教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

能勢街道 原田神社

2009年07月24日 | 北摂T市の歴史
能勢街道と伊丹街道が交差する桜塚古墳群の地に4世紀中頃~5世紀末創建されたとされ、古代には素戔嗚尊など五神をまつり、祇園神社と称した。また白鳳12年(684年)6月18日に天武天皇が神宝・神鏡・素盞男命御鏡・獅子頭を奉納したことから大宮と称し、皇族や武家より厚く崇敬を受けた。鎌倉時代以降には牛頭天王信仰と習合し、東は豊嶋郡榎坂村(現吹田市江坂)から、西は川辺郡富松村(現尼崎市富松)にわたる摂津国中西部72村の産土(うぶすな)神社となり、「西牧総社」と呼ばれ崇められた。また足利氏、殊に義澄、義晴、義輝の3代からは厚い信仰を受け、神領として西牧六車(むぐるま)の庄(桜塚・原田・曾根・勝部・走井・福井)の寄進をうけている。

天正6年(1578年)に荒木村重の兵火にかかり、境内社の十二社殿本殿及び神宝等を除き全焼。仮殿を経て慶安5年(1652年)、現在の本殿が再建された。 もとは祇園社(ぎおんしゃ)とも牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)とも呼ばれていたが、貞享2年(1685年)に神祇管領から「原田大明神」の神号を得て現在の社名となった。

江戸時代に入ると境内地は狭められていったが、境内地に接した門前町は能勢街道と伊丹街道の結節点としても栄えるようになり、この市街地が現在の岡町の基となった。 明治43年(1910年)に開通したころの阪急電車の写真を見ると神社の中に岡町駅があるように見える。


能勢街道 山田洋次監督生家

2009年05月25日 | 北摂T市の歴史
山田洋次監督は、1931年にこの家で生まれた。この家は、父親が設計したもの。赤瓦のモダンな外観にジャズが流れていたというこの家に周囲の人は驚いたという。山田洋次監督は、後に父親の勤務のため満州に渡り、戦後は山口県宇部市で生活をしている。日本経済新聞の『私の履歴書』で監督はこの家で過ごしたころの思い出に触れています。

能勢街道 階段下の集合住宅

2009年05月23日 | 北摂T市の歴史
兼谷畳店のすぐ西の集合住宅です。渡り廊下のようにも見える民家の下に階段がポッカリと口を開け、そこを降りると今では死語となった長屋が何軒か続きます。更に通り過ぎると住宅地が続くのですが、この辺りを地元の人は『七まがり』と呼んでいました。曲がりくねった道と、しばしば出くわす突き当たりに慣れない人は、方角を惑わされます。私も子どもの頃は、友人の家にたどり着けなくなることがありました。

能勢街道 兼谷畳店

2009年05月22日 | 北摂T市の歴史
能勢街道に面したO町には、かつては職人さんの店がたくさんありました。傘屋(もちろん番傘)、下駄屋、ブリキ屋、表具屋などがそうです。今ではそのほとんどが見られなくなりました。この畳屋は1924年(大正13年)に営業を開始した店です。子どもの頃は、勢いよくイグサを切り揃えながら畳を作る様子を毎日のように目にしましたが、今はここで畳を新調する家はぐっと減りました。

能勢街道 元庄屋奥野家長屋門

2009年05月21日 | 北摂T市の歴史
奥野家は代々O町の庄屋を勤めていました。江戸時代の末に立てられた屋敷は、現在国の指定文化財となっています。長屋門は有力武士の武家住宅の表門の形式となりました。武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用されました。また郷村武士の家格をもつ家や、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られています。更に明治以後は他の富農の家屋敷にも作られるようになりました。このような長屋門では、門の両側部分は使用人の住居・納屋・作業所などに利用されていました。
長屋門の構造は、その家の格式や禄高によって細かく決められていました。例えば武家屋敷での長屋門の壁は漆喰が許されたのに対し、民家では板張りが基本でした。江戸時期の状態のまま現存する民家の長屋門で、漆喰や彩色がある場合は、武家との姻戚関係があったり、普請協力により武家屋敷の旧長屋門の払い下げを受けた場合など、特別な場合だったと言われています。
私が小学生のころ、いつも門は開いていて近所の子どもたちが、広い敷地で遊んでいたのを覚えています。奥野家の当主は代々庄兵衛を名乗っていたため、『桜の庄兵衛ギャラリー』として美術工芸品の展示が行われています。挨拶に伺ったとき、奥野さんは「この家は、自分だけが受け継いだものではない、皆さんと一緒に受け継いだものやと思っています。」とおっしゃっていられました。良本酒店が取り壊しになった今、在りし日のO町を偲ぶこの建物の本格的な保存が必要と思います。

能勢街道 駒つなぎ

2009年05月20日 | 北摂T市の歴史
『駒つなぎ』は、その名の通り牛馬をつなぎとめるためのものとして一部の商家で始まりました。数年前まで能勢街道沿いにあった良本酒店の玄関先にも、しっかりした『駒つなぎ』がありました。しかしその後、防犯上の目的で『駒つなぎ』を構える家が広がりました。街道には面していないこの民家の『駒つなぎ』も、防犯上のものではなかったかと思います。

能勢街道 中二階の構造

2009年05月20日 | 北摂T市の歴史
これは虫籠窓のあるTさんの家を北側から眺めたものです。左手の能勢街道沿いの二階の屋根は、一階の屋根に接するほど低く作られているのに対して、中庭側の屋根は、通常の二階建てのようになっていることがわかります。これは以前にも述べたように、街道を歩く武士を二階窓から見下ろさないように配慮された造りなのです。

能勢街道T駅~O駅までの史跡 旧球場メモリアルパーク

2009年05月09日 | 北摂T市の歴史
箕面有馬電気鉄道(現阪急電鉄)は、沿線の住宅開発や箕面・宝塚の観光開発により、鉄道利用者を拡大しつつありましたが、更なる利用者拡大を考え、1913年に建設したのがT球場です。全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会)・日本フットボール優勝大会(全国高等学校サッカー選手権大会・全国高等学校ラグビーフットボール大会)の第一回大会が開催されました。1922年に閉鎖され、今は住宅地に変わりましたが、日本高等学校野球連盟と朝日新聞社により、「高校野球メモリアルパーク」と名づけられた小さな公園が作られています。

能勢街道T駅~O駅までの史跡 カトリック教会

2009年05月08日 | 北摂T市の歴史
 日本で教会建築を数多く手がけた横浜在住のチェコスロバキア人ヤン・ヨセフ・スワガーの設計により、1939年に作られた木造平屋建て、鐘楼付きの建物です。1937年日中戦争開戦、日独伊防共協定調印、1938年国家総動員法制定といった戦時体制構築に伴うナショナリズムの高揚を意識しているのか、入母屋造の瓦屋根・内部の格子天井・丸窓など、教会建築の中に和風様式を取り入れた素敵な建築物です。手塚漫画『スリル博士』に登場します。

千里の歴史③~古墳時代のハイテク工場・千里

2008年05月10日 | 北摂T市の歴史
今から1500~1600年ほど前、河内(大阪)から奈良にまたがる地域に巨大な古墳を作る王が出現しました。これが大和朝廷です。大和朝廷は周辺の勢力を従え、徐々に力を伸ばしていきます。市内にも多くの古墳が造られました。その代表的なものが市中部の『桜塚古墳群』です。明治初期の記録によると桜塚古墳群には36基(き)の古墳があったのですが、今では5基が残るだけとなりました。最大のものは岡町図書館南側にある大石塚古墳で、全長80mを超える前方後円墳(かぎ穴のような形)です。桜塚高校南側にある大塚古墳や御獅子塚古墳からは、埴輪(はにわ)や鉄製の古代武器など多数出土しています。

 これらの古墳が造られた頃、猪名川や神崎川周辺には中国や朝鮮から大量の渡来人がやってきました。有名なのは応神天皇の時代、中国の呉(ご)から招かれ池田の地を与えられた呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)の二人です。二人の媛は日本に機織(はたおり)・裁縫(さいほう)・染色の技術を伝えました。池田にはこの二人を祭る神社、呉服神社・伊居太神社があります。市内の服部という地名もこれらの媛に由来していると言われます。

 古墳時代の千里は100基以上の須恵器窯(すえきがま)が築かれ、土器生産の中心地でした。(桜井谷・島熊山・永楽荘・上野などに窯跡があります)難波宮の建設にも千里地区で作られた瓦が使われました。弥生土器よりも軽くて丈夫な須恵器の生産は、機織技術とならび当時としては最新のハイテク技術でした。

改定 千里の歴史①~服部緑地が海岸だった縄文時代

2008年04月16日 | 北摂T市の歴史
私たちの町に人が住みだしたのは、いつごろでしょうか。文字が無かったので正確な年代はわからないのですが、市内各地で発見された土器を調べると1万年ぐらい前の縄文時代には人が住んでいたようです。
 
 今地球温暖化が問題になっていますが縄文時代の地球も温暖な時期でした。海面は今よりも3~5mも高く、大阪湾は右の図(大阪自然史博物館資料)のように生駒山のふもとまで入り込んでいたのです。(この湾を考古学者は河内湾と名づけています)中央に半島のように突き出ているのが大阪城のある上町台地です。

 1万年前は、阪急でいえば曽根駅、地下鉄でいえば緑地公園駅から南は海でし
た。地下鉄に乗って千里中央から梅田に向かったときの景色を思い浮かべて下さい。千里中央駅・桃山台駅・緑地公園駅まではプラットホームが地下にありますね。それが緑地公園駅を出るとすぐに大きな下り坂となり、線路は地上2~3階ぐらいの高さになります。この緑地公園駅と江坂駅の間の段差は、縄文時代に波で削られた崖(海岸段丘)のあとなのです。
 
 この時代に作られた縄文土器は、野畑・桜井谷周辺で発見されています。縄文時代の千里地区の様子については、1960年代の大規模開発により地表がごっそりと削りとられたので詳しいことはわかりません。しかし今から1万年ほど前の千里地区を縄文人が猪(いのしし)や鹿を求め移動していたことは確かです。

 私たちの町は古くから開けた地域です。古墳が並び、万葉集にも歌われ、菅原道真や織田信長もこの地に足を踏み入れました。みなさんと千里の歴史を学んでみましょう。


千里の歴史⑩・・・開拓後の新田村の発展

2006年05月23日 | 北摂T市の歴史
 千里地区(旧新田村)にある古い神社や寺についてお話ししているうちに、村の開拓のお話がどこかにいってしまいました。話をもどし、開拓後の村の暮らしについてお話します。1625年(寛永3年)山田村の3人を世話人として始まった村づくりの中で人口は徐々に増えていきます。『新田村由来記』によると、開拓10後の1635年に戸数27戸であったのが、開拓44年後には58戸、江戸時代中期の開拓92年後の1717年(享保2年)には73戸422人にまで増加しています。この1717年の記録を見ると、村の生産のうち約8割は稲作で、あとの2割は綿栽培であったとされています。江戸時代の大阪は綿の生産地で、特に泉州地方(堺から岸和田にかけて)の綿は有名でした。丘陵地にある新田村も綿作りに適していました。米・綿以外の作物では、菜種(なたね)栽培がさかんでした。江戸時代の菜種油は、行灯(あんどん)用の燈油・食用油・頭髪油など広く使われていたので、農家にとっては貴重な現金収入の作物でした。私はT市で生まれ育ったのですが、1960年代前半までは、春になると畑に菜の花、田んぼにレンゲ草という、のどかな田園風景がたくさん残っていました。