教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

全国学力テストの再開を考える

2007年01月31日 | 教育行政・学校運営
【40年ぶりに再開される全国学力テスト】
今年の4月、全国の小中学生を対象にした全国学力テストが復活します。学力テストを実施するのは、文部科学省が定めた小中学校のカリキュラム内容や学校教育への支援が、子どもたちの学力にどう反映しているのかを検証し、今後の教育行政に反映させるためです。

【全国学力テストが廃止に追い込まれた原因】
全国学力テストが、40年間実施されなかったのには、いくつかの理由がありました。その一つ、に学力テスト全国一の座を巡り一部の県で不正常な競争が行われたことがあります。たとえば①小学校6年生のテスト範囲は5年で習った分野だったので、6年生に進級してもテスト対策として5年生の復習ばかりしていた、②テスト中に監督の教員が子どもに答を教える、③成績下位の生徒が受験すると平均点が下がるのでテストを受験させずに欠席させたなどの事実が次々と発覚し、国会でも問題となったのです。カリキュラムを検討し教育行政に活かすという本来の趣旨とかけ離れ、学校や教育委員会の名誉を守るための競争に変質してしまったのです。こんなことで見せかけの平均点を上げても子どもたちの学力の向上につながるわけがなく、全国学力テストは廃止に追い込まれたのです。


【同じ失敗を繰り返してはならない】
今回実施されようとしている全国学力テストでは、前回のような失敗は繰り返されないのでしょうか。今回の学力テストでも都道府県や市町村、場合によっては学校毎の成績発表を行うべきと公言されている国会議員や教育関係者もおられます。学力テストの点数順に学校予算を配分することを決定している自治体もあります。競争が全面に出た場合、その点数を競うために異常な事態が起こらないか、疑問があります。すでに都道府県段階での学力テストが数年前から実施されていますが、学校間の競争が奨励されている地域では①事前にテスト問題が教員から子どもたちに漏れていた、②校長が子どもの答案用紙を書き換えていたという事実が明るみに出ました。不正がない地域や学校の平均点は低くなり、不正が行われた地域や学校の平均点が高くなる、そんな事態が起きたのです。

【高校未履修問題は何をものがたるのか~不正が得?】
昨年末、全国の進学校と呼ばれる高校で、必修科目の授業を行わず受験科目の授業に変えて進学実績を上げようとしている事実が明らかになりました。大学合格者数を競うため不正が、まかり通ったのです。東大に大量の合格者を出している東北地方の公立高校PTA会長がインタビューに答えていました。「(カリキュラムの不正は)私たち保護者が学校に要求したもので、先生方だけの責任ではありません。」全国で不正の事実が明らかになる中、大阪府の公立高校では一校も不正の報告がありませんでした。大阪の公立高校には小手先の受験テクニックに頼らず、全人格を育てようという伝統が、まだまだ受け継がれているのかと思いました。しかし不正をしなかったために他府県との競争に負けたとなると、当然の教育を行うことが困難になるのではないかと心配されます。現実に私立学校の中には「私学の独自性」を盾にして必修科目を実施せず受験科目の授業数を増やし、進学に有利であることを宣伝する学校もあります。そのことが少なくない保護者に受け入れられている事実もあります。耐震偽装事件や雪印・不二家の事件は国民の安全や命を脅かすものであるから批判されるのですが、子どもたちの進学に有利であるとなると不正常なカリキュラムであっても支持されるのです。全国学力テストの実施や平均点の比較が、こういった不正常な事態を悪化させないか、私は心配するのです。

私が出会った子どもたち・・友人のまなざし

2007年01月27日 | 出会った子どもたち
今年の1月、教え子たちの同窓会が二つありましました。一つは、「かけはし」でも紹介した中学校二十歳の同窓会です。もう一つは、前任校の卒業生たちが開いた同窓会です。その同窓会で、私は予期せぬ卒業生と出会いました。中学3年生の夏に街で事件を起こし少年院に入ったAが来ていたのです。少年院を退院後、S県にある飲食店で働いていることは聞いていたのですが、よくぞ生きていた!と言うのが私の率直な感想でした。同時に同窓会の連絡がAの元にも届けられていることにも驚きました。

家を出た母親を恨み、大人への激しい不信感を抱いていたAでした。3年の春、ふとしたことからAと担任のB先生が職員室で乱闘になったことは私にも忘れられない事件でした。B先生と私とでAを床に組み伏しても、体をバネのように弾ませ激しく暴れました。Aの上に馬乗りになったB先生が「これだけ言ってもお前には伝わらへんのか!俺は・・」と絶句し体を震わせながら涙を流したのを見てAの力が抜けていったことを覚えています。

一次会の時には挨拶ぐらいしかできなかったのですが、二次会ではAの隣に座り、その後の暮らしぶりを聞きました。店こそ変わったもののやはりS県の飲食店に勤めていたAは、結婚し、人の親となっていました。「子どもがどういう友だちを持つかは大切やから、ありがとうがちゃんと言える子どもに育てたい」すっかり穏やかになっているAに乱闘の話を切り出すと照れていました。

二次会が終わる頃、Aと二人っきりで3次会に連れだったのは、散髪屋の息子で学年トップの成績だったCでした。サッカー部に入り学校生活を大いに楽しんでいたCは、現役で東京大学に合格し、今は地方の公立病院で小児科医をしていました。夜の街に消えていく二人を見ながら「あの二人は小学校時代から仲良かったなあ」と卒業生が教えてくれました。それを聞きAの立ち直りを支えたのは、こんな友人たちの優しい眼差しだったのではないかと思いました。

東大から医師、少年院から夜の飲食店、その後の人生では絶対出会うことのない二人です。しかし地域の同じ小・中学校で学んだことで、友だちと言い合える関係が続き、同窓会で再会できたのです。子ども相手の問診が大変なため、なり手が少ないと言われる小児科医ですが、こんな「人脈」を持っているCなら、きっと素晴らしい医師になれると確信しました。そして何の打算もなく付き合ってくれるCのような友人を持っていたからこそ、Aは社会人としての一歩が踏み出せたのだと思うのです。

プロの仕事を教えられる

2007年01月26日 | 学校の話題
中学校の中で一番「ありがとう」の言葉が聞かれる場所。それは購買部のパン販売所ではないでしょうか。毎日百人近い子どもたちの注文票を見ながらパンの袋詰めを行いクラスごとに仕分けします。そして昼休みの混雑。それでも「ありがとう」の声が途切れないのは、パンを売る○○さんのお人柄でしょうか。

先週水曜日、22歳になる卒業生二人が同窓会をしたいと学校を訪れました。お昼が過ぎたので帰るのかと思ったら、「購買部、開いていますか」と聞くのです。「そろそろ閉まる時間だ」と答えると、「早く行ってパン買ってこよう」「購買部のパンは、おいしいもん」と言うのです。スーパーやコンビニで売っているのと変わらないパンですが、久しぶりに中学校を訪れる卒業生の多くは、そう言って購買部を訪れます。

そう言えばこんなことがありました。パンを買いに来たある生徒に「ごめんね。昨日は注文してくれたパンが無かったから、別のパンを入れたでしょう、あれでよかった?」と○○さんが声をかけておられたのです。「おばちゃん、そんなことまで覚えてるん?」という子どもの声に、「そうよ。注文してくれたパンが無かった時には、心の中でゴメンねと言いながら以前に注文をしてくれていたパンを思い出し、これで気に入ってもらえるのかなあと心配しながら入れているのよ」というお返事でした。

私はこの会話を聞きながら、プロの仕事とはこんなことを言うのかと考えさせられました。同時に一人ひとりを大切にするという姿勢を○○さんが私に教えて下さっているようにも思えました。途切れることなくケースの上に飾っているお花にも、子どもたちを迎える温かさを感じます。人混みにもかかわらず購買部の前を通ると私はホッとすることができるのです。

子どもたちを巻き込む事件…先週のできごとから

2007年01月23日 | ニュースを読む
《青信号での交通事故死》
土日のニュースで何度も放送されたのは、タレント風見しんごさんの娘、えみるさん(小学5年生)の交通事故報道です。行ってきますと笑顔で登校した娘が数分後にはトラックに巻き込まれ亡くなったのです。しかも青信号の横断歩道の上で。

仕事は大切です。でもトラックは、通学する子どもたちの安全よりも大切なものを運んでいたのでしょうか。たった10年で人生を断ち切られたえみるさんと家族の悲しみを思うと、ことばがありません。トラックの下から病院に運ばれたえみるさんは、一度は心臓を動かしてくれたと風見さんは語っていました。最後まで生きようと努力していたのです。

当然のことですが、生を奪われたえみるさんが一番無念だったでしょう。風見さんは最後に「アクセルを踏む時、横断歩道を渡る時、少しでもいいからえみるのことを思い出して下さい。」と絞り出すように語っておられました。ハンドルを握る大人として、このことばを忘れまいと私は思いました。小中学生のみなさんも、青信号で横断歩道を渡るとき、5年生で亡くなった女の子がいたことを思い出して下さい。

《賞味期限切れ材料で作られたお菓子》
「金儲(かねもう)けは悪いことですか。」と記者会見で開き直った投資家がいました。どうして「悪いことですよ。」と記者たちは教えてやらなかったのか、私はテレビを見ながら思いました。お金とは、誰かを幸せにする仕事をした報酬として得られるものであり、人を混乱や不幸に陥れて得るものではありません。目的と(人を幸せにする)と結果(お金を手にする)を取り違えてはならないのです。耐震偽装事件を持ち出すまでもなく、人としてのモラルを忘れた人がトップに立つと、大企業といえども苦境に立たされることを私たちは目にしてきたはずです。

ところが日本を代表するお菓子メーカーが利益だけを追い求め食の安全性を踏みにじる行為をしていたことが明るみになりました。材料が賞味期限切れであることを知りながらお菓子が作られていたのです。ハムメーカーや乳製品メーカーで起きた事件が、またもや起きたのです。子どもたちを巻き込む食中毒事件にならなかったことが不思議なぐらいです。

テレビでは何人かの元従業員が匿名でインタビューに答えていました。彼らは一様に製造過程での衛生管理に疑問を持ち、作った製品を決して自分たちは食べなかったと語っていました。そこで働く者が口に入れたくない製品を作るお菓子会社とは、いったい何なのだろと思います。日産の自動車に乗りたがるトヨタ社員、ダイワハウスの家に住みたがるセキスイハウス社員はいないと思うのです。社員が食べなかったお菓子を社長やその家族は食べていたのでしょうか。自分が口にしないから衛生管理がズサンだったのではないでしょうか。

《無届けカラオケ店での焼死》
宝塚のカラオケ店火災では、16歳~18歳の3人の子どもが亡くなりました。調理場の火が引火して起きた火事でした。①消防署への無届け営業、②避難誘導灯や非常出口の不備など消防法違反の数々、③無届けを把握していながら立ち入り検査をしなかった消防署の対応の遅れ、④店員(アルバイト)が消火器の使い方を知らなかったなどの問題が次々と明らかになりました。助かった女子中学生3人は、携帯電話で消防士からの指示を受けていました。指示の内容は、⑴ドアを開けると廊下に充満している煙が部屋に入ってくるので開けてはいけない、⑵姿勢を低くしできるだけ煙を吸わないようにする、⑶鼻にハンカチをあてるなど基本的なことばかりでした。それでも指示どおりに行動した3人は無事に救出されたのです。

学校では年に一度火災避難訓練をしています。(それ以外にも不審者対応避難訓練、地震避難訓練などがあります)みなさんは中学校を卒業するまで、火災だけでも最低9回は訓練を受けているのです。そのなかで消火器の使い方も学びます。今回の火災で店長や経営者ではなく、アルバイト店員が逮捕されたのは気の毒とも思えます。しかし亡くなった3人が「火災が広がった原因は、店員が消火器の使い方を知らなかったため」だと知ったならどれだけ悔しい思いをするでしょうか。私たちは人生の中で、必ずといっていいほど火災現場に遭遇します。訓練の次に災害や事件が起こると考えていないと、取り返しのつかない事体に陥ります。

先週起きた3つの事件(テレビ番組ねつ造事件も含めると4つ)には、共通点があると私には思えるのです。「仕事」が「金儲け」へと変質させられています。金儲けのためには、モラルやルール、時には法律や人命も吹っ飛んでしまう社会の姿は、命や正義を大切にする教育・子育てに対する大きな脅威です。大人たちの責任が問われています。自分が生活して(働いて)いる場で、社会正義を実現させることが求められています。


阪神・淡路大震災から12年…中学生のボランティア活動(改訂)

2007年01月19日 | 自主活動
《95年春から始めた長田区での炊き出し》
避難所になっていた前任校から転勤した私は、1995年の春から週末ボランティアに参加するようになりました。行き先は長田区の焼け野原に立つ真陽小学校避難所でした。避難所で驚いたのは、小学校玄関横の下足室がダンボールで仕切られ住居スペースになっていたことです。子どもたちはその横を通って登下校していました。そんな生活が地震から3ヶ月もたつのにまだ続いていたのです。

《続く公園でのテント生活》
真陽小学校の近くにある南駒栄公園では、避難所からあふれたベトナム人被災者がテント生活をしていました。長田区は零細なサンダル工場が多く、たくさんのベトナム人労働者が働いていたのです。ブルーシートのテントは頼りなく、台風がきたらひとたまりもないように見えました。これら避難所の様子を中学校の文化祭で展示すると生徒たちはすぐに一緒に行きたいと言い出しました。それがきっかけとなり東町中生のボランティア活動が始まりました。

《95年秋から中学生のボランティア始まる》
炊き出し場所は、東灘区の岩屋公園避難所にしました。交通費1280円と米2合(1合は自分用、もう1合は避難所の方のため)と野菜1品を持ち、月に2回の炊き出しが1995年9月から1996年7月まで続きました。(1996年にO-157食中毒事件が堺市で起こり炊き出しは中止した)中学生にとっては高額な交通費だったと思います。しかし毎回20人を超える中学生が炊き出しに参加していたのでした。学校では掃除をサボってしまう子どもたちも、避難所ではよく働きました。人は本当に必要とされていると自覚したとき変わるんだと思いました。ある生徒はこんな感想を書いていました。

《生徒の作文》
私にとっては二度目のボランティアです。二度目とはいえ、やっぱり緊張しました。一度目の時はボランティアについて色々と教わりました。被災者の方に掛ける言葉の難しさについても教えてもらいました。そして今回、私は初めて地震と日本の政府について知りました。私は今までずっと被災者の方への義援金の支給などは政府が中心になって行っているのだとばかり思っていました。しかし家が全壊しても25万円の見舞金が支給されただけと聞き、ショックでした。地震から8ヶ月もたつというのに公園では未だテント生活をしている被災者の方もいました。ここまでほったらかしになっていたなんて・・・。私は9月24日の話を聞き、まだまだ行政がやり残していることがあるように思います。

神戸の街を焼き尽くす煙を遠く眺め、ニュースを見ては歯ぎしりし、涙を流すことしかできなかった私は、あの時できなかった神戸の街への支援を中学生と一緒に取り組むことができたのです。

阪神・淡路大震災から12年…震災と中学生の進路(改訂)

2007年01月16日 | 進路保障
今年も1月17日がやってきます。1995年1月17日午前5時46分、関西を襲った大震災は、6434人もの尊い命を奪った大災害でした。テレビ番組は、すべて特別報道番組に切り替えられ、行方不明や亡くなった方の名前を一日中読み上げていたのです。子どもたちの多くも地震の被害に遭いました。240人(1995年1月25日文部省調査)にものぼる小・中学生の命が奪われ、更にその数倍の子どもたちが重軽傷を負いました。神戸市を中心に180校もの小・中学校で臨時休校が続き(壊れずに残った教室は避難者であふれていた)それらの学校から1万人を超える緊急転校者が周辺都市へ流れていました。その中には多くの中学3年生がいると思われました。

当時、私は中学校で進路指導を担当していました。私の中学校がある○市S地区もまた大きな被害を受けていました。中学校の体育館は市内最大の避難所となり700人の地域の人たちが生活していました。体育館から登校する生徒も多数いました。小学生には分かりにくいと思いますが、中学3年の1月といえば受験を間近にひかえた大変な時期なのです。家を失った15人の3年生は不安を抱えながらも毎晩学校の職員室や会議室で勉強をしていました。私たち職員も夜の勉強会に付き合っていました。みんな必死の思いでこの状況を乗り越えようとしていたのです。

私は被害の大きかった他の中学校の進路担当者と連絡をとり大阪府教育委員会への要望書をまとめ府庁に行きました。家の全壊・半壊の被害にあった生徒に対しては①入学金と授業料の減免を行う②私立高校の入学金貸付を行うことが主な内容でした。私たちの要望は受け入れられ、大阪府は緊急の予算措置を行いました。

体育館での避難生活は3月に終止符を打ち、心配された卒業式は無事体育館で行われました。しかしあの広い体育館を埋め尽くした地域の人たちの不安な表情を私は忘れることができません。神戸の街を焼けつくす煙は、二日間にわたり自宅のあるT市からも望めました。飛んでいきたい気持ちを抑え、私は勤務校にあった避難所の応援と子どもたちの進路保障に奔走する日々でした。(つづく)

世界を意識する

2007年01月15日 | スポーツ
みなさんが『世界』を意識するのはどんなときでしょうか。オリンピックやワールドカップの応援をするときでしょうか、イラク戦争の報道を見るときでしょうか、それとも松阪や井川のメジャーリーグ入りの記者会見に接したときでしょうか。しかし多くの場合世界はテレビの向こう側に広がっており、自分が世界の中で活躍するというイメージは持ちにくいものです。ところが中学校の中にはすでに世界を意識し、世界を相手に活動している仲間がいます。みなさんにぜひ紹介しようと思い、原稿を依頼しました。

私はクラブ活動では陸上部に入っていますが、個人的にはテニスもしています。この前『世界スーパージュニア』という大会に出ました。予選からでしたが勝ち上がることができ、世界大会にあがれました。大会の1回戦ではタイの代表と当たりました。1つ年上で体格もがっちりしていてボールがすごく重たかったです。私はこの試合に参加し、世界の頂点に立つ事は、とても難しい事だと改めて思いました。なぜなら、勝っていくには相当努力をしなければいけないと思ったからです。やっぱり努力をすると自分に自信がついて自分をもっと磨いていけると私は思っています。なので、これからも自分を磨いていけるよう頑張りたいと思います。【2-1 ○○○○】

○○さんが書いた文章はひかえめですので、日本代表として国際試合に出ていることが伝わりにくいと思います。日本テニス協会のHPで○○さんの戦績を調べてみると2005年では、第84回毎日テニス選手権シングルの部ベスト8、全国選抜ジュニアテニス大会シングルの部3位で、2006年度では14歳以下女子シングルランキング(2006年10月現在)全国で5位という成績でした。

○○さんは「自分を磨いていけるよう頑張りたい」と書いています。全国レベルでの試合の経験を積むなかで、「世界」という目標が自分の中に生まれ、より自分を磨きたいという気持ちにつながっているように私は思えました。このことは皆さんにも通じると思います。小学生が中学生になる、中学生が高校生になるというように、新しいステージに立つことで、新しい目標とそれに向け自分を磨く必要性が意識されるのではないでしょうか。3学期は、春からの新しいスタートに向けた一年の仕上げの時期です。ひとり一人の目標達成に向け、自分を磨いて下さい。

5年後につなげた夢~中学校二十歳の同窓会(成人式)

2007年01月13日 | 子育て
5年後の自分に手紙を送る『白いポスト』の取り組みが中学校で始まって10年目になります。義務教育を終え中学校を巣立つ卒業生の夢がかなうことを願って『おやじの会』が始めたものです。中学を卒業し5年がたてば二十歳になります。白いポストに投函された手紙は、5年後の成人式の会場でおやじの会から手渡されるのです。今年も中学校を卒業した36期生の新成人たちは、市主催の成人式を終えた後、自分たちの手で成人を祝う二十歳の同窓会を開催しました。会場となった○○阪急ホテルには、東京や横浜から駆けつけた104人(卒業生144人中!)と、当時の担任ら6人の職員が参加し成長を祝い合いました。

《手紙のことばの重み》
中学校の取り組みは、今年もNHKの取材を受けています。○○阪急ホテルでも手紙を開封する姿がテレビカメラで撮影されていました。5年前の夢に向かってまっしぐらの者、あの頃ってこんな風に考えていたんだと感慨にふける者、夢を見失いかけて5年前の自分に励まされた者など様々な表情がカメラにとらえられていきました。その中に開封直後、絶句した卒業生がいました。手紙には、母親のことばが添えられていたのです。「二十歳を迎えるあなたと出会えることが母の一番のしあわせ」と結ばれていました。立派な夢に向かっている姿は確かに素敵ですが、子どもが生きているだけでしあわせという忘れてはならない原点に触れた一瞬でした。

《地域で育ち合う》
36期生の在学時に私は生徒指導を担当していました。どの時期をとっても私たちの中学校は落ち着いた学校として市内の教職員の間では評判でしたが、それでも今の中学生と比べれば数倍の「問題行動」があった学年でした。クラスでのイジメ、相手に怪我を負わすまでになったケンカ、それらに係わる校長室での謝罪が私の記憶に残っています。一時的には「顔も見たくない」ほどいがみ合った関係を、何とか修復して卒業していった子どもたちもいました。それでも5年後には、お互いの顔を見たいと思い集まったのです。

私は保護者向けの入学説明会や懇談会など機会があるたびに、「私たちの中学校はイジメの無い学校を目指しているのではなく、イジメを解決できる学校を目指している」と語ってきました。自我の目覚め、恋への憧れ、膨らむコンプレックス、親との確執、友情の深まりと対立、進路の不安、大人でもなく子どもでもない「疾風怒濤」の中学生時代を何事もなく過ごせる子どもなどいません。しかし二十歳を迎えた卒業生と再会し、確実にひとつの山を超え、成長した姿を見て心から喜べたのは、私だけではなかったと思います。「先生と一緒にお酒を飲める日が来るなんて、本当にうれしいです!」彼らをほめることは少なく、叱ることの多かった私でしたが、この言葉にホロッときそうになりました。危ない危ない。

小さな灯②~たすきを繋(つな)げる

2007年01月08日 | 進路保障
正月に箱根駅伝を見ながら「チーム力が個人を強くする」としみじみ思いました。同じチームで同じ苦しい練習に耐えながらも箱根のコースを走れなかった陸上部員は山のようにいます。しかし「先発メンバー」を絶えず脅かす「控え選手」の層の厚さが、結果として一人ひとりの力を押し上げます。たすきを繋げようという熱い想いが、選手の考えられないような力を生み出すのです。

進路もまた、そうではないかと思うのです。通信制高校への進学が、本当に「あまりにも楽な」選択であったのかどうかは、私には判断できません。しかし自分の進路が決まっていても、最後の一人の進路が決まるまでは緊張感を持ち続けようという想いが、みんなの力を引き出したことと思います。修学旅行の思い出も、卒業生の進路を聞く会も、総合劇の取組も、体育大会や球技大会の団結も、全てがこの進路という壁をみんなの力で乗り越えるためのステップでもあったのです。「卒業しても一緒の制服を着ような」友達のこの一言が限りない励ましになったと、一人の卒業生が語ってくれました。進路の取組でも、たすきは繋がっているのです。

先生の個性

2007年01月07日 | 短歌・詩
職員室先生の個性垣間見る 机の様子椅子の向き方 (埼玉:高3 恵子18歳)

「Kさん、××の書類はどこにありますか」すると、「はい、これ」とすぐさま標高30cmはある机上の山から目当ての物がひょいと出てくる。かと思えば、授業から戻ってきたNさんは、「誰か僕の机の上を触ったかな」との独り言。どうしてと聞くと、「筆箱と定規を置いている角度が変わったので」との返事が帰ってくる。机の上に生徒のノートが積まれている、季節の一輪挿しが飾ってある、蝉の抜け殻を並べている、阪神の勝った日はスポーツ新聞が置いてある、我が子の写真がある、落し物が置かれている、生徒の写真がいっぱいなど、確かに職員室の机は個性の展示場のようです。

そして学期末の職員会議では、必ず教頭が「新学期を迎える前に、机の上を片付けて下さい。」と言うのです。

小さな灯(ともしび)~岡田誠治

2007年01月05日 | 進路保障
岡田誠治。保護者のみなさんの中には、この名前を覚えている方もおられることと思います。岡田先生は、1978~1984年の時期に東町中学校に国語科教諭として勤め、1997年1月に41歳の若さで亡くなりました。PTA新聞北稜72号に、先生は次のような文を載せています。


今年もまた秋風に物想う頃がやって来ました。この秋風が北風にかわり、教室のストーブの赤が映える頃、三年生の心の中が寒々と冷えきってくるのが、毎年の自然な繰り返しなのでしょうか。

進路の懇談、受験突破のための塾通い、そしてテスト。ついつい誰もが自分さえ良ければいいという考えを持ってしまいがちな状況が、彼らの周囲に渦巻いているのですから、それは無理もないことかも知れません。

しかし季節の寒さ・心の寒さが増せば増す程、人の心は当然温かいものを求めていきます。「やさしさ」「思いやり」「いたわり」こういったものに触れたいと、心の底から願うものです。

今年の二月、三年生の担任として、生徒たちと悴(かじか)む手足を擦(こす)る思いで生活していた時に、私の見た小さな灯のことを、ここに記します。

それは、二月といっても、ほとんど三月に近いある日から始まりました。朝、教室に行くと、部屋の中に漂う雰囲気が、どこか普段と違うのです。クラスの生徒たちの様子は、特に変わらないのですが、自分の立っている場所や目にとびこんでくる風景が、やたらと明るく感じられるのです。それがどうしてなのかは、すぐにわかりました。教室の床や黒板が隅々まで美しく掃除され、机や掲示物がきちんと整頓されてあったからです。「きのうの掃除当番は、すごく一生懸命に掃除したんやなあ。」その日はそれで終わりました。

ところが、教室は次の日もまた次の日も殊更(ことさら)美しいのです。最初の日には気づきませんでしたが、掃除監督として点検した時の数倍の美しさで、教室が光っているのです。「誰や?誰かが掃除してくれてるのやろ。誰なんや。」生徒たちもきょとんとしているだけです。いったい誰なのだろう…。そのうち、一人の男子が、「ぼくです。内申上げてほしいからやりました。」とニコニコしながら、元気な声で言いました。「へえーお前か。内申上げてほしいからというのは寂しいけど、まあ、ええことやな。」すると、「ウソでーす。」と一緒に大きな笑い声。しかしその笑い声が消えた時、クラスの生徒たちは、誰もが「謎の掃除人」に対する興味に満ちた顔になっていました。

「掃除をしてくれている人は、クラスの仲間に気づかれないように、みんなが登校してくるずっと前に学校へ来て、一人でせっせと教室を磨いてくれている。それが誰なのかは、朝早く教室にいればすぐわかるのだから、明日あたり、誰かが私の所に第一発見者として、誇らしげに報告に来るだろう。」案の定、翌日、名探偵を気どった男子が、ヒソヒソ声で話しに来てくれました。

二月の下旬、私立の入試が終わり、「卒業」という言葉が本当に身近に感じられる頃、この掃除は、ある一人の女子によって始められました。彼女は卒業後、通信制の高校に進むことを決めていたのですが、公立入試を控えて毎日を忙しく送っているクラスの仲間たちに比べて、自分はあまりにも楽な生活を送っているので、他のみんなが少しでも勉強しやすいように何かできないかと思い、これを始めたということでした。掃除の輪は、すぐに就職と定時制高校に進路を決めていたもう一人の女子、そして私立専願で合格をしている女子へと広がり、名探偵が私に教えてくれた時は、毎朝三人で朝早くから教室を磨いていてくれていたのでした。

ほんの小さな出来事ですが、この小さな灯が、私やクラスの生徒たちの心を明るく温かく燈してくれたことは、言うまでもありません。

生徒たちは、教室が磨かれた理由を知ったあと、無神経にゴミを投げ捨てることに、きまりの悪さを感じたようです。他人のために奉仕的な行動をとる者の存在は、中学3年生の冬という寒い季節を過ごす彼らの胸の中では、一つの驚きに終わることなく、確実に、柔らかな日差しのようなぬくもりとなって、彼らを内側から暖めてくれたように思いました。

─ 我が東町中に同様な灯の広がりが生まれることを、心より願って………

新年のご挨拶を申し上げます

2007年01月01日 | 話題
小学校と中学校の兼務につき2年目となりました。東町3丁目小学校と書かれた転勤名簿を見た多くの友人から「どうしたん!」と心配された1年目でしたが、正式には「大阪府不登校専任教員」という名前と小・中学校兼任の辞令が出されています。東町中学校では学校に登校しにくい子どもたちの支援に取り組み、北町小学校では高学年の社会科授業と小中連携の取り組みを行っています。また北町小学校も巻き込んで校区新聞『かけはし』を発行し、子育て・いじめ・進路などの教育問題や人権・平和の問題を保護者と共に考えています。校区新聞の内容は、ブログ上で公開しています。『教育相談室かけはし』で検索して下さい。

昨年末に教育基本法が改悪されました。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」(憲法12条)という先人の戒めを肝に命じ、努力を重ねたいと思います。   07.1.1