらっしゃいます。
知らないから、
呑気に生きられるのかもしれません
知れば知るほど
わからないことが見えてくる
修行は一歩一歩といわれます
では、
なぜ歩むのか
それは自分の過失が見えてくる
からなのです。
わからないことが見えてくるから
歩むことができる
驚きと喜びが生まれてくるから
さらに一歩が出てくる
テレビはたぶん子供向けの
番組だったと思います。
しかし
出てくる言葉には驚かされました。
よくテレビの芸能ニュースでは
「ゲスの極み…」なんとかという
名前というかグループ名でしょうか
耳にします。
よくこういう名前を付けたものだと
私たちの世代のものにとっては
一種の違和感を覚えます。
下衆・下種(げす)という言葉
とても嫌な言葉でした。
「下衆な根性」とか
「ゲス野郎」とか
人を侮辱した言葉です。
しかし、
漢字で書いてみると
「下衆」とも「下種」とも書きます。
それに対しては「上衆」(じょうず)
という言葉もあります。
ふと、漢字を見て思うのですが
「下衆」、下の衆生
ということにもなりはせんかと?
こんな言葉はありませんが、
「下種」、下の種子
種子(しゅじ)とは
物心すべての因と成るもの
という意味もあり、
考えようによっては深い言葉かも?
まったく意味合いは違うのですが、
昔のお祖師さまのなかには
愚かな禿げ頭という意味で
「愚禿」と名乗られた方も
いらっしゃいます。
あえて自分のことを愚かと
これは絶対の自己否定から
生まれ出た言葉でしょう。
ある面、
人間の根性は、
すぐ人と比較するし、
わしの方が上だろうと誇るし、
でなきゃ卑下するし、
また何かやったらその報酬を
要求するというように、
下劣というかゲスな根性しか
持ち合わせていないのです。
反対にちょっといいことをすれば
すぐ得意になる。
その心が人を小さくすするし
小さな世界に閉じ込めてしまうのです。
よく、人間の尊厳性ということを
いいますが、
そこには厳粛性ということも
考えなければいけないと思うのです。
一人ひとりの人間は誰とも
代わることの出来ない存在である
というところに、
一人の人間の厳粛性があるのでしょう。
そこには、
自分には自分の責任がある
ということです。
また、尊厳性ということは
考えて出てくるものではなく
実践として生まれてくるものです。
人間の尊厳性ということを
声高々に言っても、
やることなすことゲスな行いであれば
そこには尊厳性は生まれてきません。
自己関心で小さな個にとどまって
いる限り、私たちは
ゲスな根性しかないのかもしれません
下衆、下の衆生なのです。
その自覚から
聞法という教えを聞く
という行が始まり、
初めて自己関心が破れて、
一切衆生とともにという衆生関心が
生まれてきた、
その喜びが「初歓喜地」、
初めて自己関心が破れたという喜び
そこから、
「上衆」(じょうず)ということが
生まれてくるのかもしれません。
極下衆(ゲスの極み)
ということも、
私たちの世代からすると
毛嫌いする言葉かもしれませんが
静かに思い直してみると
私たちはゲスな根性しか
持ち合わせていないのかもしれません。
であればこそ、
なおさらその行いにおいては
尊厳性のある行に励まなくては
ならないのでは、
どうせ、
ゲスの極みと居直るのではなく
一人ひとりはかけがえのない
厳粛な存在なのです。
一人の人間として責任を
背負っていくところに
人間として生まれた価値を
見出していく、
その行が尊厳性を生み出していく
ということではないでしょうか。
下衆ということも極めていけば
おもしろい!!
「過猶不及」
すぎたるはなおおよばざるがごとし
と読みます、
徳川家康の人生訓にも出てくる
一句です。
「過則勿憚改」
あやまちてはすなわち
あらたむるにははばかることなかれ
と読み、
たまに政治家の方もよく使われます
この「過」という字ですが
お経にも出てくる言葉です。
すぎるという意味もあり、
また、過失という意味もあります。
経典では、
「出過」、「過地」、
「勝過三界道」という文句でも
出てきます。
特に「十地経」では十の地ですから
初地から十地まで修行の段階で
地に入り、地に住して、地を出て
という具合にとても重要な言葉
ではないでしょうか。
面白いのは、
過のすぎるという一面は
過のあやまちということの
認識がないと
次へ進めないということです。
勉強もただ聞くだけではなく
聞いただけでは分かったような
気になりますが、
予習をしていくと
わからない所が分かってくる
つまり自分の過失が発見できる
すると、聞いていても
自分が一番聞きたいことがわかる
そこには勉強の喜びが
出てくるものです。
自分の過失がわかれば
次の段階へステップアップできる
過ぎていくことができる
ということです。
「失敗を拝む」
ということがあります。
失敗したことを有耶無耶に
して覆い隠してしまうと
なかなか先へは進めません。
自分の失敗を感服して見直せば
そこから本当の歩みが出てくる
「大工が見つかった!!」
とも、
お釈迦さまは悟りを開いたときに
述べておられます。
つまり、自分の迷いを構築している
煩悩の構造が発見できた
ということです。
法が見つかったということは
自分の迷いを明らかにしてくれる
道理の法が見つかった
ということです。
一歩が出ないのは
過失を過失として認めることなく
そのままにして次へ進もうと
するから一歩が出ない。
戦前・戦中・戦後ということも
過失ということをどのように
認識するかによって
その歴史観の深さが違ってくると
思います。
そのままにして、
次へ次へと前へ進むことばかり
考えるから
少しずつ歪が出てきているのでしょう。
「過」という意味も
すぎる、という意味もあれば
あやまち、という意味もあります
さらに、すぐれる、という意味も
含んでいるのです。
修行ということも一面には
自分の過失の発見です。
過失を見つけることによって
次の段階へ進むという出過
ということがあり、
その進んで行くこと自体が
修行が勝れている
ということになるのでしょう。
観音さまのお浄土を
サンスクリットでは「ポータラ」
といいます。
それがそのまま音写されて
「補陀洛」と漢字にあてられました。
チベットのダライラマ法王の住まいを
ポタラ宮殿といいます。
やはり日光の近くは
「二荒神社」というように
二荒という名前がよく出てきます。
ちょうど町のど真ん中でしょうか
ちょっとした小高い丘の上に
「二荒神社」(ふたあらじんじゃ)が
街を見下ろすように
鎮座ましましています。
急な階段を上ると、
本殿が見えてきます。
足の悪そうなご婦人
手すりにすがりつくように
上がって行かれます。
ほぼ毎日のお参りということです。
しかし、
宇都宮といえば「餃子」
たくさんのお店が集まって
一つの食堂を形成しています。
だからいろいろの餃子を楽しめる
ということです。
それぞれに特徴があって
味も千差万別、
餃子といってもこれだけ違う味
があるものかと感心します。
この、「二荒」というのは
ポタラ(補陀洛)を「フタアラ」
と読み、「二荒」という字に
置き換えたのです。
すると、
「二荒」は「ニコウ」とも読めます。
その音を取り、「日光」と
いう漢字にあて変えたというのです。
この日光と呼ばれている地域は
奈良の末期、
勝道上人によって開かれ
男体山を中心に観音さまの浄土
(補陀落)と感得されたのでしょう。
この地域は神仏習合の色合いが
濃く残っています。
補陀洛が二荒となり日光となって
その名前が神仏両方に
使われたということのようです。
霧にかすむ中禅寺湖を見ていると
なんとも荘厳な雰囲気
思わずその神秘な姿に頭が下がります。
勝道上人も山を開くにあたって
二度も失敗されたということです。
その湖から流れ出る滝を
「華厳の滝」といいます。
「華厳」というのも「華厳経」という
お経の名前から出てきたのでしょう。
日光ということも
その山全体をいうようで
その中に「中禅寺」や「神宮寺」
「輪王寺」というような
お寺や神社が集まって
その修行の道場となっている
ということのようです。
今ではもう、ありませんが
昔は観音さまのお浄土へ行く
ということがお坊さんの願いだった
それで、補陀洛渡海といって
那智勝浦の浜から
小さな小舟に乗って海に出たのです
もちろん着くわけではなく、
死を覚悟して、というか
死んで観音さまの浄土へ行く
ということが願いだったのです。
そのように「補陀洛」というのは
お坊さん方にとっての
一つの憧れともいうべきもの
だったのではないでしょうか。
ですから、補堕洛という言葉は
二荒となり、日光となって
漢字を変化させながら
神仏両方で使われるように
ポピュラーなものになっていたのでしょう。
家康公も日光・東照宮に祀られ
東照大権現となられましたが、
江戸を見守ると同時に
自分も観音さまの浄土に
生まれ変わるを願われたのかも
しれないのではないでしょうか?
しかし、日光の地も
見直され有名になったのは
外国の方によってということも
面白いところです。
日本最初の西洋式リゾートホテル
が作られたのも
この日光の地なのです。
その最初のホテルが
金谷カテッジインということです。
その片鱗を感じる
金谷ベーカリーで絶品の
ハンバーグ、
パンを刳り貫いた中にハンバーグ
そのパンの味とのバランスは
絶妙でした。
一見まとまりのないような??
緑の葉もあり、小枝もあり
その中で花たちが
風に吹かれているような
そのような姿のようです。
花をクロスに活けこむところが
味噌のようで、
また難しくもあったようです。
右からの姿は
言われてみれば、クロスして
顔をのぞかせているところが
面白い!
上に一本延びている
白のトルコキキョウ
花のアレンジも
いろいろな角度から見ると
また別の違った姿を見せてくれます。
こういう花材を使ったアレンジは
本当に難しいようです。
個性のある、主張を持った
大きい花とか色の激しい花だと
それらを中心に据えて
結構まとまりが付くものです。
しかし、
こういう可愛い花だけを
使うというのはまとめにくい
のではないでしょうか。
物事も人間関係も
個性のある人が一人いると
まとまりやすい、
個性の弱い人たちだけの組織は
やはり周りに対する
働き方も弱いのではないでしょうか?
こういう可愛い花だけでまとめる
そこにはクロスさせたりと
そして花のすがたをアピールする
そういう工夫があるようです。
「ひねりなさい!!」
というギャグもあるようですが
何でも、人でも物でも
一ひねり、ふたひねりが
大事なようですね!!
もう夕やみ迫る5時過ぎ
次第に暗さを増してきています。
五重塔はシルエットのような姿に、
しかしその下ではいろいろな生業が
行われているようです。
その塔のある下の堀では
「アオサギ」が夕ご飯の最中、
暗くなっているのに
この鳥には見えるのでしょう?
上手に小魚を捕まえています。
しばし観察、
10分ほどの間にもう3匹も
捕獲です。
この堀は1号線に面していて
車の通りも多い、
また通勤通学の人も沢山、
その雑踏にはお構いなしで
このアオサギ食事に集中
なにやら、カニのようなもの
捕まえたようです。
泥に潜っているところを捕えたのか
くちばしに挟んで水で洗って
呑みこんでいます。
もうすっかり暗くなったのに
まだ腹ペコなのでしょうか?
もう5分ほどで6時
6時までが食事タイムなのかもしれません。
五重塔の界隈には
まあ、
「空海」という名のついた酒場まで
あるではありませんか!!
近くには民家をしのぐような
大きな建物、
確か?重要民俗資料というのか
木造建築では3階建ての
珍しい建物とか
今では、中ではちょっと…??
有名な… ?
生業が盛んなようです。
もうずいぶん前からある
農機具屋さん
本当の手作りの鋤とか鍬が
店頭に並んでいます。
この近くは九条ネギの産地でもあり
また野菜が豊富にとれるところです。
機械化が進んだ今では
需要の方は減ったのではと思いますが
昔と変わらぬスタイルで販売されています。
いろいろな生業が盛んのようですが
どこから見ても美しい五重塔
静かに見守っているようです。
空という字が気になっていると
いろいろ気がつくことがあります。
仏教ではなくてはならない字、
また、人の名前にもよく使われます。
列車内で見かけたコマーシャル
「SKYSEA」
どうも情報関係の会社のようですが
日本語に直すと、
「空海」!?
わが宗祖のお名前にあたります。
この会社、
空も海も情報が飛び交う
という意味合いで
名前を付けられたのでしょうか?
それにしても、
わが宗祖もごつい名前を
名のられたものです。
「空と海」
これだけ大きなものは他には
ありません。
経典では喩としては
「海」という字がよく使われます。
「衆生海」とか「願海」
いつもお唱えする「観音経」には
「福聚海無量」と、
広くて深いものの象徴として
「海」という字が使われます。
仏さまの名前では
「虚空蔵菩薩」という、
「地蔵菩薩」に対して
虚空の蔵より智慧を雨降らす
というようなハタラキで
その名前が付いたのです。
青空の虚空に浮かぶ
「富士」の姿も素晴らしい!!
広大な空を仰ぎ見ると
そこからは無限の働きを
感じとることができるようです。
お天道様が照らし雨を降らす
そこから生き物が力を得て
成長していく、
まさに虚空の蔵のような気がします。
しかし、また
「虚空」という字も引っくり返すと
「空虚」となり、
まったく違った意味合いの
言葉になります。
空過者(くうかしゃ)という
言葉もあります。
虚しく日を過ごす、ということです。
これほど
勿体無いことはありません。
せっかく頂いた命、
虚しく日を過ごしてしまっては
一番悲しいことでしょう。
しかし、
青空は見ているだけで
心が広くなり
自分の心までが
大きくなったような気がします。
そこに浮かぶ雲を眺めているだけでも
なにかしら楽しむことができる
のではないでしょうか。
なぜかわかりませんが、
青い空を眺めていると、
心が落ち着くものです。
ちょうど阿蘇のいった折、
向こうには阿蘇五岳(釈迦涅槃像)、
不思議な雲が沸き立っています。
空を眺め、雲の動きを見る、
とても雄大な気持ちになります。
ところが、私たちにとっては
「空」(そら)という字は
ソラなんですけど、空をクウと
読む癖が付いてしまっています。
「色即是空・空即是色」の
『空』なんです。
お経の中には
否定的な言葉として、
空や無という字もあり不という字も
不動明王と、まれに無動とも、
動かない、心が一点に集中して
ということで、不動と
また、物事は常に変化する
とうことで、
諸行無常の無という。
「一切皆空」といえば、
すべてのものは固執することは
できない、ということで
すべては空なのだと!
ところで、「空」という字は、
ウカンムリではなく
(アナカンムリ)穴かんむり
で出てきます。
字の成り立ちは、
もともとは昔の住居のあな
ということです。
そのことが、穴居の住まいは
その天井が天空ににている
そこから「空」という字ができた。
なんとも不思議な
地面の穴から、天空のそらという
字が生まれてきた。
地面から空が生まれてきた。
という字の成り立ちも面白い。
しかし、
もう一つ解せないのは
玄奘三蔵はなぜ
「空」という字に翻訳したのだろう?
経典では
訳しきれない文字や
意味自体が幅が広い字は
訳さずにそのまま音写したのです。
般若も波羅蜜多もそうです。
簡単には般若は智慧
波羅蜜多は彼岸へ渡る
ということなんですけど、
結構一言では言い表せない
内容を含んでいます。
それで敢えて訳さず
サンスクリットをそのまま音写した
今では深く追求することもなく
すっかり日本語になっています。
ちなみに、
「ダンナ」ということも、
ダーナをそのまま当てたのです。
もとは布施という意味ですが、
「檀蜜」さんの檀もそこから、
檀那波羅蜜の略ということの
ようです。
空、
サンスクリットでは「シューンヤ」
といいます。
「舜若」(しゅんにゃ)と
音写する場合もあります。
辞書によると、
一切は因縁によって生じたもの
だからそこに実態や本体はなく
空(むな)しいこと。
空は虚無ではなく、
空を観ずることは
真実なる価値の発見、
というように出ています。
散歩していると、
「そらのくるま」?
いやいや、空きがありますよ!
ということですが、
仏教の根本の教えである
『空』ということが、
世の中では、
「あいてますよ!」
という意味で使われる。
空の変化も美しい!!
はや、秋の空に変わっています
「百螺祈願」での2日目
阿蘇の「国造神社」から阿蘇神社へ
練行の出発点となるところ
もうコスモスも咲いて
ススキの穂が風に揺れています。
清々しい秋の空。
「空、空、大空」という言葉も
仏教ではいうようです。
何もない空虚ということもあります。
『空』という字
いろいろ変化を見せるのも
面白い使われ方があるのも、
不思議な文字ですね。
白い細長い花器に活けられた
真っ赤なバラ群
白い色と赤いバラの対比が面白い
今回は時間がなくて、
教室で活けなくて家での作品と
写メで取って先生に送ると、
「ハートのマークが可愛いね!」
の返事が返ってきたそうです。
どこに ??
たぶん、このみどりの線が
ハートの形になってるのかな?
なるほど、 見方によっては
ハートの形ですね。
右側の形もまた別の表情を
あらわしています。
もう一度正面からに直してみても
花の塊を囲むように
緑の線がいい表情を見せています。
ふと気になったのですが
たまに見かけるこの黄色の花
なんという花でしたでしょうか?
ハートの形といわれて
何回も見直した次第です。
天候不順の毎日、
その合間を縫うように
見事に晴れた10月2日
西京極幼稚園の運動会が
行なわれました。
いつもながら楽しみにしています。
見ているこちらまでが
子供の世界に
引き込まれていくようで、
純な世界を見せられたようです。
お経の中に
「園林遊戯」(おんりゆげ)
という言葉が出てきます。
子供が無邪気に林で遊ぶ
そのような心境、
一つの修行の段階で、
最初はラクダのように従順に
中はライオンの如く勇気をもって
最後は子供が林で遊ぶように
というように、
悟りの境地の最終局面は
子供が林で遊ぶ
そのようなことでしょう。
競技では皆が力を合わせ
一つのことを成し遂げる
そのことを自然に身につけ、
遊戯ではみんなで
そろってやることの楽しみを
学ぶのでしょう。
お子さんたちも
3年という月日は成長めざましい
ものを感じます。
年少さんのゆり組は
動いているだけで可愛いものがあり
年中さんのすみれ組になると、
他との競争心もめばえ
他の組に負けまいと頑張る姿
その成長の過程は
見ている私たちにも感動を
覚えます。
それが年長さんのさくら組ともなると
遊戯にしても
足の動き手の動きがきまるというか
止めるところは止める
伸ばすところは伸ばす
とても美しい姿になって
3年間でここまで子供たちが
成長していくかと
驚きさえ感じます。
最後のプログラム組体操は
幼稚園児がここまでやるかと、
その揃った姿は見事なものです。
今年の天気には悩まされた、
という声を耳にしました。
雨が続き外での練習ができない。
当日の運動会がぶっつけ本番と、
先生方が一番ハラハラドキドキの
運動会ではなかったのではないでしょうか。
でも、なんでもない日頃の動き
ならんで歩く、整列する、あいさつする
決まりをまもる、
そして毎日の参仏
その積み重ねがあればこそ
本番での見事な競技と演技
だったのではないでしょうか。
日常生活で汚れてきている
私たちの心に
本当に清々しい風を吹き込んで
くれたような運動会でした。