教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

早稲田実業の勝利を考える

2006年08月31日 | スポーツ
延長15回が終り、決勝戦が再試合になる。私と同世代以上の人は34年前の青森三沢高校と愛媛松山商業の延長18回と再試合の決勝戦を思い出した事と思います。34年前の太田vs井上と同様に斉藤vs田中という素晴らしい投手戦が繰り広げられらのです。

夏の甲子園での試合が始まるまでは、斉藤は良い投手だが駒大苫小牧の田中がの方が力があるとの評判でした。実際、昨年甲子園での駒大苫小牧優勝後の秋に行われた国体準決勝(神宮球場)では、斉藤は苫小牧打線に完璧に打ち込まれ完敗したのです。

それから一年をかけ、早稲田実業野球部は何が変わったのか、みてみましょう。

第一に白川捕手の成長です。斉藤は良い投手です。投手の力の第一はスピードです。しかし140kmを超えるストレートがいくら威力があっても、それだけでは打者はやがて目が慣れてくるものです。

ストライクを取るには二つの方法があります。一つはストライクのボールを投げてストライクを取る方法です。もう一つはボールを振らせてストライクを取る取り方です。斉藤は鋭く曲がりながら落ちるスライダーを身につけ、空振りを誘うテクニックを身につけていました。

しかし打者を空振りさせるほどの投球は、例えストレートであっても捕球するのは、とても難しいのです。肩の強さを買われ投手から捕手に転向させらた白川捕手も最初のうちは斉藤投手の球が見えず、ストレートさえも捕球できなかったと語っていました。そのため斉藤投手は捕手が球をそらせるのを恐れ、昨年の神宮では低めへのスライダーを投げられなかったのです。それで相手打者にとっては狙い球が絞りやすくしなったのです。

白川君は捕球技術を高めるため、全体の練習とは別に、低めに設定した投球マシーンで毎日150球の捕球練習をし、アザだらけになりながらもワンバウンドした球を体で止め決して後ろにそらさない技術を身に付けたのです。その結果、白川捕手は甲子園で斉藤投手が投げた900球を超えるボールを、ただの一球も後ろにそらさなかったのです。

一回目の決勝戦で三塁走者がスタートしたのを見て打者のスクイズを見破った斉藤投手は、スクイズを外すためにワンバウンドの球を投げたのです。白川捕手が後ろにそらせば、この失点で早稲田実業は負けていたのです。白川捕手が絶対に止めてくれるという信頼があってあの珠は投げる事ができたのです。投手の球を生かせるかどうかは、大きく捕手にかかっているのです。星一徹が飛馬の進学先を選ぶ時に甲子園常連校を選ぶのではなく、伴宙太と言う捕手を探し出し柔道部から引き抜いて野球部入りさせたのも、うなづけます。

第二に斉藤投手のフォーム改善にあります。ボールのスピードは、指、手首、腕、肘、肩、腰、足の踏み出しと体重移動という一連の動作がバラバラでなく、一本のムチがしなるように動くことにより速くなります。ちょうと3段ロケットが各ロケットの最高のスピードに達した時に次のロケットに点火され、スピードを加速させるのと同じです。

普通本格派と言われる投手は頭上で大きく手を振りかぶります。斉藤投手は振りかぶらずに、手を胸の前で止めるセットアップでの投球に変わりました。その一方で斉藤は投球の時に上げた足を、より内側に入れる事により腰のひねりを深くし、5km程スピードアップさせる事に成功したのです。

更に斉藤は春の選抜を一人で投げぬく中で、必要なペース配分ができるようになっていました。相手の中軸打者には140km台のスピードボールを投げる反面、下位打者には120km台で打ち取るという攻め方をし、体力を温存したのです。見事というしか言葉か言葉が見つかりません。

白川・斉藤選手の成長や早稲田実業の野球部の進化の要因は、何と言っても駒大苫小牧という大きな目標があったからです。目標があったから、早稲田実業はそれまでの野球を変えなければならなくなったのです。ライバルは、自分の弱点を映し出してくれる鏡のようなものです。試合の中で露呈した自分達の課題を正しく受け止める事により、目指すべき自分達の方向が鮮明になるのです。早稲田実業は駒大苫小牧を意識することのより自分達のチームの作り替えに成功し、それが優勝につながったのです。

だからライバルは必要なのです。ライバルを尊重できない者に成長はありません。いくらショーだと言っても、相手を落としめる言動を繰り返していては、成長は難しいのです。

最後に、見ごたえのある決勝戦でしたが不満が2つあります。第1は、再試合の日程です。連投につぐ連投が、高校生の健康と投手生命を奪うのではないかという心配を誰もがしたのではないでしょうか。早稲田実業の監督も「斉藤は大丈夫としか言わないから健康管理が難しい」と愚痴をこぼしていました。将来のある高校生です。翌日再試合という日程は、ぜひ考えなおしてほしいと思うのです。第2は、斉藤投手の野球以外の記事を書きたてるその後の報道合戦です。亀田の次は斉藤ですか。子どもで金儲けをしようとする卑しい精神は報道とは無縁だと思います。

みんなと来られて心の中で泣いた私

2006年08月30日 | 子ども理解
はじめてクラスのみんなとスキーをしたから楽しかった。みんなと寝て、おふろに入って、ごはんを食べて・・・よかったです。

スキーは面白かった。外国の人といっしょにスキーもできたし、リフトにも乗れたし、本当に楽しかったです。あんまり上達できていないけど、インストラクターの人にほめてもらってうれしかった。「ハの字」が一番むつかしかったです。足が思うように動かなかったから、なかなかできなかったです。2回目のスキー練習で、ようやく「ハの字」ができました。また、インストラクターの人にほめてもらえてうれしかったです。

先生にも「来れてよかったね」って言ってもらえたし、少しみんなと話せたし、楽しい思い出になりました。スキーは私の中で最高のスポーツになりました。バスレクも面白かったし、みんなでやった雪上オリンピックも楽しかったです。こんど家族と一緒に来られたらいいと思います。お母さんやお父さんに教えてあげたいです。あと、みんなでトランプができてうれしかった。はじめてみんなとトランプをしたから、心の中では泣いていました。私もほんとうに来られてよかったと思います。私の中では、一番いい思い出になりました。

あとリフトにゆられて面白かった。一番最初に乗ったときは、ゆれてこわかったです。2回目は、一人用のやつに乗ったから、ビビリました。そして次はもっとこわかったです。はじめて長い距離のリフトに乗りました。2回くらい止まってゆれたから、落ちそうになりました。スキー板をはいていたから、足が重くて落ちそうでした。リフトに一緒に乗った人とも少し会話ができてよかったです。あんまり話したことがなかったから、うれしかったです。

2日目に雪が降って最高によかったです。最後に雪の結晶が見られてよかった。また行きたいです。2年○組 ○○○○
(○○中学校生徒指導部だより『千里馬』102号2000年2月1日発行)

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学校行事に取り組む子どもたちの思いは様々です。学校生活に馴染みにくい子どもたちにとり宿泊行事はみんなとうちとけるチャンスであると同時に、心の中のハードルは、私たちが思う以上に高くそびえています。「心の中で泣いていた」という行(くだり)を眼にしたとき、彼女が大変な決意でこの宿泊行事に望んだことに改めて気づかされました。廊下で待ち伏せし、小さな声で「あの作文、載せてもいい?」とたずねた時、「いいよ」と言ってくれたあのときの笑顔を忘れることができません。

学校生活の中には、数々のドラマがあります。しかしそのドラマは見ようとしないと見えてこないのです。

少年文化館学生相談員研修会参加者から

2006年08月27日 | 読者の声
こんにちは。少年文化館でお世話になりました、○○です。
先日は貴重なお話をありがとうございました。

HPには無事入れました。
ページの先頭の写真と、緑色の画面が素敵だなと感じました。
先生が書いておられるひとつひとつのコメントに、考えるヒントを頂いています。
また、私は教員免許こそもっていても、全く現場の経験がありませんし、
机上の勉強ではわからないことがたくさんあります。
学校で何が起こっているのか、
先生方が日々どのような体験をされているのか、
垣間見れて、大変勉強になります。

これからも、ご連絡をさせて頂きます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

N女子大学大学院人間文化研究科社会生活環境学専攻○○

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8月3日、少年文化館で行われた研修会に参加された方から感想をいただきました。一番前に座り、私の話を聞き漏らすまいと頑張っておられた学生さんでした。研修会の後も立ち話で話し込んだのですが、偶然にも私と同じ町内に住んでいる方でした。若い意欲と感性が、これから十分に発揮されることを願っています。


玄倉川水難事故

2006年08月26日 | ニュースを読む
始業式の日に校長先生もふれられましたが、神奈川県玄倉川でおこった水難事件には誰もが大きな衝撃を受けたことと思います。人々が激流に飲み込まれていく映像がテレビで流されました。救助隊や報道陣が目の前にいるにもかかわらず、命を救うことができなかったのです。

事件をめぐっては様々な立場から論議が起こりました。その中で多くの人たちが指摘していたことは、件の職員や警察官から受けた警告を守っていたらこの事故は防ぐことができたということです。河川を管理している立場の者が危険と判断し避難命令を出しても素人判断で無視してしまう。「あぶなくなったら避難するから、ほっといてほしい」自然を甘く見た対応が大惨事を引き起こしたのです。

考えてみれば、このようなことは私たちの日常生活にも見られることではないでしょうか。「大人や先生は大げさに言ってるだけ」と思って、自然や社会を甘く見ていると取り返しのつかない事故や事件に巻き込まれることもあるのです。この時期は体育大会や文化祭の取り組みが続き、気持ちがうわつくこともあります。今一度自分の生活を見直して下さい。
(生徒指導部だより『千里馬』88号1999年9月13日)

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今年も河川での事故が続きました。特に私たちの市では1時間に110mmという観測記録を塗り替える集中豪雨が降りました。地球温暖化の進行の中で、自然が荒々しくなったと言われます。これから台風のシーズンも迎えます。子どもたちの安全については「臆病」でちょうど良いと思います。

優しさのメッセンジャー

2006年08月24日 | 読者の声
脚本家の坂本博さんが、ご自身のブログ『求心空間 徒然雑記』の中で、私の文を次のように紹介をしてくださいました。過分なお褒めの言葉。特に、優しい視点は持ちつつも目の前の子供たちには決して優しくなかった私の行動を知る卒業生たちは、目を回すのではないでしょうか。しかし、皆さんにもお知らせいたします。

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 中学校教員の方が運営されているブログ『東町3丁目小学校教育相談室「かけはし」小中連携版』から、亀田興毅記事(8月3日)にトラックバックをいただきました。おじゃましてみると、走り書きした私のコメントとは違って、「亀田選手もまだ19歳の少年。マスコミが作りあげたスタースポーツ選手」との捉え方をされ、『教育者の優しい視点』を感じました。

■東町3丁目小学校教育相談室 かけはし 小中連携版
 ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小中3校共通の校区新聞に発展しました。

■「奇跡の判定勝」?~亀田人気を考える【同ブログ8月3日記事】

このほか、同ブログでは教育を観点に、社会的な話題から身近な出来事までいろいろな記事があります。ふと目についたのが「プロの仕事」(8月4日記事)でした。購買部でパンを販売している方の人柄と仕事に対する心がけを、さり気ない行いから伝えた記事です。人として当たり前のことですが、少なからずの人が忘れているのでは、と改めて考えさせられるものです。

■プロの仕事【同ブログ8月4日記事】

 ──人の基本は「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言えるかです。

 私は教育者ではありませんが、脚本やコンピュータ(システム設計)の分野では後継者にその考え方や技術を伝えたいと、育成の立場もとっています。ただ、その分野のことを云々する前の問題として、礼儀とコミュニケーションのあり方をまず提示します。記事『ヤリ・デキ・ガンバ』(2月20日)でもふれたように、チームワークを重んじないやり方には納得がいきません。
 最近は「それは私(僕)の自由でしょう」との反論を聞きますが、それは自由ではなく「自分勝手」だと受けとめるときもあります。自由と自分勝手には天地の差があります。自由とは、明治維新のころからいわれるとおり「自らを由(よし)とする」が納得できる意味であり、自分勝手は単なる「わがまま」にすぎないのです。

 私の云々は理屈(考え方)です……。ところが紹介したブログ『東町3丁目小学校教育相談室「かけはし」小中連携版』には比べようもない現実があります。それを根強く伝えようとするエネルギーがあります。「生涯学習」といわれる時代に、人のあるべく姿、優しさにふれてみたくなったら、このブログを訪れてみるといいでしょう。見つめるべく道が見つかるかもしれませんよ

高校野球の見方②~打線のつながり

2006年08月23日 | スポーツ
3割打者と言えば、強打者の代名詞と言ってよいでしょう。でも3割打者といっても3回に1回しかヒットを打てないのです。3割バッターを揃えていても、連打になる確立は約1割しかありません。

自分が野球部の顧問となり、ゲームを組み立てる立場になって、初めて「打線のつながり」を意識しました。正確に言えば、打線というものは「つながる」ものではなく「つなげる」ものです。誰かが出塁することによって、相手チームの守備体系を崩し、次の打者の出塁のチャンスを増やし、打線をつなぐのです。

出塁することが、どのように相手の守備体系を崩すことになるか、具体的に見てみましょう。走者が出ると、守備の選手は、いつ投げてくるか分からない投手の牽制球を受けるため、ベースから大きく離れることができません。走者が1塁にいれば1・2塁間が広がり、走者が2塁や3塁にいれば3・遊間が広がり、打者有利になります。だから走者が1・3塁にいるときは、一番守りにくいといわれるのです。

走者に出た者が、リードをとるのは盗塁するためだけではありません。投手に牽制球を投げさせることで、相手側の守備を非常に窮屈なものにすることができるのです。内野手の間を抜けていくボールは、ほとんどが内野手のグローブの数十cm先を抜けているのです。内野手の守る位置を1mベースに寄せれば、それだけチャンスが広がるのです。そのことを意識して出塁しているかどうかが打線をつなぐかどうかに結びつきます。

早稲田実業の斉藤投手は、決勝戦初日の試合で駒大苫小牧のスクイズを見破り、3塁走者を見事アウトにする場面がありました。あの場面で斉藤投手は、投球動作に入った際に3塁走者が飛び出したのを見て、相手チームのスクイズを見破り、ワンバウンド球を投げたのですが、投手は投げるぎりぎりまで走者の動きを目で追わなければなりません。走者に神経を払うことが、投手から集中力を奪い、コントロールを乱れさせます。投手の失投がヒットや四球を生み出すのです。

走者として出た者が、次の打者の打撃に期待するだけでなく、自分が相手チームの守備を崩し次の打者の出塁を手助けすることが打線のつながりとなるのです。

プラットホーム転落事故を考える

2006年08月22日 | ニュースを読む
JR新大久保駅の転落事故が大きな反響を呼んでいる。転落した見知らぬ男性を助けるため、目前に迫った電車を顧みずプラットホームから飛び降りた二人(関根史郎さんと李秀賢さん)の善意と裕樹への賞賛が続く。韓国留学生李秀賢さんのお別れの集いには、総理大臣も出席した。勲章が贈られるということである。

プラットホームからの転落事故はJR東日本だけで57件あったという。記録されたものは列車が10分以上止まり死傷者が出た場合のみであり、すぐに助け出されたケースは記録として残らない。「東京視力障害者の生活と権利を守る会」が200人の視覚障害者を対象に調べたら3人に2人がホームから落ちた経験を持っていることが分かったという。

転落事故は珍しくはない。転落した男性を助けるどころか自分の命もなくしてしまった二人の死を無駄にしないということは、転落事故を防ぐための具体的な対策を国と鉄道会社が行うということである。それは第1に事故を防ぐための人員配置であり、第2に駅の構造上の改革である。

第1のプラットホームへの人員配置については、逆の方向に社会が進んでいる。国鉄がJRに衣替えしてから人員削減のため無人ホームは激増した。いまや都市部でさえプラットホームにはモニターカメラがあるだけというところが多い。転落する人をモニターがとらえても駅員が気づくのか、駅員が気づいてから現場に駆けつけて間に合うのか、疑問は多い。

それでは駅の構造はどう変わったのか。新幹線の生みの親と言われた技術者の島秀雄さんは1982年にすべてのプラットホームに橋にあるような欄干(らんかん)をつけることを提唱された。この提案は東北新幹線の各駅や東海道新幹線の一部の駅で実現された。しかし費用がかかることを理由に一部の駅での実施に終わっている。どんなに効果的な提案であっても、お金がかかるという理由だけで退けられてしまう。

事故を防ぐ立場にあるはずの政治家や鉄道会社からの善意は伝わらず、力も金も無い市民が命を張ってみせた善意だけがここにある。(生徒指導部だより『千里馬』145号2001年2月2日)


再び「下に恩返しをする」ということ

2006年08月21日 | 自主活動
昨年私は「千里馬」で「下に恩返しをする」というお話を皆さんにしました。先輩たちから素晴らしいものを学んだとしても、その先輩に対して直接恩返しをすることはできない。できるとしたら、先輩から受け継いだものを後輩に伝え、先輩に対してではなく「下に」恩返しをすることしかできないという話でした。

体育大会と文化祭を終え、私はこの「下に恩返しをする」という話を再び思い出しました。東町中生が先輩から受け継いでいる素晴らしい伝統の一つに、この文化祭と体育大会があると思うからです。私が東町中に転勤した時に感じたことは、体育大会や文化祭の係にあたっている生徒たちが、実によく働いているということでした。前日までの打ち合わせでそれぞれの仕事の内容を理解し、当日の運営についてはそのほとんどを生徒たちの手で行うという取り組みが根付いています。

また係以外の生徒の皆さんも、この行事を大切にし、真剣に取り組み、大いに楽しんでいるのです。この当たり前のことが当たり前のこととして受け継がれている、そのことが大切だと思うのです。最近私はある中学校の体育大会を見学する機会がありました。東町中では考えられないことですが、競技をしている多くの生徒たちが全力で走らないのです。中には友だちと話しながら走っている(歩いている?)生徒もいました。当然の結果として応援席から仲間への声援や応援はありません。自分たちの体育大会を本当につまらないものにしていると思いました。

みなさんは先輩たちが全力で走る体育大会を見て、そして先輩たちが舞台で熱演する姿を見て、自分たちもそんな体育大会・文化祭に取り組み、そして次の年の取り組みへとバトンをつなげているのです。「下に恩返しをする」という伝統は、東町中の中で生き続けていると思います。(生徒指導部だより「千里馬」91号1999年10月19日発行)

明日は体育大会~互いの頑張りを発見したい

2006年08月20日 | 自主活動
雨による練習の中断、台風による臨時休校。準備の遅れが心配された中で、体育大会はいよいよ明日に迫りました。

互いに競い合う競技の形式をとっているかぎり、体育大会には勝ち負けがあり、優勝をするクラスがあれば最下位のクラスもあります。1位になり、優勝することによって自分たちの頑張りを多くの人に認めてもらいたいと思うのは自然なことです。しかし優勝したクラス、1位になった人たちだけが良かったという体育大会であってはなりません。優勝を目指すことと優勝することは、残念ながら違うのです。あたりまえですが、体育大会では優勝できないクラスの方が多いのです。優勝する1クラスのためにだけ体育大会があるのではありません。この体育大会とそれに続く文化祭を通じて、日常の授業では気づかない仲間の頑張りや素晴らしさを発見してほしいのです。

私たちは力を合わせ同じ仕事をやりきる中で、お互いを仲間と感じられるものだと思います。押し付けあうことなく選手や係を決定できた、応援旗の作成に一緒に残ってくれた、椅子を運び出すときに手伝ってくれた、自分の競技の時にクラスの声援が聞こえた、そんなできごとの一つひとつが何よりも貴重なのです。これが逆になるとたとえ優勝したとしてもクラスの中に溝が生まれます。

昨年の体育大会を前に、体育委員長であった当時の3年生がこんな呼びかけをしてくれたのを覚えているでしょうか。

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3年生にとっては最後の体育大会。だから絶対、なにがあっても体育委員になりたかった。体育大会は大変と聞いていたし、ましてや3年生だからすごく大変なので、やりがいがありそうだった。それに最後の最後で目立ちたかったし、自分がいること、頑張っている姿をみんなに見てほしかった。
体育委員は大変です。みんなが気づかないところで頑張っています。全体練習がある朝は7時50分から集まってラインを引く。どうせ消えるけど引く。みんなが砂ぼこりをたてて歩くとラインは消える。だからちゃんと歩いてほしいと思う。でもやっぱり消える。
みんなが教室にいるとき、私はグランドで「にがり」をまいて、トンボでならして砂まみれで家に帰る。メッチャ大変。競技一つひとつの順位・得点を記録する用紙に、競技名を放課後に残って黙々と書いた。メッチャしんどい。
こんなに努力している体育委員。だから本番の体育大会ではメッチャ感動、メッチャ思い出になるような体育大会にしたいし、みんなに感動してほしい。だから協力しましょう。

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体育委員は体育大会のときにしんどくて大変だと聞き、だから体育委員になろうと決めた人たちもいるのです。そんな人たちを中心に、今年もグランドが整備され、プログラムが印刷されているのです。今年も体育大会を通じ、クラスの仲間の頑張っている姿をひとつでも多く発見してください。(千里馬90号1999年9月30日発行)


「出て行け」のひと言

2006年08月19日 | 子育て
以前は伝家の宝刀。聞き分けのない子どもを叱りつけ、最後に「これでもわからんかったら出て行け」と言えば、一件落着となりました。しかし「出て行け」のひと言に効果があったのは、当時の社会的な背景があったからです。

第1に「出て行け」と父親が言っても、子どもに対して「お父さんの気持ちが分かるか」とホローしてくれる貴重な人材がかつてはいたわけです。それがおじいちゃんであるか、お母さんであるか、兄姉であるか、近所のおじちゃん・おばちゃんであるかは別として。しかし核家族化の進行と地域社会の空洞化の中で、親が発した「出て行け」のひと言は、子どもだけで受け止めなければなりません。そして多くの子どもには、その言葉に込められた親の気持ちを理解することができないのです。

第2に、昔の子どもたちには親の許可なく寝泊まりするところがなかったのです。以前は町内のどこを探しても子どもの溜まり場になっているような家は存在していませんでした。しかし現在では、友人の出入りどころか寝泊まりさえも自由になってしまっている家が、たとえみなさんのご近所にはなくても、残念なことに世間にはあるのです。
この社会の変化は、子どもたちの「家出」という概念を全く変えてしまいました。子どもにとって家を出るということは、お気楽な無断外泊(「プチ家出」と名付けられている)でしかありません。そこには、昔の「家出」という言葉に込められた強い決意=「二度とこの家の敷居をまたぐか!」は、全くありません。親がうっとうしいと思えば友人や彼氏・彼女宅に外泊し、お金に困れば家に帰ってくるのです。

「まさか本当に出て行くとは思わなかった」と言ってあわてるのなら「出て行け」という言葉を使わないことが得策です。

人の命を奪う『うわさ』と『デマ』~始業式での生徒指導の講話

2006年08月18日 | 生活指導
関東大震災が起こったのが76年前の今日、1923年9月1日です。この地震では14万人以上の人々が命を失いました。しかしこの中には地震による災害で亡くなったのではない人々がいます。中学の歴史の教科書には、こう書かれています。

…この混乱のなかで「朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ」「社会主義者が暴動をおこす」などのうわさが、警察などによって広められた。そのため、数千人の朝鮮人や数百人の中国人が、軍隊・警察、住民などがつくった自警団によって虐殺された(日本書籍『中学社会・歴史的分野』P240)

不確かな情報に踊らされた結果、数千人の朝鮮人、数百人の中国人が命を奪われたのです。これは76年も昔のことで、今ではこんな事件が起こるわけがないと言えない状況が私たちの前にあります。

昨日、北海道で高校2年生の男の子が殺されたという事件がありました。その日のうちに15歳から18歳の5人の少年少女が容疑者として逮捕されました。警察の調べによると、逮捕された5人のうちの一人が、「あいつは生意気だ」といううわさをを聞いたので少年を呼び出し、5人で殴る蹴るの暴行を行った末に、殺してしまったということでした。逮捕された5人のなかには、殺された少年とは全く面識のない者もいたということです。

 人を傷つけるうわさ、他人をおとしいれるデマ、それが人の命を奪ってしまうことがあるということに、今も昔もかわりありません。私たちが歴史を学ぶということは、過去のできごとを知ることによって、そこから私たちが生きていく教訓を導き出すということです。(千里馬85号1999年9月4日号)

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この始業式での講話から7年の月日が過ぎました。しかし今も命をもてあそぶ「うわさ」や「デマ」は後を絶ちません。1学期には大阪の大学生が「俺の女にちょっかいをかけた男は暴力団関係者」という話を信じ、2人の学生を生き埋めにして殺してしまいました。被害者とは何の面識もない大学生も加害者として参加していました。国連の場で建物やトラックの写真を見せ、「これが大量破壊兵器の動かぬ証拠だ」と言って戦争を始め、何十万人もの命を犠牲にしている大統領がいます。歴史を学ばない人たちによって不幸な歴史が繰り返されます。

中学公民「裁判所」で何を学ぶか

2006年08月17日 | 人権
社会科の授業で裁判制度を学んだ中学三年生三人が、ぜひ裁判の傍聴をしたいと言ってきました。その三人に手渡したのが次の新聞投書です。犯罪者や被告人は、遠く離れたところにいるのではなく、被告人にも家族がいて、事件を起こす前には、ごくありふれた市民生活があったし、これからもあらねばならないのです。裁判は、人を抹殺するために行うのではなく、罪を犯した人を再び私たちの社会の仲間に迎えるにはどうすればいいかを、社会の構成員全体が考えるためにあるのだと思います。そんなことを気づかせてくれる投書でした。

斧孝明(団体職員42歳)
 小学三年生の息子を連れて裁判を傍聴しに行った。弁護士会が子供向けに開いている夏休みの催しに参加したのだが、私自身も裁判所に入ったことがなかったので興味深かった。テレビや映画で十分見慣れているはずだったが、手錠と腰縄で拘束された被告人が法廷に現れたときには、これはドラマではないことをはっきり思い知らされた。
 被告人は二十代の女性。容疑は覚せい剤の使用と保持。再犯。裁判は調書などを棒読みしていくだけで、退屈な流れ作業を見ているようだった。しかし、女性はずっとわれわれの方を振り向いては泣いていた。正確には、傍聴席後方にその女性の赤ん坊がいるのを見つけて、涙が止まらなかったようだ。一ヵ月余り拘束され、その間子どもに会うことを許されなかったらしい。その後もおそらくは何年かは子どものそばにいることはできないようだ。
 ほんの三十分ばかりだが、裁判を眼前にして初めて罪を犯すことの重大さが分かったような気がする。息子は身じろきもせずじっと裁判を見続け、閉廷後、再び手錠と腰縄を打たれて女性が出て行くと、「あの女の人はこれからどうなるのか」と心配顔で聞いた。息子なりに何かを感じ取ってくれたようだ。(朝日新聞1998年8月)

高校野球の見方①~Don’t mind

2006年08月14日 | スポーツ
野球は、ゲームの中でミスがあることを前提としたスポーツです。ミスがあるということを常に考え、そのうえでミスの影響を最小限に抑えるための連携プレーが随所にあります。

例えば打者が内野ゴロを打ったとします。その時テレビカメラは映していませんが、捕手は必ず内野手からの送球をカバーするため、1塁に向かって走っているのです。ランナーが塁に出ているときは、捕手が投手に返球するたびに2塁手と遊撃手は返球が逸れたときのために投手のカバーに入ります。

センターフライでセンターが前に突っ込んだ時は、レフトがセンターの後ろに回り込んで、センターが逸らしたときに備えるています。長打を打たれ走者はホームに帰ろうとしている時、投手は外野手からの返球がそれた場合に備え捕手のカバーに入るのです。

球を捕った選手、投げた選手を見るだけでなく、ボールを持っていない選手が、仲間をどうカバーしているかを考え、プレーを見てください。野球を見る楽しさが増えるように思います。お互いのミスをカバーし合う「Don’t mind」の精神を見ることができると思うのです。

埼玉県ふじみの市プール事故を考える~安全の丸投げ

2006年08月13日 | 教育行政・学校運営
埼玉県ふじみの市の市営プールで7歳の女の子が給水口に吸い込まれなくなるという痛ましい事故が起こりました。この事故の調査の中で分かってきたことは、次のようなことです。

①このプールは管理者の市が「太陽管財」にプール管理を委託していましたが、同社は、更に「京明プランニング」に丸投げ委託をしていたこと(契約違反)②当日13人の監視員がいたがそのうち12人は高校生のアルバイトであったこと③給水口の蓋がはずれているのを見つけた小学生が監視員にその蓋を手渡したが、監視員はその蓋が何か分からなかったこと(安全確保のための研修ができていない)④連絡を受けた現場責任者がその蓋を見て給水口の蓋だと分かり針金を探しに行ったが、ポンプを止めたり遊泳を中断させるといった指示をしなかったこと(責任者も危険性の認識ができていない)⑤監視員はプールの上から(!)現場を監視していたが吸い込まれる女の子を目撃したが一瞬のことで助けられなかったこと⑥6箇所の蓋のうち正しくボルトでとめられていたのは一箇所だけで、他は針金でとめられおり、その針金さえも無かった箇所も多くあったこと(このような状態が長く放置されていたということ)⑦以前給水口の蓋について危険だとクレームをつけた管理会社は翌年から入札で外されたことなどが明らかになっています。

この事故は人災だと遺族や関係者の間から指摘されています。プールの管理責任はふじみの市教育委員会にあります。安全性にクレームをつけた業者を入札から外したのは市の責任です。たまたま委託した業者が悪かったでは済まされない問題です。自治体でも進む民営化や民間委託が、こんな結末を招かないよう、私たちは見守り、時には発言していかなければなりません。

千里地区の学校はいかにして建てられたか

2006年08月12日 | 教育行政・学校運営
形あるものには設計者の夢や思想があります。建て替えが進む千里地区ですが、今から40年前、千里が日本初のニュータウンとして輝いていた1960年代に、新しい街にふさわしい新しい学校づくりが始まりました。新しい街の建設と並行して進められた千里地区の学校には市内の他の学校にはない明確な設計方針がありました。その基本方針は「児童生徒の心身の発達段階に対応した教育内容にふさわしい校舎の建設を行い、新しい住宅都市に融合した教育環境をかもしだす」というものです。

小学校を例にとって具体的な方針をみてみましょう。
①校内での事故防止のため、人の動線と車の動線をはっきり分離し、給食車などの自動車と児童が出会わないようにする。②低学年と高学年がそれぞれ独自の校内生活領域を持てるように設計し、学習・通行・用便・遊びなどの時、低学年生のゆったりとした生活リズムを保障する。③上ばきと下足のはきかえを厳格に行いうる設計とし、下足室を広くして混乱をなくするとともに、はきかえが児童の負担にならないよう、下足室を利用すれば教室と運動場や校門とが最短距離で結ばれる計画となっている。④職員室などの管理諸室は学校の中心に配置され、児童の行動が掌握しやすいようにする。⑤教育課程や教科内容の改変を見越して増築できる余地を計画的に残している。

市内の他の学校と比べると2~3倍はある広大な敷地面積(東町中学校の敷地面積は4万1千平米、隣接する東町3丁目小学校は3万6千平米)がこれらの設計を可能にしたのです。

更に⑥今までの学校では細分化されていたホールを、千里地区では普通教室から特別教室への渡り廊下の役目などをかねさせて、一つの大きな空間(中央廊下・ホール)にまとめるよう工夫し、児童の親交をのびのびと育てる広場となるように設計する⑦階段の手すりは普通より高い110センチとし児童の安全を考える⑧便所の内外両方に手洗いを設け、便器も和風のほか洋風腰掛け式を設置するといった、「贅沢」で斬新な設計が行われたのです。私はこの4月に開校した東京都品川区立日野学園での研究会に参加し、できたばかりの校舎をつぶさに見てきましたが(敷地面積が東町中の1/4という狭さ!)、40年以上前に建てられた千里地区の学校建設の「新しさ」は、今もなお生きていると思いました。

「貧すれば鈍す」という言葉があります。財政の厳しさが、教育行政の中から理想が消え去らないことを説に願っています。