印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

石田波郷読本

2011-11-21 18:06:18 | 俳句
石田波郷のことを調べたいと思って図書館に行って、検索してさがしたけれど、ないので、俳句のコーナーで的をしぼって、探していた。ついにぴったしの本にであった。

石田波郷読本 編集人海野謙四郎  平成16年9月30日 角川書店

波郷の全句集と文章を選んで一巻としたとある。8冊の句集を1本にまとめたものはないという。

しかも山本健吉 の『石田波郷君の応召を送る文』もついていた。入隊の前日北浦和の寓居を訪れた。とある。駅から30分尋ねまわった挙句、やっと目標の桐畑を発見…とある。

北浦和のどこだろう?と思っていたら、だれかがしらべたのが見つかった。本太はよく歩いているし、1丁目もわかる。1丁目は知人が住んでいる。なんか、ここにいたのですね。

ーーー↓by web--

ここは北浦和の駅から、2、3分の所で、左側は桐畑、庭には桜や桃、梅、何本かの木も植えられ、粗末ながら、玄関、四畳半の応接間、居間、六畳に床の間と縁側がつき、風呂、お勝手と、庭もあり、中級サラリーマンにはちょうどよいくらいの所である。家賃37円也。駅からすぐの川越街道は、昔を偲ばせる古い松並木が遠くはるかにつづき、大名行列まで目の前にうかぶような、静かな古い町である。


石田あき子『夫(つま)帰り来よ』

 さいたま市民局市民部市民総務課に問い合わせたところ、「浦和市本太後原2145」は現在のさいたま市浦和区元町1丁目14番であるということだった。さいたま市浦和区元町1丁目14番は「北浦和の駅から二、三分の所で」はないので、何かの間違いではないか。




板橋七色の川

2011-11-21 16:23:43 | 日記
 朝自転車でヨガにむかうため、急いでいた。会梅のバス停付近でヨガの先生とばったりであった。函南いかないの?と声をかけられた。今回は都合悪くて…つたえて。

先生は日の出どうりから番場折り返し行きでバスに乗ってきているという。前は違う路線で東浦和から歩いてきたけれども、こちらのほうが近いからといっていた。

中国の話になって、部品工場が東南アジアに行っているという話になった。

 板橋に部品工場がたくさんあった。それから工場は、埼玉に移り、東北に映り、中国に移り、東南アジアに移って行った。板橋では町の川が七色の川とよばれていた。今は工場がなくなり、工場の跡地にはマンションができ、人々でうまった。工場よりも、住宅地のほうがいいでしょ。七色の川のことは知らなかった。今から45年前だから。ヨガの教室は生協歯科である。豊かさに引き換えに忘れかけていた話、伝えていきたい民医連の話など、皆の前でプリントくれる。ジラード事件など書かれていた。まだまだ理解不足だけれど。

こういう話をすると、きっちりとはなす。自身の言葉ではっきりと。だから歩きながら、東浦和近くの会場まで話続きだった。東北の部品工場は津波で…、タイの部品工場も今は水没している。打撃をうけている。


板橋区内の工場数等と人口の推移の図表がある。これには昭和25年から5年ごとくらいに、数字で推移がのっていた。なるほど、昭和20年は工場数、711 人口22万人。S40年2348、人口47万。そしてS50年5321、49万人 H15年 2584、52万 とwebにのっていた。先生のはなしと合致する。
 以下webよりーーーーー
昭和40年代から始まった公害行政の成果やさらに環境先進自治体としての板橋区の環境行政. の移り変わりが紹介されています。この項 ... 都市河川の汚染(七色の川). ● 抜け上がる井戸 ... り、隅田川と荒川放水路

昭和50年代になると、大規模工場の移転が盛んになってきた。これは、急速に都市化が進む中で工場が、「工業制限諸法により工場拡張や設備投資ができなくなったこと」「低廉・良質の労働力の確保が難しくなってきたこと」「近隣からの公害苦情により操業に制限があること」「高地価により増設用用地の取得が不可能なこと」などの理由であった。
区内の敷地面積1,000㎡以上の工業用地は、昭和50年(1975)に180.7 haであったのに対し昭和63年(1988)には123haと57.7ha(32%)も減少し、跡地は民間マンション、集合住宅になった。