教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

車内での出来事

2009年08月21日 | 障害者とともに
阪急電車に乗っていたときの出来事です。私はS駅から梅田へ向かったとき、向かいの座席に、30歳近い男性が座っていました。知的なハンディーがあるように見えた男性は、隣に座る二十歳ぐらいの女性に話しかけ、握手をしてもらっていました。男性は、その女性のことがとても気になったようで、今度は足を触ろうとしてしまいました。そのとき女性は、伸びてきた男性の手を受け止めて「足はダメよ。」と優しく、しかしきっぱりと注意したのです。

私はその鮮やかなやり取りに感心しながら見ていました。そのうち十三駅で女性が下車したとき、初めて目の前の二人は知り合いでなかったことが分かりました。障害者を受け入れるとともに、間違いを起こしそうになった時にはきっちりと注意ができる、この二つのことを初対面の人にサラッとやり遂げたこの女性はスゴイと心の中で拍手しました。

「障害者への理解」という課題を考えたとき、どれだけ素晴らしい人権学習や道徳授業を受けたとしても、障害がある仲間と一緒に生活をしていなければ、この女性のような自然な対応はできないと思います。北摂にある多くの中学校が、障害のある生徒を原学級に受け入れて30年が経ちます。社会の動きに翻弄されることの多い学校教育ではありますが、学校教育もまた社会を変える一つの力であると思えたできごとでした。

地域で育つ~俊介二十歳を迎え③

2008年02月18日 | 障害者とともに
 成人の日、母親の私はうれしさ半分。寂しさ半分(笑)。当日はサポーターと式に参加をした。俊介と一緒に行きたい気持ちはやまやまだったが、娘に「20歳になっても親がついて行くなんてありえん!」と釘をさされてしまった。会場ではたくさんの友人に囲まれてカメラに納まっていた。

 市民会館での成人式の後、母校の○中で同窓会があった。私は保護者なので、隣の部屋にいたが、俊介の周りにはたくさんの友人がいつもいた。俊介にいろいろ質問やら話かけたり、肩くみながらの懐かしい場面がそこにはあった。その後3年1組だけの同窓会がちゃんこ鍋屋であり、俊介も参加した。その日クラスの女の子からメールが来た。「俊くんはやっぱり1組のアイドルでした。」

 友だちっていいな。学校へ行くことが熱心でなかった俊介だが、仲間と過ごした同窓会が心地良いものだったことは、迎えに行った時の彼の優しい顔を見てとれた。

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《連載を終えて》新聞に障害者の成人式が行われたという記事が紹介されていました。成人式の前日のことでした。私はその会が暖かな雰囲気の中で行われたことを喜ぶとともに、そこに参加した新成人のうち何人が本番の成人式に参加するのかなと思いました。

 私たちの○中学校で『二十歳の同窓会』を始めたのは、車椅子での生活を続けた卒業生を成人式に引っ張り出すためでもありました。本人は参加したがっているけれど、お母さん一人の力では車椅子の娘を成人式の会場まで連れていくことは無理だし、晴れ着を着れない娘を華やかな会場に連れて行く勇気もお母さんにはない。そんな気持ちを伝えると多くの同級生が動いてくれました。それから5年。先輩の取り組みは後輩たちに引き継がれています。テレビのニュースで成人式を見るのか、友だちと一緒に成人式に参加するのか、その差は大きいと思います。障害があるないにかかわらず、○中を卒業した全ての皆さんが楽しく希望を持って参加できる『成人式と二十歳の同窓会』が今後も続くことを願っています。

地域で育つ~俊介二十歳を迎え②

2008年02月17日 | 障害者とともに
 今は10歳になる下の弟が、小学校1年生のときのことである。道徳の授業で障害がい者の話になったとき「障がい者はアホや」というクラスメートの言葉に、「オレの兄ちゃんは障がい者やけどあほちゃうで。」と発言したと担任から聞いたことがあった。それまで俊介が障がい者で、なんて話し方を私からしたことがなかった。小学校1年生でも見ているところは見ていて、大声で兄ちゃんは障がい者と言ったことにびっくりした。子どもは本当に真っ白で、いかようにも染まるものだと思った。障がいは特別ではない、そんな生き方が小さい彼にもちゃんと伝わっていたのだと思うとうれしかった。3人兄弟たちは、俊介が毎日ベランダでうなりながら飛ぶことや、ひとつの行動に対して必ず確認の返事をもらうこと、何度も同じことを言うことに自分たちの言い方を少し変えると会話が成り立ったりすることが、生まれたときからのつきあいで自然な流れとして育ってきた。こんな付き合いが社会の中で育っていければ進路や就労で悩むことはなくなるのになぁ、と思う。今だから言えることだが、進路を地域の学校にするか養護学校にするかなんて迷うこと事態がおかしい。(私も迷っていた。だいたい養護学校があるから迷うのだ)今生きている場所から逃げず、自分の足元から良くなるよう考える。そのことを親を始めとしてまわりの人たちが持ち続け、大きな力になれば世の中はきっと変わるに違いない。

今回は紙面の都合で、息子の成人式を迎えるお母さんの長い回想で終わりました。次回はついに成人式当日のお話になります。


地域で育つ~俊介二十歳を迎え①

2008年02月13日 | 障害者とともに
 市内の○中を卒業した○○○○さんが二十歳になり友人たちと成人式に参加しました。『考える会通信』(「障害」児の生活と進路を考える会発行)に掲載されたお母さんの手記をご本人の了解の下、2回に分け紹介させていただきます。障害がある・ないにかかわらず、子どもたちが同じ学校に通い地域で育つことでお互いを強く優しく成長させてきたことが伝わるのではないでしょうか。

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俊介二十歳を迎え① ○○○○
 俊介がやっと、いや、とうとうと言うべきか、成人式の日を迎えた。11月に初めてのスーツを購入するために紳士服店を訪れた。3軒目(やっとサイズが合って)で、少々ご機嫌斜めだった俊介は、店員さんの「どんな感じが良いですか」の質問に、自分の頭をたたいて「ウヲーッ」と言った。その後俊介は私にあれこれ説明をしてくれたが、結局妹が選んだスーツを試着した。なんとりりしい・・・私は思わず涙がぐっと込み上げてきた。

 俊介20歳。私もお母さんになって20年。映画の回想シーンのようにいろんな場面が頭の中を駆け巡ってくる。ホンマにいっぱい、いっぱい苦しんだし、悩んだなあ。しかし、やはり私をホントの「お母さん」にしてくれた俊介には「私の子どもに生まれてきてくれてありがとう」の言葉を贈りたい。

 俊介を自閉症と認識した2歳の頃、自閉症という言葉の意味がよく知られていなかったと思う。「自閉症なんです」というと「自閉症って家から出られない人のことじゃないの?」と「引きこもり」と勘違いされることも多かった。近所の子どもと遊んでいても「多動がうつる」とか言われたこともある。

 社会に出て初めて障がいを持つ人と知り合ったとき、戸惑い、どう接したらよいのか分からないのは当然だろう。いきなり自分の頭を叩いて「ウヲー」と言われたら困るのも分かる。でも俊介が普通に学校に行ったので、一緒に暮らした子どもたちは、社会に出たとき障がいがある人と出会っても自然に当たり前だと思うに違いない。

 俊介には、6歳下の双子の弟と妹、10歳離れた弟がいる。弟と妹は俊介が大好きである。妹が小学生のとき、俊介の部屋の床にマジックで「俊くん大好き。20歳になってもずっと一緒にいようね」と書いていたことがある。20歳になったら家を出て行くと思っていたのかは知らないが、お兄ちゃんをスキだという気持ちと、それを率直に出せることが嬉かった。俊介もまた妹には特に優しい顔になる。成人式のスーツやネクタイ選び、市民会館への送迎にもついてきた妹。彼女も俊介がともに育った仲間の中にきちんと居場所があったことをうれしいと思っているに違いない。(続く)

こころって、どこにあるの

2006年10月30日 | 障害者とともに
(「障害って、なんだろう?どんどん」 1985年発行 「障害児教育自主教材編集委員会」編より)

 おばさんね、きのうゆめを見たの。とってもこわいゆめ。
 なあんにもないところに、おばさんがたったひとりなの。だれもいなくなって、大きなこえを出そうとおもうんだけど、こえも出ないのね。つめたいあせが出てね、ううっていったとき目がさめたのよ。
 おふとんの中から、ぐるっと見まわすと、いつものおばさんのへやなのね。ジュンも、おじさんもぐっすりねむっていたので、とってもあんしんしたの。でも、ゆめがとてもこわかったから、おばさんの心ぞうがどきどきいって、すこしの間、ねむれなかったわ。

 きのう、ジュンが学校からかえってくるなり、おばさんにきくの。「ねえ、おかあさん、こころってどこにあるの?」って。おばさんびっくりしちゃってねえ。だって、そんなこと考えたことなかったもの。それでね「さあ、どこにあるのかなあ」ってジュンといっしょに考えることにしたの。
 「こわかったり、びっくりすると、むねがどきどきするから、こころって、むねにあるんじゃない?」っておばさんがいうと、ジュンったら「どきどきするのは、心ぞうっていうんだよ。血がはやくながれるから、どきどきするんだよ」って、えらそうにいうの。
 夜、ジュンがねむってから、おばさんね、「こころって、どこにあるのかなあ」っていろいろ考えてみたの。だから、あんなこわいゆめを見たのね、きっと。
 でも、ほんとうに、こころってどこにあるのかしらねえ。どんなかたちなのかしら。よくわからないけれど、こころって、かなしくなったり、うれしくなったりするところでしょ。どうしてそうなるのかなあ。

 きょねんね、おばあさんが死んだの。そう、ジュンのおとうさんのおかあさん。それで、おじさんがポロポロないてね、とてもかなしそうだった。そりゃそうでしょう、おかあさんがいなくなったんだもの。ジュンもおばさんも、そんなおじさんのかなしそうなかおを見ていたら、とてもかなしくなったわ。きっと、おじさんのこころがわかったんだとおもうのね。こころって、きもちと同じものかもしれないね。
 おばさんには、ジュンやおじさんがいるから、よろこんだり、かなしくなったりできるのよね。もしだあれもそばにいなかったら、おばさんのこころって、はたらかないとおもうのね。そこの花びんにいけてある花をみて、ああきれいだなあっておもうのも、こころのはたらきね。
 おばさんね、こころって、からだの中にあるんじゃなくって、おばさんとジュン、おばさんとおじさん、おばさんと花のあいだにあるとおもうのね。
 おばさんのまわりにいるひとやものと、おばさんのあいだには、見えない何かがあって、それが、こころじゃないかしら。

 このあいだも、ジュンといっしょにテレビを見ていたらねえ、アフリカのこどもたちが、たべものがなくって、こまっているってうつっていたの。
 つぎの日ね、学校のきゅうしょくのじかんにジュン、そのアフリカのこどもたちをおもい出したんだって。きっと、ジュンとアフリカのこどもたちのあいだにも、こころがあるんだなあって、おばさんもおもったのよ。

障害児教育を(少しだけ)振り返る

2006年10月29日 | 障害者とともに
 特別支援教育が口にされる昨今ですが、私たちのT市では、30年以上も前から、すべての子どもたちの就学保障を行う取り組みがなされてきました。養護学校が入学を断ったため在宅になっていた子どもたちの家を訪問し、小学校への入学を案内するところから障害児教育が始まりました。

 T市で取り組んできた障害児教育については、誤解や無理解があります。そして、誤解や無理解を抱えたまま、次の世代に取り組みをバトンタッチせねばならない時期が迫ってきました。

 手元には20年前に作られた「どんどん」という自主編成教材があります。全国で始まった障害児教育の取り組みを踏まえ、教員・保護者・子ども・医師・地域作業所スタッフなどが集まって作った冊子です。この教材を紹介しながら、もう一度私たちのすすめてきた障害児教育について振り返ってみたいと思います。勿論、私の取り組みや経験は、T市の障害児教育の全てを包括するものではなく、不十分で、しかも私なりに解釈されたものも少なくないと思います。しかし語る者がいなくならないうちに、その一端を紹介したいと思うのです。


映画『どんぐりの家』を観て

2006年08月08日 | 障害者とともに
6月18日の5.6時間目、人権学習の一環として映画『どんぐりの家』をよみうり文化ホールで観ました。この映画は耳が聞こえないために言葉を持たず、そのうえ知的障害がある圭子ちゃんの誕生と成長の日々を、家族や聾学校の仲間それに先生たちとのかかわりを通して描いたものです。

奇声や叫び声をあげ暴れまわる圭子ちゃんの行動がスクリーン一杯に映し出された時、しばらくは生徒たちの中から、それを面白がる笑い声が聞こえてきました。しかし自分の子どもを理解することができず、地域の人たちとのトラブルに疲れ果てていく両親の苦しみが伝わるにつれ、会場の雰囲気は一気に真剣なものに変わっていきました。

障害がある子どもとともに生きていくことは、多くの場合、家族にとっても容易なことではありません。しかし子どもの施設入所を考えたり、時には死をも考えながら、それでも子どもとともに困難を乗り越え自分も変わっていこうとする家族が紹介され、私自身も映画の中に吸い込まれていきました。しかし障害がある本人がいくら努力をしても、またいくら家族が支えても、社会全体が障害者を受け入れないものであったなら、小さな個人の頑張りは、すぐに吹っ飛んでしまいます。「子どもが大きくなるのが怖い」「この子を残して死ねない」「この子より一日長生きしたい」映画の中で繰り返し語られた親たちの言葉です。

障害者とその家族を追い詰めている福祉の貧困は、競争社会の中で子どもたちが抱えている不安や、大型倒産・大量リストラ時代を迎え大人たちが感じている不安と、実はつながっているように思えます。映画が終わって「オレ、泣かんように必死になっててん」と担任の先生に話していたいつもは元気な生徒の言葉が聞こえてきました。子どもたちもこの映画から多くのものを学んでくれたように思います。
東町中学校生徒指導部だより「千里馬」15号1998年6月25日発行

仲間を気遣う心…小学校5年鉢伏キャンプから

2006年06月15日 | 障害者とともに
 6月7日~9日に行われたキャンプ二日目の午後は、鉢伏山頂(1270m)を目指した登山の予定でした。しかし朝に見た、登山口に立つ吹流しは、麓から山頂に向かい激しくなびき、雨降らしの風が吹いています。案の定、出発直後から降り出した雨は徐々に強まり、高丸山(1070m)付近では下着までずぶ濡れになりました。風も勢いを増し、さえぎるものがない尾根付近では、台風かと思うほど吹き荒れます。山頂への登山は諦め、高丸山で引き返すことにしました。

 「雨が痛い!」と言いながらも、子どもたちは懸命に足を踏ん張って歩いています。私は子どもたちが風にあおられてこけないよう、小柄な子どもたちと手をつなぎ、励ましながら歩いていました。その時ある子どもが私にこう言ったのです。「先生、Aちゃんがかわいそうや」Aちゃんは足が思うように動かず、坂道を登り下りするのは危険なため登山には参加していないのです。そのことを知らなかった5年生は、雨の中のAちゃんの安全を心配していたのです。自分の足元が危ないというのに。私は安心させようと、「A君は山登りが危険だから、下でみんなの帰りを待っているんだよ」と答えると、その子は「ああ、よかった」と安心してくれました。

 これは雨が突き刺さるように顔に当たり、全身ずぶ濡れになり、手足がかじかんでいる下山途中での会話なのです。「自己中心的」「他人の気持ちが分からない」と言われる現代の子どもたちですが、濡れなかった友だちのことを「ああ、よかった」と言える、そんな素敵な子どもが、私たちの校区に育っていることを嬉しく、そして誇りに思えたのです。世間でどんなエグイ話があっても、学校の中で起こる素敵な話を、この新聞で伝えられることも幸せに思えるのです。

卒業式前日に配られたある保護者の手紙②

2006年03月11日 | 障害者とともに
この手紙は、2005年3月の中学校卒業式前日に保護者からいただき、卒業生全員に配布したものです。この○○小学校の卒業生でもあったので、了解をいただいたうえで「かけはし」にも掲載させていただくことにしました。

子どもは授業の中だけで学ぶのではなく、生活や遊びの中でも多くのことを学びます。地元の小学校に通うようになった○子さんが会話ができるようになり、信号を守れるようにもなったというお話を聞き、本当にそのことを実感しました。

成長を遂げたのは○子さんだけでなく、周囲の子どもたちもそうでした。

2002年の4月、中学校には○子さんを含め4人の障害がある生徒が入学しました。障害児学級担当となった私は、本人や保護者の不安を和らげるため入学式前の家庭訪問を行いました。○子さんの家に行くと、たくさんの子どもたちが集まって料理を作っている場面に出会わせました。聞くとその日は○子さんのお母さんの誕生日だったのです。以前○子さんのお誕生会のときにもてなしてもらったお返しをしようと同級生の友だちがお母さんの誕生会を開いていたのです。

子どもたちが集まってお母さんのお誕生会をしてくれる!こんなうれしい話は、見たことも聞いたこともありませんでした。○○小学校では、こんなに優しくステキな子どもたちが育っているんだと驚くとともに、この貴重な遺産をつぶしはいけないと気持ちを引き締めたことを思い出します。

ハンディーがある仲間がいたことで、中学入学後も子どもたちはとっても優しくなれました。卒業前のソフトボールレクのとき、ピッチャーをしていた普段やんちゃなA君は、なんとか○子さんのバットにボールを当てようと、懸命になっていました。A君のあんな優しい顔を見ることができ、私はすごくほっとしたのです。調理実習のとき、○子さんが食べ残して困っていた料理を「僕が食べるわ」といってぺろりと食べてしまったB君には、驚きました。狭い心を持っていた私は大人になるまでは、他人が箸をつけたものを口にすることができませんでした。勉強ばっかししていたように見えたB君にとっても、○子さんは大切な友だちだったのだと思いました。

そんな中学生たちが各教室でお母さんからの手紙を紹介され、○子さんのお母さんを通じ、子どもの成長を見守る「親の気持ち」をちょっぴり知ることができたと思います。「先生、卒業式の前にあんな手紙を読むって、卑怯や!」涙を浮かべながら教室から出てきた中学生のことばです。


卒業式前日に配られたある保護者の手紙①

2006年03月11日 | 障害者とともに
中学校生活もほんとに最後になってしまいました。本人は卒業という意味がどこまでわかっているのかなぁというくらいあっけらかんとしています。小学校で経験しているので少しはわかると思いますが、私の方が寂しいです。ウルウルきそうで、当日は少し心配です。「私は高校に行くんだよ」と言っていたのに、この前は急に「高校に行くんではなくて養護学校だよ」と言ったのでびっくりしました。すぐに「養護学校の高校に行くのよ」と私が言うと「ふーん」と言っていました。

ほとんどしゃべれなくて、少しの単語を言う程度だったのに、小学校3年生で(養護学校から)○○小学校に入ってからは、一週間位でお友だちの名前が言えるようになった時は、びっくりしました。みるみるうちに集団性や社会性を身につけ、あれだけ教えてもわからなかった信号なのに、自分から「赤は止まれ、青は進めだよ。」と言ったときは、涙が出ました。お友だちの影響はすごいものだと感じています。

中学校に入ったらどうなるのかと心配していましたが、みなさんとても優しく、いろんな所で助けていただいて安心しました。無視されることもなく男の子にも声をかけてもらったり、勉強を教えてもらったりと、思いもよらないことでした。本人は、中学校は楽しいと言ってうれしそうに毎日学校へ行きました。行事があるたびに、楽しかったことを言ってくれたり、成長していったと思います。ほんとうにありがとうございました。先生方、お友だちみんなに感謝いたします。