王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために | |
アガンベン | |
青土社 |
これは前回(こちら)の続きである。
人間社会は合意形成や合理的選択とった「世俗的価値」に基礎を置く原理or摂理よってのみ、成立しているのではない。これがアガンベンの基本的考えであると、私自身は理解している。
故に、かつては人々は、神や人間を越えたものに、人間社会の秩序orderの基礎を求めている。
現在の例だが、「市場競争による『自然』淘汰」というのも同じである。現在の我々は、この「自然淘汰」を社会の重要な原理だと、現在の私たちは考えいる。しかし、ここで言う「自然」という概念ほど、説明されていないものはない(ここでの「自然」が、動物などが生きる世界の自然とは、別物であることは言うまでもない。つまり、この「自然」は、我々が考えている以上に不明瞭なものである)。
そして、それを掘り下げるために、彼はオイコノミア概念や神学をさぐっていく。
さて、この著作の全体を紹介することは別の機会にゆずるとして、この著作への我々の入り口としては、最後に付された「付論」が一番わかりやすい。そこでは、近代のオイコノミー(「~の中の秩序」)としてフィジオクラシーが例として用いられている。
このフィジオクラシーとは、日本語では重農主義と訳されているが、フィジオというのは自然という意味で、クラシーは支配を意味する。つまり、フィジオクラシーとは、自然の秩序を妨げない人為を行うことが要とされる。ただし、ここでの「自然」とは、フィジオクラートにとって「自然と思われる」もののことであり、方向性としてはレッセ・フェール式の政策が「自然」とされた。
ただしここでの「自然」とは、現代の用語で言うような<自然>(自然科学と言うときの自然)ではなくて、フィジオクラートが考えるような自然である。よって彼らが提起した政策は、統一的な基準による土地への課税、自由な交易、公共投資などによる景気刺激であった。当然これらの政策、とりわけ前二者は、特権階級の利害を侵食した。
ここで、フィジオクラートの「自然」は、全く自然ではないではないか? と思うかもしれないが(そうした考え自体は正しい)、重要なのはここでの「自然」が、説明可能性の彼岸の概念として提起されていると言うことである。なお、フィジオクラートは、この「自然」の摂理を人間活動そのものの中に見出す( 実際、ここで言及されているル・トローヌの『社会秩序論』(邦訳無し)では、自由で公正な交換活動が社会秩序の基盤とされている)。
彼らは、レッセフェール式の政策によって人間の活動が自由に行われるならば、「自ずと」整合的な秩序が生まれると考えるのだが、ここでの「自然」や「自ずと」は、全く説明的な概念ではない。
そうした意味で、超越的なもの、崇高なものを人間の外部に措定する「神学的概念」と、この「自然」概念は、変わるところがない。というわけである。
こう考えると、近代社会の中にも、合意形成などの「現世的」な概念によらない概念に基づいて作られている制度があるというわけである。自由市場があるべき姿と考える考え方も、この一例である。
我々はそうしたものに、従っている(従わされている)のである。