有漏路 ( うろじ ) より
無漏路 ( むろじ ) へ帰る
一休み ( ひとやすみ )
雨ふらば降れ
風ふかば吹け
一休
一休さんの歌です。
歌の中にある 「 一休み 」 が 『 一休 』 という
名前の由来でしょうか。
『 漏 』 ( ろ ) ということですが、
「 もれる 」 という意味です。
人間から意識するしないにかかわらず、
漏れ出てくる、ということで、
煩悩のことを表現しているのです。
「 漏 」 という使い方もおもしろい、
雨漏りも、最初はポタリ・ポタリですが、
ほっておくと仕舞に家中水びたしになってしまいます。
煩悩も最初はわからないのですが、
気をつけてなかったら、人間煩悩だらけになってしまい、
ついには煩悩につぶされてしまいます。
「 有漏 」 は煩悩がある、ということ
「 無漏 」 は煩悩が無くなった状態、
ということです。
お経を読んでいますと、
「 人間には有漏しかない 」 と書いてあります。
では、煩悩しかない人間に悟りを開くということはあるのか ??
ところが幸いなことに、
「 無漏の種 」 も宿していると書いてあります。
厳密な言い方ですが、 「 依附 」 ( えぶ ) という
有漏の心にくっついて、本来の無漏の心がある、 と。
そこに、智慧とか信仰が生まれてくると、
それには、お経の最初にあるように
「 如是我聞 」 というように
『 聞く 』 ということが大切なのです。
玄奘三蔵法師は、それでも厳しく見ておられて、
「 人間のしていることはみんな有漏である。」
「 教えを聞くといっても有漏なのだ。」
けれども、
「 有漏であるけれども、聞法ということは
無漏を開く唯一のチャンスにもなる。」
とも言っておられます。
難しい言葉では、
「 聞法も有漏だけれども、
無漏を開く増上縁にはなる 」
だから、私達にとっても
縁を見つけては教えを聞き続けていくしかないのです。
そのことのみが、
無漏を開く唯一の手がかりになるのです。
そのことを 「 一休さん 」 は
「 有漏路より無漏路へ帰る 」 と、
人間という身体 「 身 」 ( み ) を頂いた
有漏の体を受けた、
ということは、無漏に触れる
唯一のチャンスなのだと。
だから、人生の荒波はすべて受け止めていこう
ということだと思います。
「 雨ふらば降れ、風ふかば吹け 」
というのも、のんきな話ではなく、
すべての苦労が 「 有漏の身 」 を持った
人間が無漏になる機会を与えられた
すべての苦労は自分のものとしていく、
という覚悟の歌のようにも思います。
「 有漏 」 「 無漏 」
うろうろ、むろむろ、 と
難しい言葉ですが、
たまにはこういう言葉を受け止めることも大事だと思います。