家からほんの近くに
道元禅師示寂の地という
ところがあります
偶然にも出逢ったのです
烏丸通の高辻通を西へ
左へ行くと
高辻通もいろいろあって
繁盛神社という
ご利益をそのまま名前にした
そういう小さな神社があり
そこを通り過ぎ
菅大臣神社という
菅原道真が生まれた地
ここに邸跡があったと
伝えられています
そこを過ぎて
高辻通と西洞院通の
交差点を過ぎると
道元禅師が示寂された地が
小さな場所で残っています
中に入ってお参りすることも
出来るようで
柵の中に入り
お参りをしました
ふと、
こういう町のまん中で
亡くなられた
その跡地には立派なお寺が
建てられることもなく
ひっそりと
最後の足跡を残しています
いかにも道元の生き様を
見るようです
前の立て札には
道元は正治2年(1200年)
京都で生まれ
比叡山で出家
その後、
建仁寺で栄西の門下に入り
禅を学び、
貞応2年(1223年)入宋
帰国後は曹洞宗の開基となる
興聖寺を深草に建立
今は宇治の地に移り
紅葉の頃にはとても賑わいを
みせています。
晩年には、権勢から逃れ
福井の地に永平寺を建立して
静かな地で専ら座禅に
励まれました
しかし、病になって
永平寺も弟子に譲り
建長5年(1253年)
俗弟子の寛念の邸に移り
(この地がその場所です)
この年の8月に54歳で
その生涯を閉じられました。
講義の中でも
道元の話はよく出てきます
先生もその生き様には
深い感動をもっておられた
のです。
思い出すのは
道元が宋に行った時
港に着くと
向うの老僧がやって来て
日本から船がついたので
椎茸を買いに来た
というのです。
道元がその老僧に
買い物なんかせずに
もっとお寺で勉強したら
どうかというのです
後で、その老僧が
自分が目指すお寺の住職
ということを知るのです
それから
典座(てんぞ)といって
道元の寺では
料理を作る僧が一番偉い位に
なったということです。
道元は日常生活のすべてが
禅であるということで
「行住坐臥」すべてが
禅に叶わなければならないと
ひたすら座禅をするという
「只管打座」
を中心に据えられました。
座禅して仏になるのでなく
座禅そのものが仏なのだと
一時座れば、それが一時の仏
であるという
仏という固定したものでなく
動きのある、行仏という
ことを説かれたようです
「只管打座」
只管、ただひたすら
打ち座る
とても強い力のような
普通でいう「ただ」とは
違うのです
これしかないというような
そういうものを感じます。
意外と
このような近くに
道元禅師の示寂の地がある
というのは驚きです
そしてまた
このような街の真ん中で
亡くなられたというのは
人込みの中で亡くなる
永平寺という立派なお寺を
持ちながら
亡くなるのは街の中で
何かしら
道元の生き様を表している
そのように感じました。