本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 4/15~4/21 「 有漏路より無漏路へ帰る一休み … 」

2013-04-14 15:54:52 | 今週の言葉

有漏路 ( うろじ ) より

 

 無漏路 ( むろじ ) へ帰る

 

     一休み ( ひとやすみ )

 

  雨ふらば降れ 

 

     風ふかば吹け

 

                          一休

 

 

一休さんの歌です。

歌の中にある 「 一休み 」 が 『 一休 』 という

名前の由来でしょうか。

 

 『 漏 』  ( ろ ) ということですが、

「 もれる 」 という意味です。

 人間から意識するしないにかかわらず、

漏れ出てくる、ということで、

煩悩のことを表現しているのです。

 「 漏 」 という使い方もおもしろい、

雨漏りも、最初はポタリ・ポタリですが、

ほっておくと仕舞に家中水びたしになってしまいます。

煩悩も最初はわからないのですが、

気をつけてなかったら、人間煩悩だらけになってしまい、

ついには煩悩につぶされてしまいます。

 

 「 有漏 」  は煩悩がある、ということ

 「 無漏 」  は煩悩が無くなった状態、

ということです。

 

 お経を読んでいますと、

「 人間には有漏しかない 」 と書いてあります。

では、煩悩しかない人間に悟りを開くということはあるのか ??

ところが幸いなことに、

「 無漏の種 」 も宿していると書いてあります。

厳密な言い方ですが、 「 依附 」 ( えぶ ) という

有漏の心にくっついて、本来の無漏の心がある、 と。

そこに、智慧とか信仰が生まれてくると、

それには、お経の最初にあるように

「 如是我聞 」 というように 

『 聞く 』 ということが大切なのです。

 

 玄奘三蔵法師は、それでも厳しく見ておられて、

「 人間のしていることはみんな有漏である。」

「 教えを聞くといっても有漏なのだ。」

けれども、

「 有漏であるけれども、聞法ということは

 無漏を開く唯一のチャンスにもなる。」

とも言っておられます。

 難しい言葉では、

「 聞法も有漏だけれども、

  無漏を開く増上縁にはなる 」

 

 だから、私達にとっても

縁を見つけては教えを聞き続けていくしかないのです。

そのことのみが、

無漏を開く唯一の手がかりになるのです。

 

 そのことを 「 一休さん 」 は

「 有漏路より無漏路へ帰る 」 と、

人間という身体 「 身 」 ( み ) を頂いた

有漏の体を受けた、

ということは、無漏に触れる

唯一のチャンスなのだと。 

だから、人生の荒波はすべて受け止めていこう

ということだと思います。

 「 雨ふらば降れ、風ふかば吹け 」

というのも、のんきな話ではなく、

すべての苦労が 「 有漏の身 」 を持った

人間が無漏になる機会を与えられた

すべての苦労は自分のものとしていく、

という覚悟の歌のようにも思います。

 

 「 有漏 」 「 無漏 」

うろうろ、むろむろ、  と

難しい言葉ですが、

たまにはこういう言葉を受け止めることも大事だと思います。

 

 

 

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今週の言葉 4/8~4/14 「一粒の種が落ちたところが、… 」

2013-04-07 18:24:25 | 今週の言葉

「 一粒の種が

   

   落ちたところが、

  

     生涯生きる場所。 」

 

 毎月届く、サントリーの 「 美感遊創 」

今月号は 「 大樹  聞こえてくるのは命の賛歌 」 

ということが、一面を飾っていました。

書いておられるのは、巨樹写真家 「 高橋弘さん 」

 

 「 大樹が与えてくれるもの。 愛と感謝。」

 「 大樹が教えてくれるもの。

   命の根源は一つ。 」

 

その中に出てくる、

 「 一粒の種が落ちたところが、

     生涯生きる場所。 」

という言葉にとても惹かれました。

 

 なんでもない言葉のようですが、

私には響いてきたのです。

 

 以前聞いた言葉に 『 落在者 』 という

このことが頭の片隅に残っていました。

 本来の意味とは違うかもしれませんが、

「 落在者 」  …

現に今ここにある自分、ということでしょうか。

「 今自分がいる境遇は、

それは、自分が求めたもの 」

ということがあります。

 そこに、存在の自覚ということもあるようにおもいます。

 

 一粒の種が落ちた、

石の上や水の中では育ちません。

やはり条件が必要です。

そしてやっと芽が出たとしても、

大きな木の下であれば、立ち腐れになってしまいます。

 

高橋さんは、

 「 木は漫然と生きているわけではないんですね。

   種が落ちたところ、そこが生涯生きる場所なんです。

   日照条件が悪い、土壌が貧しいといった

   環境下でも潔く運命を受け入れ、

   制約と競合の中で自らの命を最大限に

   生き切ろうとする強さ、

   それは見事なものですよ 」

と述べられています。

 

 環境を変えることなく、自分を変えて生き延びていく

何か教えられるものを感じます。

 

  

 

毎朝お参りするお地蔵さまの横に、

今年もしっかと芽を出し、

根を張っている木があります。

 

   

 

たまたま、どこからか飛んできた種が

このコンクリートの割れ目に入ったのでしょう。

そこには程よい湿気もあり、土もよかったのかもしれません。

また、裏ということもあり人目にもつかず

切られることなく育っていったのでしょう。

 しかし、これから先はコンクリートを壊すということで、

たぶん切られてしまうかもしれません。

 

 だから、大樹になるということは

並大抵のことではないのです。

 私たちも同じことで、

与えられた環境をどのように生かしていくかが

大きく大樹になっていくかどうかの

鍵のようです。

 

 三浦先生の言葉を思い出すのですが、

 「 人間、健康すぎても仏法は聞けないし、

   反対に、病気ばっかりしていても

   教えは聞けないものだと、」

健康すぎても、人の痛みはわからない

ということもあり、聞法という

教えを聞くとは難しいこともあります

病気しすぎても、聞く力をなくしてしまいます。

 

 仏教でも、菩提心とかほとけの心を

『 種 』 という表現をします。

この 『 種 』 の芽がどのように

育てていくかが大問題なのです。

 苦しみ、悩み、悲しみ、

そして感動ということも心の種を育てる

大きな肥やしになるのです。

 

 自分の生きる場所を見定めていく、

私たち人間にとっても大きな問題です。

 

 

 

 

 

 

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今週の言葉 4/1~4/7 「 死は、生命の最高の発明だ 」 

2013-03-31 18:43:25 | 今週の言葉

「 死は、生命の

 

  最高の発明だ 」

 

        スティーブ・ジョブズ

 

 彼の言葉を聞いていると、どうも仏教の香がする。

有名な、

 「 ハングリーであれ、愚か者であれ 」  

( Stay hungry 、 Stay foolish )  は、

禅宗の教えで、

 『 愚の如く、魯の如く、よく相続するを

   主中の主と名づく 』

を、訳したものといわれている。

 『 愚 』 も、おろかという意味、

そして、 『 魯 』 も、おろか、という意味です。

よく、お坊さんが自分のことを謙遜して、

「 愚僧 」 といいます。

また、親鸞はご自身のことを 『 愚禿 』 

( おろかなはげあたま ) と、

自分の立場を、一番下におかれています。

「 無知の智 」 とはソクラテスの言葉です。

そして、 『 相続 』  ということを

「 ハングリー 」 と表現されたのでしょう。

そこには求道していく力を感じます。

満腹になれば、落ち着いてしまって、

道を求めるということもなくなってしまいます。

 

 「 死は、生命の最高の発明である 」

 

この言葉を聞いたとき思い出したのは

スティーブン・スピルバーグ監督の 

『 A.I. 』  という映画です。

( Artifical )  人工の  

( Intelligence )  ( 知能 )

という、人型ロボットの物語です。

ロボットに愛情はもてるのかというのが

スピルバーグ監督のテーマだったようです。

 子どものいない夫婦にロボットがやってくる。

( 実は不治の病の子供がいるのです )

その子どものロボットは絶対に裏切らない

愛情を持つようにプログラムされている。

 ところが、不思議にも

本当の子供が快復してその両親の元に返ってくる。

 ということで、ロボットの子どもは捨てられる。

それからいろいろあって、

そのロボットは海に落ちて海の底に沈んでしまう。

 それから、 2000年が経ち  …

人類は滅亡してしまう。

 

 未来の生物が来て、海の底でその子どものロボットを発見する。

大変興味深げにその子どものロボットを調べ、

過去の人類の情報を拾い上げる。

そこで、この子どものロボットの愛情に興味を持ちます。

 「 何か欲しいものはあるか ? 」

未来の生物は尋ねます。

その子どものロボットが未来の生きものに頼みます。

 

 「 もう一度、お母さんに会いたい。」

 

 「 お母さんの情報は何かあるか ? 」 と、

すると、ポケットからお母さんの髪の毛を取り出します。

 「 これだけでは、お母さんを作り出すことは出来ない。

   出来ても、一日だけならなんとかしてあげよう。

   そのかわり、君のいのちも亡くなる。」

このままでいれば、この子どものロボットは

永遠に生き続けることができる。

 お母さんを復元してもらえば、それで君の命も亡くなる。

子どものロボットは迷います。

 

 「 でも、もう一度、お母さんに会いたい ! 」

 

未来の生物は、一日だけのお母さんを作り出します。

子どものロボットはお母さんの胸にだけれて、

お母さんと一緒に一日のいのちを生きるのです。

そして、お母さんと一緒に死んでしまいます。

 

 この映画を見たとき、

「 いのち 」  そして  「 死 」  ということを

考えさせられました。

 

 不思議なことに、この映画はアメリカでは不評で

日本での興行がヒットして収益が出たということです。

 

 「 A.I. 」  意味は 人工知能ということですが、

キーボードでは 「 あ.い. 」 と打ち込みます。

『 愛 』  というメッセージも

込められているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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今週の言葉 3/25~3/31 「 だいじょうぶ! みんなちがって … 」

2013-03-24 20:36:21 | 今週の言葉

   だいじょうぶ !

 

  みんなちがって

 

  みんないい

 

     「 だいじょうぶ3組 」 より

 

 

 来月公開される映画  「 だいじょうぶ3組 」  のなかで、

赤尾先生役の 『 乙武洋匡 さん 』  の生徒に呼びかける

言葉です。

 乙武さんが発する言葉なのでなおさらいっそうの重みを感じます。

「 だいじょうぶ ! 」 という一言にも安心感を覚えます。

 

 『 松浦西小学校5年3組の担任としてやってきたのは、

   手と足がない先生でした。! 』

 

という、原作は 「 乙武洋匡さん 」 の映画化です。

 予告編しか見てませんが、興味を持てる作品のようです。

この映画のホームページには監督さんや国分太一さんの

ご苦労話とかもありますのでご覧になってください。

 

 「 みんなちがって みんないい 」  は

ご存知の 『 金子みすず 』 さんの

「 わたしと 小鳥と すずと 」 の詩の中にあります。

 

     わたしが両手をひろげても

     お空はちっともとべないが

     とべる小鳥はわたしのように

     地面 (じべた) をはやく走れない。

 

     わたしがからだをゆすっても

     きれいな音はでないけど

     あの鳴るすずはわたしのように

     たくさんのうたは知らないよ。

 

     すずと、小鳥と、それからわたし、

     みんなちがって、みんないい。

 

というのが全文です。

 お経の中にも同じような意味合いの言葉が出てきます。

 

  『 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光  … 』

そして、無量の色があって、無量の光を放っている。

 

と、赤い色は赤い光を放ち、青い色は青い光を放っている

というのです。

 あたりまえのようですが、

これを自分に置き換えてみますと、

どうも、素直に自分の光を出していないように思います。

自分といっても、わかったようで、

念押して聞かれると、自分とはわからないものです。

 

 お釈迦さまの悟りとは本当の自分の姿が見つかった、

ということだと思います。

 また、「 悟った 」  といっても、

具体的には、今まで考えていた自分の考え方が

全部間違っていた、ということを知ることでしょう。

 『 般若心経 』 のなかにある、

  「 一切顚倒 」  ( いっさいてんどう )

すべてはさかさまであった。

ということの認識だと思います。

 

だから

 よく、「 事実 」 ということをいいますが、

人間の目では事実を見ることが出来ないのです。

 

 簡単には、

根底には 「 自分がわからない 」 ということがあります。

自分がわからない、と言うとそれだけではすまずに、

今度は、本当でない自分を本当のものとして、

それに執着した見方をしてしまいます。

そうすると、自分が可愛いというものがあるものですから、

自分にとて都合のいいものを愛する。

それが、 「 煩悩 」 では 『 貪 』 ( むさぼり )

という形で現われてきます。

今度は反対に、自分にとって都合の悪いものは憎む。

これが 『 瞋 』 という ( いかり ) になってくるのです。

 

 そういう心が深いところで流れているのですから、

本当の光が出せないのです。

 本当の自分を知らないという 「 無知 」 が、

可愛がるという 「 むさぼり 」 と

憎むという 「 いかり 」 を生み出し、

本当の自分の姿を隠してしまっているのです。

 

 「 みんなちがって 」  というのは

無知によって勝手に、自分の都合で

自分勝手な自分を作り出しているのですから、

みんな違っているのです。

 で、 「 みんないい 」  となってくると、

そこには、自分の都合で人を見るのではなく、

好き嫌いを超えて、そのものの本当の姿が見えたから

ちがっていても、みんないい、

ということになると思います。

 

 自分の姿を本当に知らなければ

人を認めることは出来ません。

 ということは、人間の心の構造がわからないと、

お互いがわかりあうということはないのです。

 でなかったら、ただの妥協になってしまいます。

 

 お釈迦さまも悟りを開かれたとき、

  『 大工が見つかった ! 』

と、お経には書いてあります。

 それは、人間の心の構造がわかった。

ということでしょう。

 

 子どもたちには

「 だいじょうぶ !  みんなちがって みんないい 」

ということでいいと思うのですが、

さいど、私たちは

「 ちがっていて なんでいいのか ? 」

と、問い直して考えてみる必要があると思います。

 

 

   

 

 

 

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今週の言葉 3/18~3/24  「 耳にきき こころにおもい 身に修せば…

2013-03-17 18:39:25 | 今週の言葉

   『 耳にきき 

    

    こころにおもい

 

     身に修せば

                     しゅ

   いつか菩提に入相の鐘 』

           ぼだい     いりあい   かね      

 

 

 今日から 「 お彼岸 」 です。

20日が彼岸の中日、当院では彼岸供養が勤められます。

 

 今週の言葉は古歌として古くから言い伝えられています。

ちょうどお彼岸ということもあり選びました。

 

 お彼岸、彼の岸へ渡って行く、という。

此の岸から彼の岸へ、  …  …

 人間ふと気になるものです。

このままの自分でいいのだろうか ?

人間何のために生まれてきたのだろうか ?

何か一番大事なものを忘れているような、

遊んでみても、何か誤魔化しがきかないような、

そのように、なにか一番気になるものが

心の根底に流れているのです。

 その気にかかる世界を 「 彼岸 」 とよんだのです。

 

 仏教では 「 三学 」 ということをいいます。

それが 『 聞 ・ 思 ・ 修 』 ということです。

 『 聞 』  聞くということが修行の第一です。

お経の文句も  『 如是我聞 』 という、

聞くということから始まります。

 ほとけの世界も 「 声聞 ・ 縁覚 ・ 菩薩 ・ 如来 」

とあります。

 声聞 ( しょうもん )  声を聞く、と書きます。

今でいう学生です。 先生の話を聞く。

人の話を素直に聞く。  とか、

 宮沢賢治の 『 雨にも負けず 』 の詩の中に

 「 あらゆることを

   自分を勘定に入れずに

   よく見聞きして分かり

   そして忘れず 」

というところの、 

 自分を勘定にいれず、よく見聞きして

という、

人の話を聞くときには、自分の考えは括弧に入れて

自分を無にして、聞くということです。

 

ほとけの世界の中でも、声聞・縁覚 という

 「 聞く 」 といっても、声聞というだけではなく

縁覚ということも聞くということには変わりはありません。

 一を聞いて一を知るのを、声聞といいます。

  ( ひとつひとつ聞いていくのです )

 一を聞いて十を知るのを、縁覚というのです。

  ( 十二因縁の縁を覚る、ということで縁覚 )

いずれにしても 「 聞く 」 ということが修行の要です。

 そして、よく考える ( 思 )

そこで、実践してみる ( 修 ) 。

実践したら、必ず疑問が出てきます。

だから、また聞く、そして考える

考えて、また実践してみる。

やってみたらわからないところが出てくる。

そこのところを、さらに聞いていく。

 修行といっても、この繰り返しです。

 

わたしたちの日常生活においても、

ええ頃加減に聞いて、考えもせず、やってみるから

失敗してしまうのです。

 

 そこに問いが出るということが大切です。

問いが出なかったら、聞いてないのと一緒です。

本当に聞けば必ずといっていいほど問いが出てくるものです。

 道を聞くときも、分かったつもりで聞くと

必ず迷います。

確認しながら、頭に叩き込むように聞かなければ、

間違ってしまいます。

 だから、本当に聞くということは

自分で問いを発しながら、聞くということです。

 

 彼岸というほとけの世界へ渡って行く、

といっても、何も特別なことではありません。

 

 『 道という言葉に迷うことなかれ

    朝夕おのが為す業と知れ 』

 

ということがあります。

 毎日に日暮の中で、

常に、聞き耳を立てて、問いを持ち

絶えず感激を新たに取り組む姿勢が

彼岸の道にかなっていると思います。

 

 

 

 

 

 

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今週の言葉 3/11~3/17 「 いつもいっしょに生き、息をする。だから一人であって一人でない。」

2013-03-10 16:31:49 | 今週の言葉

 いつもいっしょ

 

   いつもいっしょ

 

 これがわたしの信仰信念

 

   木とも石とも

 

  蝶とも鳥たちとも

 

    いっしょ

 

 人間はもちろん森羅万象

 

  いつもいっしょに生き

 

 いつもいっしょに息をする

 

 だから一人であっても一人でない

 

    沈むことがあっても

 

     すぐ浮きあがる

 

   ふしぎな奇跡が起きてくる

 

     いつもいっしょ !

 

    ああこの愛のことばを

 

      唱えてゆこう

 

          坂村真民

 

 

 「 いつもいっしょ 」  いいことばです。

わたしたちが毎日唱えているお経の

一番最後には 「 廻向文 」 を唱えます。

 

 『 願わくばこの功徳を以って、

   あまねく一切に及ぼし、

   われらと衆生とみな共に、

   仏道を成ぜんことを 』

 

ここで、いう  「 われらと衆生と  ともに… 」

ということが大切です。

ここが大乗仏教の真骨頂だと思います。

 ほとけの位として 「 声聞 」 ( しょうもん ) とか

縁覚 ( えんがく )  または 独覚 ( どっかく )

ということがありますが、

「 縁 」 とか 「 独 」 という字を使うように

各人各人がという、仏道を求めるのですが

立場が個人的ということを表しているのでしょう。

声を聞くというのも、悟るといっても個人的

だから、 「 独 」 という字を使うのです。

 お経の中には 『 各発 』  ( かくほつ ) と

『 共発 』  ( ぐうほつ ) という言葉ででてきます。

自分個人が願いを起こして求道すると、

ということで 『 各発 』 、

それに対し、「 衆生と共に 」 というところに

『 共発 』  、共に願いを起こす

ということがあるとおもいます。

 

 これは私事で申し訳ないのですが、

わたしの経験として当てはまるかどうかわかりません。

東寺というお寺にいたとき、

わたしの師匠である 「 三浦俊良先生 」 は

「 洛南高校 」 を建て直すという時、

とても強いリーダーシップというか願いを起こされ、

外の先生方を引っ張っていかれたのです。

最初、起こされた願いは 「 各発 」  という

個にとどまっていたかもしれません。

 わたしなんかの場合、

「 牛に引かれて善光寺参り 」 ではないですが、

先生の願いに引きずりこまれるように、

自分なりの使命感を感じたのです。

先生方もそれによって願いを起こされ、

洛南高校を再建する、という願いが

全職員みなの願いになっていったのです。

そこに 「 各発 」 という願いが

「 共発 」 という願いに変わっていったように思います。

 

 大乗仏教の 「 大 」 といっても、

大きい小さいの大小ではないのです。

最初は一筋の小さな願いかもしれませんが、

それが内面の深さに広がっていくのです。

無限に広い心境が開ける。

そこにすべての人を包んでいけるような

広い世界が広がっていく、

そういうことで 「 大 」 という字がつくと思います。

 

 だから、 「 みんないっしょ 」  といっても

ただ妥協しあうというのではなく、

そこには 「 個 」 に目覚めた願いを起こす人が

あってのことだと思います。

そこに 「 みなともに 」 ということも成り立つ。

 お釈迦さまが悟りを開かれたからこそ、

牛も馬もすべての生きものたち、

そして草花たちまでが自分たちの命の意味を見出したのです。

お釈迦さまはの悟りは、最初は 「 個 」 だったのかもしれませんが、

内面に深い広い世界を見出されたとき、

その悟りはみんなのものになったのです。

 

 坂村真民先生は 『 いつもいっしょ 』 と

大変わかりやすいことばで語られていますが、

そこには大変深い意味が隠されていると思います。

そのことが少しでも実践できれば  …  

と願っています。

 

 

 

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今週の言葉 3/4~3/10 「 いっぽ、 いっぽ、 にっぽん 」 

2013-03-03 22:16:22 | 今週の言葉

「 いっぽ、いっぽ、にっぽん 」

 

2013年も、いっぽ、いっぽ

 

みんなで力を合わせて、いっぽ、いっぽ。

 

一生けん命がんばって、いっぽ、いっぽ。

 

たまには、がんばらないのも、いっぽ。

 

そうやって、いっぽ、いっぽ、

 

前へ歩いていきましょう、にっぽん。

 

いいエコは、ゆっくり。

 

      YAZAKI

 

 

先日、新幹線の中で座席の目の前にあるのを見つけました。

 

    

 

簡単ながら、よくよく考えると、

意味深い言葉です。

 「 矢崎総業 」 という会社のイメージ広告でしょう。

ここの会社、何気ないところで私たちにとってとても身近な会社です。

ガスのメータを作っています。

自動車の関連部品、電気や電話線などなど、

隠れたところで私たちを支えてくれている会社なのです。

 

 私たちの修行も 「 いっぽ、いっぽ 」 です。

仕事も 「 いっぽ、いっぽ 」 です。

 アイデアが閃いたり、勉強していて、

「 そうだ !! 」  と頷いたり、

感動することは多々あるのですが、

それが長続きしない。

仏道修行も 「 初歓喜地 」 ( しょかんぎじ ) といって

最初は感動です。

感動がなかったら始まりません。

ところが長続きしない。

そこから始まる修行が 「 いっぽ、いっぽ 」 なのです。

垂直上昇ということはありません。

 信仰も 「 牛のよだれ 」 というように、

絶え間なく、 「 いっぽ、いっぽ 」 です。

どこまで続くのだろう ??

と思うかもしれませんが、

「 いっぽ、いっぽ 」 歩む道程が見つかった

ということが大切なのです。

たどり着くつかない、は問題ではありません。

歩む道が見つかった、方向が決まった、

後は一筋に 「 いっぽ、いっぽ 」 です。

悟りといっても、その歩む方向が見つかって

「 いっぽ、いっぽ 」 歩んでいる姿だと思います。

 

  「 いっぽ、 いっぽ、 歩みつづけましょう。 」

 

        

 

 

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今週の言葉 2/25~3/3 「 平凡な一日が集まって、私どもの人生を

2013-02-24 17:21:45 | 今週の言葉

 平凡な一日が集まって

 

私どもの人生を作っている。

 

 昨日を背負い、

 

 明日を孕める

              はら

尊い永遠の一日。

 

 

 平凡そうに見える毎日、

一年といえども、その毎日の積み重ねです。

一生といっても、 

平凡に見える日々の集まりなのです。

 

 いつも、お参りの後に歌っている

『 法の鐘 』  という歌があります。

私にとっては歌い聞くたびに新鮮に響いてくる歌です。

 

 2番の歌詞が、

  心のそこからうなずける

  明るい道が見えてきた

  これから先の日暮は

  幸か不幸かしらねども

  たしかな覚悟できました

  雨も嵐もあるだろう

 

この歌は5番まであるのですが、

別の機会に紹介します。

 

 やはり、人生死ぬ間際まで何が起こるかわかりません。

けど、その歩んでいく方向が見える

ということが大切なのです。

 この歌には、1番から5番まで 『 道 』 

ということが繰り返し出てきます。

 「 明るい道 」  3番は 「 生きる道 」

4番 「 のりの道 」 そして 「 悟りの道 」 というように、

 仏道修行、とか 剣道・柔道、茶道と

人生を極めるものには必ず 『 道 』 という名前がついています。

 

「 道、道程 」

こういうことは、行き着く先を表すのではなく

道という、その道程には終わりがない、

ということをいっているのです。

仏になったら終わりという到達点ではなく、

「 仏道 」 ということは、

仏になるという道程を表している、ということです。

 少し難しいかもしれませんが

今読んでいる 「 安田先生 」 の言葉を紹介します。

 

 あるものは無限の道程です。

 道そのものが無限なんです。

 無限に展開してやまんという。

 成仏ということも一つの道程です。

 だからして、迷いは悪いもの、悟りはよいもの

 そんな簡単に割り切れるような話ではない。

 迷いも悟りも道程なんです。

 人間はその迷いを捨てて早く悟りを得たい

 というのが人間の考えです。

 道は無限だし、人間は有限でしょう。

 気持ちが急ぐ

 人生は短いと。

 道は永遠であると、

 しかし、道に目覚める人生は

 一度しかない。

 朝に道を聞いて夕べに死んでもいい、

 こういうわけで、その目覚めるために生きている。

   …

 我々は、ボーンとただ生かせれているのではない、

 大きな課題を背負っている。

 成功とか失敗とか、儲けたとか

 そんなことで大切な意味を失ってはいけない。 

 

と、続いていくのですが、

 道は永遠に続くのですが、

その永遠に続く道を一歩でも歩まさせて頂くという

その道の中にあるという、

その自覚が永遠ということに触れる

尊い一日になると思います。

 『 永遠の今 』

ということがあります。

「 そうだ ! 」

と、頷くのは今この一瞬です。

その心が無限に続く道程を歩むのです。

その心を菩提心というのでしょう。

その一瞬一瞬が永遠ということに触れていくのです。

 だからこそ、

『 永遠の尊い一日 』

と言われるのだと思います。

 

 

 

 

 

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今週の言葉 2/18~2/24 「 自らを灯火とし 自らをよりどころとせよ 」

2013-02-17 18:43:28 | 今週の言葉

  自らを灯火とし

 みずか    ともしび

  自らをよりどころとせよ

  みずか

                   釈尊

 

 2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになった

『 涅槃会 』 です。

お釈迦さまの最後の言葉は

 「 自灯明  法灯明 」

ということです。

 

自らを灯火として 自らをよりどころとせよ

 他を頼りとしてはならない

法を灯火とし、よりどころとせよ  

 他の教えをよりどころとしてはならない

 

 お釈迦さまの最後の旅は生まれ故郷の

カビラ城へ向かわれていたようです。

 その途中に身体をこわされ、

クシナーラというところで、頭を北に向け

顔を西に向けて、沙羅双樹の元で静かにおやすみになられます。

何時もお傍にいてお世話をしていた

阿難尊者はお釈迦さまの最後が近いのを察知して

思い余って声をあげて泣き出してしまいました。

 それをご覧になったお釈迦さまは、

阿難尊者に優しく最後のお説法をされます。

 身体の苦痛に耐えながら、遺していく弟子たちのために

最後のお説教です。

 その言葉が 

『 自灯明 法灯明 』  

ということです。

 灯火とは、よりどころといっていいでしょう。

人生の中で、どうしたらいいか迷うとき

そのときによりどころとなるのが、

自分であり、お釈迦さまの教えということです。

 ここでいう自分とは、お釈迦さまの教えを学び

一歩一歩、前に進もうとしている自分の姿です。

 

 東寺の洛南高校の校訓は

『 自己を尊重せよ 』

ということが最初に出てきます。

お釈迦さまのおっしゃる自分ということは

何も自我ということではなく、そこを区別して

『 自己 』 といってあります。

本当の自分、我儘な自我を克服して

初めて出てくる自分を 「 自己 」 といってあります。

その自己を見出すには、

『 真理を探究せよ 』 

ということが校訓の二番目に出てきます。

真理ということが 『 法 』 ということです。

 

 アンパンマンの歌にある

  「 何のために生まれて

    何をして生きるのか

    答えられないなんて

    そんなのはいやだ 」

 

と、 アンパンマンの歌には

「 自分 」 ということと 「 法 」 ということが

問題になってきた

ということを表していると思います。

 

 人間は悪い癖があって、

本当のことがわからないと、 ( それだけで終わらなくて )

本当でないものを本当のものとしてしまう

ということがあります。

ですから、本当のことは何か ?

ということを求めていく

「 真理 ( 法 ) を探求せよ 」

が大切になってきます。

 

 世界の宗教の中でも 「 法 」 ということを

いっているのは仏教だけだと思います。

 他ということに頼ることなく

法と自己ということを問題にしたところに

仏教はほかの宗教と一線を画す

一番大きな違いがあるのでしょう。

 

 「 自らを灯として … 」

ということは大変難しいことです、 が

頭で考えるのではなく

実践していくと事実として

このことが受け止められると思います。

 

 

 

 

 

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今週の言葉 2/11~2/17 「 いつ、どこにあっても、『 今、ここ 』 に … 」

2013-02-10 18:02:28 | 今週の言葉

  いつ、どこにあっても

 

  『 今、ここ 』 に

 

  生命をかける

      いのち

 

 

 テレビのコマーシャルではないですが、

 「 いつやる !  今でしょう ! 」

といううたい文句が流れてきます。

とてもインパクトのある言葉です。

 

 お経のなかに、

 

 「 過ぎ去れるを追うことなかれ

   いまだ来たらざるを念 ( ねがう ) ことなかれ

   過去 すでに捨てられたり

   未来 そはいまだ到らざるなり

   ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ

   たれか明日死のあることを知らんや 」

 

というお釈迦さまの言葉があります。

 

 明日こそは、明日こそは、と言いつつ

今がないのです。

 聞法会や勉強会のあと、

「 とてもいい話でした。」

と軽く答えると、

「 それでは、今ここで何ができますか 」

と厳しい答えが返ってきます。

本当に話に感動して、身に沁みたら

次の一歩が出てくるはずです。

 話は分かった、でも体が動かない

ということは、何も分かったということではありません。

 

 「 今日のお話はとてもよかった !! 」

と、おっしゃいますが、

ひねくれた私には 「 どうでもよかった 」

と聞こえてしまうのです。

 ( 普通にはそれでいいのです。

   が、ここ一大事という話は

   そんな、よかった、という話ではないのです 。 )

三浦先生との話はそんなのんびりした話ではなく、

『 くっそ~ ! そこまで言うか ! 』

というぐらい、身に応えたのです。

三浦先生も 『 今 』 ということをとても

大事にされていました。

『 明日はないのだ ! 』

 

 100年生きたとしても、

『 今 』 という時間を捉えることができなかったら、

100年の人生が無駄に生きたということになりかねません。

いつも読むお経の最初の言葉が、

 『 この身 今生において 度せずんば … 』

という、ことです。

「 この身 」 ということが  「 ここ 」  ということ

「 今生 」 ということが  「 今 」  ということです。

 

  『 相田 みつを 』  先生の

「 そのうち 」  という詩もドキッとさせられます。

 

    そのうち お金がたまったら

   そのうち 家でも建てたら

   そのうち 子供から手が離れたら

   そのうち 仕事が落ち着いたら

   そのうち 時間のゆとりができたら

 

    そのうち  …

    そのうち  …

    そのうち  …  と、

    できない理由を

    くりかえしているうちに

    結局は何もやらなかった

    空しい人生の幕がおりて

    頭の上に 淋しい墓標が立つ

 

   そのうちそのうち

    日が暮れる

   いまきたこの道

   かえれない

 

 

 

衝撃を受けました。

 

 『 今 ここ 』   にいのちをかけてゆこう  !

 

 

 

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