教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

アンネ・フランクとオードリ・ヘップバーン

2008年06月12日 | 平和について
《収容所で終わらされた15歳の命》
 今日はアンネ・フランクにとって、79回目となるはずの誕生日です。アンネはドイツ・フランクフルトのユダヤ人一家に生まれた少女です。ヒトラーが政権を握りユダヤ人迫害を行うようになると家族はオランダに移住します。その後、第二次世界大戦でドイツがオランダを占領したため、一家は友人の屋根裏で生活を始めることになります。屋根裏生活は1942年7月に始まり、ドイツ軍に発見されるまでの1944年8月まで続きます。ドイツ軍によってアンネは強制収用所に送られ、栄養失調と伝染病によって1945年3月に亡くなったと言われます。将来作家になりたいという夢を持っていたアンネは、屋根裏生活を過ごしていた2年の間に日記を書き続けました。これが『アンネの日記』と言われる作品です。55ヶ国語で発売された日記は、世界で2500万部以上も売られたヒット作ですが、15歳で亡くなったアンネにとっては、これが唯一の作品となりました。

《同い年に生まれたヘップバーン》
 私がアンネ・フランクについて興味を持ったのは、母が同じ1929年の6月に生まれたからです。私の母はT市に生まれ、戦時中は学徒動員でM町にあった軍需工場で働いていました。しかし空襲で命を落とすこともなく、戦後結婚し、私たちを生み、孫の顔を見ることもでき、今年79回目の誕生日を迎えました。

 アンネが戦争の犠牲にならなければ、どんな人生を送り、どんな作品を残しただろうと、私は考えるのです。戦争の時代を生きた多くの人たちがアンネ・フランクに自分の生涯を重ね合わせました。その一人が『スクリーンの妖精』と言われたオードリ・ヘップバーンです。ヘップバーンはベルギーで1929年5月4日に生まれ、オランダで少女期を過ごしました。戦後アンネの日記を読んだヘップバーンは「自分が崩壊するような衝撃を受けた」と書き残しています。ドイツ軍によって叔父たちが目の前で銃殺された経験を持つヘップバーンは、レジスタンス運動(ドイツの占領に反対する抵抗運動)に参加した経験を持っています。オードリ・ヘップバーンにとってアンネ・フランクは自分自身だったのです。ヘップバーンの主演した映画『尼僧物語』を観て下さい。レジスタンスに立ち上がる一人の女性の生き方が見事に描かれています。

《何度も裁判で争われた日記》
 ヨーロッパで『アンネの日記』は何度も裁判で争われています。「ドイツ軍の残虐行為は無かった」という立場から「日記は偽物という証拠が見つかった」という意見が繰り返し発表されるからです。そのたびにオランダでは裁判が行われ、『日記』の正当性が証明されてきました。戦争の記憶が遠のく今、戦時下の残虐行為についての論議が日本でもヨーロッパでも起きています。戦争証言者がますます少なくなりつつある今、『アンネの日記』を多くの皆さんが読んでみられることを願います。『アンネの日記』は各校図書館にあります。


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1 コメント

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Unknown (aki)
2010-08-20 00:49:24
高校の教員です。突然ですが、教材でオードリー・ヘップバーンの生涯を扱いますが、アンネ・フランクとの関わりが非常に重要な要素になっています。彼女たちに関するテレビ番組を、録画しておられませんでしょうか?
例えば、BS朝日の「誰も知らないオードリー・ヘップバーン__アンネ・フランクへの想い」。他に、「知ってるつもり」とかです。
アドレスは  akisappe@baycom.zaq.ne.jp
申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
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