教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

阪神淡路大震災から17年を迎えて

2012年01月17日 | ニュースを読む
あの震災から17年が経ちます。少しずつ遠くなったあの時の記憶が、東日本を襲った3.11の震災を通して浮かび上がってきます。私は自分の生涯であれ以上の震災に出合うとは思いもしませんでした。
ここに4年ほど前の古い新聞記事があります。この新聞には、あの阪神淡路震災から10年以上経ち、ようやく当時の事を話すことができた人達の声が載っています。辛い思いをした人は、なかなかその体験を口にすることができないものなのです。中には一生誰にも話せないまま、自分の中に閉じ込めてしまう人もいるのです。昨年の東日本の震災の記憶も語られるまでには多くの時間が必要なのかもしれません。今日はこの記事を通して2つの震災について考えてみたいと思います。

父林穣弥(じょうや)さん=当時57歳=を失った渋谷和代さん(39)
炎はどれだけ熱かっただろう
 「大丈夫やから、こっち来るな」 それが、父の最期の言葉でした。火が迫ってきます。父ががれきの中にいるのに、何もできなかった。私と母、兄は手を合わせて「ごめんね」と言うしかありませんでした。やがて火は家を包みました。少し離れて私たちは見ていました。泣きませんでした。私が泣くと、母はもっとつらくなる。そう思い、涙は流すまいと決めたのです。 あの日、私と父母が住んでいた神戸市長田区日吉町五丁目だけで、何人も亡くなったと聞きました。あちこちで家が崩れ、人が生き埋めになりました。男の人たちが集まって、助け出そうとするのですが、重機がないと無理な家もあります。私の家もそうでした。人力で救出できそうな家から回っていきます。私の家は二階建てでしたが、二階が一階になった状態。重い瓦やはりがのしかかり、人の手ではびくともしませんでした。何度か回ってきてもらいましたが、うちだけにかかってもらうわけにはいかなかったのです。 父と一階にいた母は、わずかなすき間から脱出して、二階にいた私は助け出されました。火事が起こっていることを知らなかった。でも、時間がたつに連れて、三軒先、二軒先と火が迫ってきた。灘区から駆けつけた兄と、近所の数人が屋根に上って、最後まで助け出そうとしていました。もうそこまで火が来たとき、母が叫びました。「あんたらがけがをする。もうええから降りて」 夜は長楽小学校の校舎の階段で寝ました。確か三日後に小雨が降って、兄が「もう消えたから、お父さん捜しに行こか」と言いました。焼け残った電子レンジのそばに遺骨はありました。三人で拾って、近くにあった箱に入れました。 結婚後、私は夫の実家の稲美町に移り、一男一女に恵まれました。震災について忘れていくこともあるけど、父のことを思うと「炎に巻き込まれてどれだけ熱かったろう」と今も涙が止まりません。それから、なぜか父の仏前で手を合わせられないんです。母のそばに、いつも父がいる気がして。母に孝行することで、父にも気持ちが通じている気がするんです。(2007/12/23)

父親そっくりに・・日航機墜落事故から25年

2010年08月31日 | ニュースを読む
【世界最大の航空機事故】
8月12日は、日本航空123便が群馬県御巣鷹山に墜落し25年目にあたる日でした。お盆の帰省客や旅行者、家路を急ぐビジネスマンで満席だったジャンボジェットは、羽田空港を夕方の6時に出発し、その約1時間後には、伊丹空港に到着するはずでした。乗員乗客合わせて520名もの命が失われた世界最大の航空機事故が起きようとは、誰も思っていなかったのです。

【事故が切り裂いた家族】
遺族となったのは、401世帯。そのうち22世帯は、一家全員が亡くなりました。一度に8人の家族を亡くした方もいました。母子家庭になったのは189世帯で、およそ半分を占めていました。妻だけになった家庭は37世帯、子供たちの一部を亡くしたのは35世帯、夫婦だけになった家庭が24世帯、父子家庭が13世帯、夫だけが残されたのが14世帯、そして子供だけが残された家庭は7世帯でした。

その中で、この日、テレビや新聞各紙は、今年24歳になった会社員小沢秀明さん(T市在住)の『25年』を報道していました。秀明さんは、母親である紀美さんのお腹にいたときに父親の孝之さん(当時29歳)を失いました。それ以来秀明さんは、毎年母親と一緒に慰霊登山を行ってきました。小さな頃は「僕のお父さんはいつ帰ってくるの?」と言って母親を困らせたとのことでしたが、「今になって、ようやく父の死後、一人で僕を産み育ててくれた母親の気持ちが、少しは考えられるようになった。」とテレビの中で話していました。お父さんに、そっくりになって・・・。

【伊丹空港に近いT市は日航機事故の「地元」だった】
秀明さんの父親である小沢孝之君は、私にとって中学校の同級生でした。バレー部に所属していたスポーツマンで、勉強も頑張っていました。奥さんの紀美さんとは、バレーボールを通じて知り合ったと聞いていました。出張先の東京から帰る際の思わぬ事故により、新婚生活を始めたばかりの小沢君は、生まれてくる子どもの顔を見ることなく無念の死を遂げたのです。

T市は、伊丹空港が地元なだけあって、多くの遺族が残されました。新聞には、一人息子・嫁・孫を一気に失い、独りぼっちになった市内在住83歳の女性の声も載せられていました。「昨年までは慰霊登山を欠かさず行っていたのですが、今年は山に登る体力が無く・・」本当に辛い言葉でした。

【御巣鷹山で開かれた日航社長記者会見】
25年という節目でもあり、御巣鷹山には前原国土交通大臣や日航社長も慰霊登山に出かけ(担当大臣も日航社長も慰霊登山に出かけるのは初のこと!)、手を合わせている姿が報道されていました。経営破綻(はたん)し、再建中でもある日航社長が慰霊碑の前で記者会見をしていました。社長は、「松尾静麿初代社長は『臆病者と言われる勇気を持て』、こう言ったんですけど、本当に我々はそれにもう一度、立ち返って安全を担保しきる、もうこれしかないと思っています」と声を振り絞るように語り終えると、マイクの前で号泣しました。大企業のトップが、カメラの前で気持ちをさらけ出し号泣するという場面は、あまりないことなので私は驚きテレビに釘付けになってしまいました。そして社長の顔をもう一度見て、「お前、大西やないか!」と叫んでしまいました。

日航社長大西賢は、やはり中学校の同級生だったのです。中学校ではサッカー部に属し、恵まれた体格で活躍していました。神戸市にあるN高校に進学し、T大学工学部に入学したとまでは聞いていました。

大西君について詳しい事情を知っている友人に聞くと、日航に入社後は整備部門を担当し、事故時には遺体収容所となった御巣鷹山地元の体育館に派遣され、遺族との対応に追われる日々が続いたそうです。当然、大西君は、小沢君の死も知っているだろうし、その後生まれた秀明君のことも十分承知していたはずです。安全を誓った社長記者会見の言葉の重みを信じたいと思うとともに、未だに様々な疑問を残していると言われる墜落事故の真相を、ぜひ究明して欲しいと思ったのです。



記憶をつなぐ・・阪神淡路大震災②

2008年01月24日 | ニュースを読む
 神戸新聞は『遺族が語る』という特集を組み、残された家族の声を掲載し続けています。「大丈夫やから、こっち来るな!炎の中から聞こえたその言葉が父の最期の言葉でした」「娘の足が瓦礫の下から見つかった後に成人式(当時は15日が成人式でした)の晴れ着姿の写真が届いた」「母の遺体が作ってくれたわずかな隙間で僕は助かった」など、あの日の記憶が語られています。

今回は淡路島の洲本市で、長男:比呂文さん(当時15歳)長女:さゆりさん(当時13歳)を失われた東さん夫婦の声を掲載します。

    ◇

《まだ強くは生きられない 》東昇さん(58歳)・東里美さん(51歳)
 もう十年。夫婦だけの生活にも慣れました。
あの日、一階で寝ていた子どもたち二人は抜けた二階の下敷きになりました。ふすま一枚隔てた隣室で寝ていた私たち夫婦も、タンスや梁(はり)に押しつぶされました。助けにいくことができず闇の中で何度も子どもたちの名前を呼びました。でも返事はありませんでした。長男の比呂文は当時中学三年生。料理が得意で台所の手伝いもよくしてくれました。だから「高校では食品加工を学ぶんだ」って。震災の前日には参考書も一緒に買いに行きました。さゆりは笑顔の明るい子。だれとでも仲良くなりました。近所の小さな女の子たちをまるで妹のようにかわいがって。将来の夢は保育士になることでした。

 二人とも友人に恵まれていました。神戸や大阪に就職した友達も、帰省したときにはよく自宅に立ち寄ってくれます。比呂文の友達は、誕生日がくると毎年お墓にメッセージカードを供えてくれます。二十歳を過ぎてからは、そこにお酒も加わりました。さゆりの友人も優しくって。三年前の「成人の日」でした。門出を祝おうと、私(母親の里美さん)が二十歳のときに着た晴れ着をタンスから引っ張り出して仏壇のある部屋に飾ったんです。「一人きりの成人式」の予定でした。でも、地元の成人式を終えた友人たちが大勢自宅に来てくれたんです。「一緒に祝いたかった」って。みんなが二人のことを覚えてくれている。周囲の支えがあってこその十年でした。

 だけど、まだ強くは生きられません。「希望を持って生きて」と励まされるけど、子どもを失った親の「希望」って何でしょうか…。十年が過ぎても答えは見つかりません。遺品はすべて段ボールにしまっていますが、開けてみることはありません。悲しくて、涙が出るから。節目の日なんて来ないと思うんです。二十年たっても、三十年たっても。(神戸新聞2005/08/28)

    ◇

 子どもを失った親の「希望」って何でしょうか。私は、この問いに対する答えを見つけることができません。何十年たとうが節目の日なんて来ない、という声は震災の記憶を心に留めておくことの大切さを訴えているようでした。

記憶をつなぐ・・阪神淡路大震災

2008年01月22日 | ニュースを読む
 1995年1月17日午前5時46分、関西を襲った大地震は、6434人もの尊い命を奪った大災害でした。テレビ番組はすべて特別報道番組に切り替えられ、行方不明や亡くなった方の名前を一日中読み上げていたのです。子どもたちの多くも地震の被害に遭いました。240人(1995年1月25日文部省調査)にものぼる小・中学生の命が奪われ、更にその数倍の子どもたちが重軽傷を負いました。神戸市を中心に180校もの小・中学校で臨時休校が続き(壊れずに残った教室は避難者であふれていた)それらの学校から1万人を超える緊急転校者が周辺都市へ流れていました。(『かけはし』NO.48より)

 あらゆることは自分に置き換えてみてやっと分かります。今になり中学3年生の皆さんには、1月17日に地震が起きたことの大変さが分かると思います。目の前の受験のことで頭がいっぱいになっているこの時期に家族が亡くなり、家はつぶれたのです。

 中学校で1995年4月から始めた(1996年7月まで続く)月2回の炊き出しボランティア(灘区岩屋公園避難所)には、多くの中学生が参加しました。生徒会の呼びかけで炊き出しのためのお米も集まりました。約一年半に及んだボランティア活動がきっかけで、大学で報道のあり方を学ぶことになった者や、医療に携わることになった者、消防署の救急隊員になった者もいました。現場に駆けつけることで中学生たちは震災から生き方を学んだのでした。

 震災報道を追い続けた神戸新聞は、『だから語り続ける 私たちの震災13年』という記事を連載し、当事者が震災を語ることの辛さ、辛さを乗り越えて語る意義を私たちに訴え続けています。(神戸新聞社の許可を得て、一部紹介させて頂きます)

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野村 勝さん(元消防士 69歳)
 「火さえ消してくれとったら、家族は生きられたんや」罵(ば)声とともに、消防士の野村勝さんに向かって灰皿が飛んだ。背後の壁に当たり、床に転がった。向かいに座っていた60歳くらいの男性。厳しい目をしていた。阪神・淡路大震災から間もない1995年3月。長田区役所での復興街づくりの会合に、住民の野村さんは出席した。街のあちこちにがれきが残り、大火の跡が生々しかった。「やることはやった。仕方がなかったんや」皆が震災当日を語る中で述べた野村さんの言葉が、男性の怒りを買った。13年前、野村さんは56歳。1月17日は垂水消防署の消防司令補として当直に就いていた。激しい揺れで机もテレビもひっくり返った。12人ほどいた隊員に、出動態勢を命じた。「ガス漏れや」。6時前に住民が駆け込んできた。現場に急行。最大音量で火を使わないよう叫び続けた。消防無線は信じられない現実を伝えていた。「塩屋町で倒壊家屋の下敷き」「長田、兵庫、須磨、灘、東灘で火災」「長田に応援に向かえ」―。長田区は火の海だった。放水しようにも消火栓の水が出ない。無線で応援を求めたが応答なし。「はよ消さんかい」「何とかして」。市民の悲鳴が突き刺さる。防火水槽を求めて歩き回るが、その間も炎は街を焼き尽くしていった。2週間後の非番の日、長田の街を歩いた。菅原市場付近で、骨と思われる小さなかけらがあった。手を合わせることしかできなかった。区役所の会合をきっかけに、野村さんは自分の職業を口にしなくなった。火災にどうすることもできず、多くの住民が亡くなった。「あの時こうしていれば」と何度も自問した。長田の現場が頭から離れず、眠れぬ夜が続いた。(神戸新聞1月15日『だから語り続ける 私たちの震災13年』より)

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 悲惨な現状を目の当たりにした震災で生き残った人たちの中には「生きていてよかった」と考えず、「自分が生き残った事が罪ではないか」という気持ちにおちいってしまう人がいます。心の優しい人ほどそう考えてしまいがちなのです。(戦争から帰ってきた私の父もそうだったと思うし、JR尼崎列車事故の生存者も同じような気持ちを語っています)野村さんもまたその一人でした。「助けられたかもしれない命を助けられなかったのではないか」という思いが消防士である野村さんに重くのしかかり、生き残ったことに悩む日々が続きました。

 そんな野村さんは故郷の徳島で看護士をしている同級生に頼まれたことがきっかけで病院関係者を前に震災の体験を話しました。

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 「さっきまで『助けて』と声がしたんです」と救助を求められたこと。手にしたホースからはわずかの水しか出なかったこと。怒りに任せた市民から突き飛ばされたこと。「それでも私は何もできませんでした」。静まりかえった研修室で、声を詰まらせながら話は続いた。救命という同じ仕事に携わる人たちに、問いかけずにはいられなかった。「当直の時に地震が起きたら医師とどのように連絡を取りますか」「この病院は担架の数は足りてますか」「非常用の照明の燃料はありますか」話し終わった後、しばらく拍手がやまなかった。

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 震災は人々の心の中に傷となって残っています。震災の記録だけでなく、記憶をつなげていくことが大切であると思うのです。野村さんはこの講演会をきっかけに震災を語り継ぐ活動を始めたのです。


事故の未然防止とは~エキスポランド事故を考える

2007年05月14日 | ニュースを読む
安全は保障されていなかった
5月5日エキスポランドで起きたジェットコースター死亡事故は、身近な施設で起きた事故であるため大きな衝撃を受けました。風神に乗ったことのある保護者や生徒の皆さんもいたのではないでしょうか(私は乗りました)。生と死を分け隔てていたのは全くの偶然だったのです。

安全と技術の軽視様々な事実が明らかになるたびに驚かされました。春の定期検査が営業の都合でゴールデンウィーク明けに回されたこと、記者会見を行った会社幹部に金属疲労の認識がまったくなかったこと、風神の営業開始後15年の間に一度も車軸が交換されなかったこと、補修点検会社は金属疲労の影響を考え8年をめどに車軸を交換するように指摘していたこと、過去30年間に28人もの命が遊園地事故で奪われていたことが国に報告されていたこと、にもかかわらず国からは各施設に対して事故の教訓はおろか事故情報すら伝えていなかったことなどがそうです。

営業や利益の前に安全や技術がないがしろにされた結果引き起こされる事故が後を絶ちません。技術立国日本と言われた栄光は遠い過去のものなのでしょうか。

ジェットコースターを止めることはできたか?
もしジェットコースターを運行している係員が「いつもと音が違う」と気付く、あるいは乗客から「この前乗った時より揺れが激しいように思う」という指摘を受けたなら、係員はどのような行動がとれたでしょうか。勇気を持って上司にジェットコースターの運行中止と点検を訴えたとしたら、どのような結果になったでしょうか。
考えられる結果①「運行中止などとんでもない。今まで事故は起こっていないしゴールデンウィーク終了後に点検するのだから余計なことを考えるな。」と怒られ上司から睨(にら)まれる②万が一、「混乱の責任は私がとる」と上司が言って運行を停止しても並んでいたお客様からは猛烈な抗議を受ける。このどちらかのケースが起きるのではないでしょうか。「事件は会議室で起きているんじゃない!現場で起きている!」という有名な台詞(せりふ)がありますが、現場判断が大切にされにくい現在の状況下で②のような結論は考えにくいでしょう。そもそも現場を大切にしている企業や役所なら、しっかりした安全マニュアルがあり、このような緊急事態は発生しなかったはずです。

事故が起こる度に、仕事や安全のあり方について問い直す必要があると思います。

子どもたちを巻き込む事件…先週のできごとから

2007年01月23日 | ニュースを読む
《青信号での交通事故死》
土日のニュースで何度も放送されたのは、タレント風見しんごさんの娘、えみるさん(小学5年生)の交通事故報道です。行ってきますと笑顔で登校した娘が数分後にはトラックに巻き込まれ亡くなったのです。しかも青信号の横断歩道の上で。

仕事は大切です。でもトラックは、通学する子どもたちの安全よりも大切なものを運んでいたのでしょうか。たった10年で人生を断ち切られたえみるさんと家族の悲しみを思うと、ことばがありません。トラックの下から病院に運ばれたえみるさんは、一度は心臓を動かしてくれたと風見さんは語っていました。最後まで生きようと努力していたのです。

当然のことですが、生を奪われたえみるさんが一番無念だったでしょう。風見さんは最後に「アクセルを踏む時、横断歩道を渡る時、少しでもいいからえみるのことを思い出して下さい。」と絞り出すように語っておられました。ハンドルを握る大人として、このことばを忘れまいと私は思いました。小中学生のみなさんも、青信号で横断歩道を渡るとき、5年生で亡くなった女の子がいたことを思い出して下さい。

《賞味期限切れ材料で作られたお菓子》
「金儲(かねもう)けは悪いことですか。」と記者会見で開き直った投資家がいました。どうして「悪いことですよ。」と記者たちは教えてやらなかったのか、私はテレビを見ながら思いました。お金とは、誰かを幸せにする仕事をした報酬として得られるものであり、人を混乱や不幸に陥れて得るものではありません。目的と(人を幸せにする)と結果(お金を手にする)を取り違えてはならないのです。耐震偽装事件を持ち出すまでもなく、人としてのモラルを忘れた人がトップに立つと、大企業といえども苦境に立たされることを私たちは目にしてきたはずです。

ところが日本を代表するお菓子メーカーが利益だけを追い求め食の安全性を踏みにじる行為をしていたことが明るみになりました。材料が賞味期限切れであることを知りながらお菓子が作られていたのです。ハムメーカーや乳製品メーカーで起きた事件が、またもや起きたのです。子どもたちを巻き込む食中毒事件にならなかったことが不思議なぐらいです。

テレビでは何人かの元従業員が匿名でインタビューに答えていました。彼らは一様に製造過程での衛生管理に疑問を持ち、作った製品を決して自分たちは食べなかったと語っていました。そこで働く者が口に入れたくない製品を作るお菓子会社とは、いったい何なのだろと思います。日産の自動車に乗りたがるトヨタ社員、ダイワハウスの家に住みたがるセキスイハウス社員はいないと思うのです。社員が食べなかったお菓子を社長やその家族は食べていたのでしょうか。自分が口にしないから衛生管理がズサンだったのではないでしょうか。

《無届けカラオケ店での焼死》
宝塚のカラオケ店火災では、16歳~18歳の3人の子どもが亡くなりました。調理場の火が引火して起きた火事でした。①消防署への無届け営業、②避難誘導灯や非常出口の不備など消防法違反の数々、③無届けを把握していながら立ち入り検査をしなかった消防署の対応の遅れ、④店員(アルバイト)が消火器の使い方を知らなかったなどの問題が次々と明らかになりました。助かった女子中学生3人は、携帯電話で消防士からの指示を受けていました。指示の内容は、⑴ドアを開けると廊下に充満している煙が部屋に入ってくるので開けてはいけない、⑵姿勢を低くしできるだけ煙を吸わないようにする、⑶鼻にハンカチをあてるなど基本的なことばかりでした。それでも指示どおりに行動した3人は無事に救出されたのです。

学校では年に一度火災避難訓練をしています。(それ以外にも不審者対応避難訓練、地震避難訓練などがあります)みなさんは中学校を卒業するまで、火災だけでも最低9回は訓練を受けているのです。そのなかで消火器の使い方も学びます。今回の火災で店長や経営者ではなく、アルバイト店員が逮捕されたのは気の毒とも思えます。しかし亡くなった3人が「火災が広がった原因は、店員が消火器の使い方を知らなかったため」だと知ったならどれだけ悔しい思いをするでしょうか。私たちは人生の中で、必ずといっていいほど火災現場に遭遇します。訓練の次に災害や事件が起こると考えていないと、取り返しのつかない事体に陥ります。

先週起きた3つの事件(テレビ番組ねつ造事件も含めると4つ)には、共通点があると私には思えるのです。「仕事」が「金儲け」へと変質させられています。金儲けのためには、モラルやルール、時には法律や人命も吹っ飛んでしまう社会の姿は、命や正義を大切にする教育・子育てに対する大きな脅威です。大人たちの責任が問われています。自分が生活して(働いて)いる場で、社会正義を実現させることが求められています。


埼玉県ふじみの市プール事故遺族の手記

2006年09月01日 | ニュースを読む
 事故から一ヶ月、新学期を前にした8月31日、ご両親の思いを綴った手記が発表されました。事故への静かな怒りと娘への言葉に言い尽くせない深い愛情がくみ取れる内容です。子どもたちの命を預かるものとして、この思いを大切に受け止めたいと思います。

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私たちの大切な宝物、瑛梨香が7才10カ月という短い一生を終えてから、一カ月がたちました。
 瑛梨香の事故以後も、全国各地で何の罪もない子どもたちが犠牲になっている事件や事故が起きており、それらの報道に接するたびに、私たち家族と同じような悲しみ、苦しみ、悔しさに耐えていかなければならない家族が、またできてしまったと、やりきれない思いです。
 瑛梨香も、家族やお友達と楽しく過ごすはずだった、長い夏休みも終わり、明日からは学校がはじまります。瑛梨香が大好きだった小学校。お友達や先生方と楽しく過ごした教室。そして、お友達とボールや一輪車で遊んだ校庭に、瑛梨香の姿はもう無いのだと思うと、切なくて涙が止まりません。
 突然の事故で、大事な瑛梨香を亡くした事。その悲しみはどんなに月日がたっても変わる事はなく、毎日家族で瑛梨香の遺影を涙の中から見つめております。
 瑛梨香が亡くなって改めて気づかされた事もあります。それは、瑛梨香が私たち家族だけでなく、たくさんのお友達、地域の方々そして学校や幼稚園の先生方に大事に育てていただいてきたという事です。
 子供達にとっては、受難の時代とも言えるような今の社会のなかで、瑛梨香はお陰様で、多くの方々の愛情を頂き、心も身体もすくすくと育っておりました。その瑛梨香の、これからの学校生活、成人式や母親になった時の姿などを夢みて楽しみにしておりました。それが、一瞬にして目の前から消え去ってしまった悔しさ、つらい思いは、いまだに何にたとえようもありません。
 あの事故がきっかけで、多くの方々の瑛梨香への思いが、全国のプールの安全を呼びかける「大きなうねり」になったのだと心から思えますように、「原因と責任の所在」を明らかにして頂きたいと思います。
 そして、二度と今回のような事故が起きないように「安全で楽しいプール」をつくっていくためにも、確固たる防止策を講じて頂きますよう、強く期待しております。
 最後になりましたが、多くの方々から、私たち家族への励ましのお言葉や、温かいお気持ちを頂きまして、ありがとうございました。これから、遺(のこ)された家族で、力を合わせて頑張ってまいりますので、温かく見守って頂きますよう、お願い申し上げます。
平成18年8月31日
戸丸 勝博
   裕子

玄倉川水難事故

2006年08月26日 | ニュースを読む
始業式の日に校長先生もふれられましたが、神奈川県玄倉川でおこった水難事件には誰もが大きな衝撃を受けたことと思います。人々が激流に飲み込まれていく映像がテレビで流されました。救助隊や報道陣が目の前にいるにもかかわらず、命を救うことができなかったのです。

事件をめぐっては様々な立場から論議が起こりました。その中で多くの人たちが指摘していたことは、件の職員や警察官から受けた警告を守っていたらこの事故は防ぐことができたということです。河川を管理している立場の者が危険と判断し避難命令を出しても素人判断で無視してしまう。「あぶなくなったら避難するから、ほっといてほしい」自然を甘く見た対応が大惨事を引き起こしたのです。

考えてみれば、このようなことは私たちの日常生活にも見られることではないでしょうか。「大人や先生は大げさに言ってるだけ」と思って、自然や社会を甘く見ていると取り返しのつかない事故や事件に巻き込まれることもあるのです。この時期は体育大会や文化祭の取り組みが続き、気持ちがうわつくこともあります。今一度自分の生活を見直して下さい。
(生徒指導部だより『千里馬』88号1999年9月13日)

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今年も河川での事故が続きました。特に私たちの市では1時間に110mmという観測記録を塗り替える集中豪雨が降りました。地球温暖化の進行の中で、自然が荒々しくなったと言われます。これから台風のシーズンも迎えます。子どもたちの安全については「臆病」でちょうど良いと思います。

プラットホーム転落事故を考える

2006年08月22日 | ニュースを読む
JR新大久保駅の転落事故が大きな反響を呼んでいる。転落した見知らぬ男性を助けるため、目前に迫った電車を顧みずプラットホームから飛び降りた二人(関根史郎さんと李秀賢さん)の善意と裕樹への賞賛が続く。韓国留学生李秀賢さんのお別れの集いには、総理大臣も出席した。勲章が贈られるということである。

プラットホームからの転落事故はJR東日本だけで57件あったという。記録されたものは列車が10分以上止まり死傷者が出た場合のみであり、すぐに助け出されたケースは記録として残らない。「東京視力障害者の生活と権利を守る会」が200人の視覚障害者を対象に調べたら3人に2人がホームから落ちた経験を持っていることが分かったという。

転落事故は珍しくはない。転落した男性を助けるどころか自分の命もなくしてしまった二人の死を無駄にしないということは、転落事故を防ぐための具体的な対策を国と鉄道会社が行うということである。それは第1に事故を防ぐための人員配置であり、第2に駅の構造上の改革である。

第1のプラットホームへの人員配置については、逆の方向に社会が進んでいる。国鉄がJRに衣替えしてから人員削減のため無人ホームは激増した。いまや都市部でさえプラットホームにはモニターカメラがあるだけというところが多い。転落する人をモニターがとらえても駅員が気づくのか、駅員が気づいてから現場に駆けつけて間に合うのか、疑問は多い。

それでは駅の構造はどう変わったのか。新幹線の生みの親と言われた技術者の島秀雄さんは1982年にすべてのプラットホームに橋にあるような欄干(らんかん)をつけることを提唱された。この提案は東北新幹線の各駅や東海道新幹線の一部の駅で実現された。しかし費用がかかることを理由に一部の駅での実施に終わっている。どんなに効果的な提案であっても、お金がかかるという理由だけで退けられてしまう。

事故を防ぐ立場にあるはずの政治家や鉄道会社からの善意は伝わらず、力も金も無い市民が命を張ってみせた善意だけがここにある。(生徒指導部だより『千里馬』145号2001年2月2日)


ワールドカップと孫子の兵法…敵と己を知る

2006年07月05日 | ニュースを読む
誰が名づけたのか知りませんが、世界三大ガッカリ名所というものがあると聞きました。マーライオン(シンガポール)・人魚姫(デンマーク)・小便小僧(ベルギー)が、そうらしいです。それを見習って2006年の日本三大ガッカリスポーツを挙げてみると、トリノオリンピック惨敗・巨人軍低迷(10連敗ご苦労様)それとワールドカップ予選敗退があげられるのではないでしょうか。ただし巨人の低迷については、「こんなにめでたい事はないという意見もあるかもしれません。しかしペナンとレース全体の興味を減退させているという点では、やはり「三大ガッカリ」当確だと思えます。 

トリノオリンピックとワールドカップについては、試合前の「予想」と結果のギャップが大きすぎたように思えます。オリンピック=「メダル10個はいける」、ワールドカップ=「予選リーグはいける」などといった冷静な戦力分析を無視した願望が先行し、試合が終わってみれば敗北の責任者探し。テレビも新聞も報道というよりは、応援団か予想屋になっていたようにもみえます。一度は持ち上げられる選手たちも、手のひらを返すように批判の矢面に立たされる日がつきまとうことを考えると気の毒に思えます。(ここまで書き中田の引退を知る) 

私は孫子の兵法をまた読み直しました。「彼(敵)を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」これは孫子の兵法の考えを最も象徴している言葉です。(他に「疾きこと風のごとく~」で始まる「風林火山」の言葉は、武田信玄の軍旗に染められており有名)私は最初にこの言葉を聞いたときに、あまりにも当たり前のことを、なぜ孫子が書かざるを得なかったのかが理解できませんでした。しかし歴史を学んでみると、無謀な戦いが国を滅ぼしたという事実が次々と現れます。日本が起こした戦争も、またそうでした。権力者が独裁的であればあるほど、批判的な意見を封じ込め、自分が気に入った情報にしか耳を傾けないのが世の常です。そうした情報収集の偏りが、政治判断の重大な誤りにつながっていきます。スポーツの世界や会社組織も同じではないでしょうか。(「たかが選手のくせに」と言った球団オーナーもいました)

孫子が兵法を説き2500年の月日が過ぎました。しかし私たちが事実に目を向け、真実に向き合うことは難しいようです。

仕事とモラル…耐震偽装問題のその後

2006年04月15日 | ニュースを読む
《守ろうとした家族と、その死》
 昨年秋に発覚したマンションの耐震偽装問題は、集合住宅に住む多くの人々に大きな不安と怒りを与えました。国会の中で国土交通省の役人を怒鳴りあげる、検査会社と建設会社の間で押し付けあわれる責任、久しぶりに国会は国民の大きな関心を集めました。その中で特に印象に残ったのは、「最初は設計士としてのプライドから拒否したが、病気がちの妻のことを思うと仕事を回してもらうため建設会社の意向に沿わざるをえなかった」という元設計士の言葉です。家族を守るためだから仕方ないという苦渋の決断。しかし偽装事件に手を染めた元設計士は、妻の自殺という悲しい結末を迎えることになるのです。「家族を守るため」という元設計士の決断は、本当に仕方なかったのでしょうか。元設計士は、今も「家族を守るため」には、あの道しかなかったと考えているのでしょうか。

《行過ぎた競争がモラルを崩壊させ人命軽視の風潮をつくる》
 私は大学で経済学を学んだため、ほとんどの友人は民間会社に勤めました。ある友人は私にこう言いました。「仕事の中で自分のモラルや価値判断と仕事の中身が矛盾したとき、どこで自分を納得させるか、どこまで自分を譲るのかを考えざるをえない。『子どもに説明できる内容であるか』それを自分が譲れない最後の判断基準にした」と教えてくれました。企業の競争原理は、しばしば私たちから社会の中から人間らしさを奪います。2000年Y乳業食中毒、2001年M自動車の欠陥隠し、2002年T電力原発事故データー改ざん、2004年M地所土壌汚染隠ぺい、2005年JR宝塚線尼崎事故、日常化したJ航空の機体異常など、日本のトップ企業で信じられないような事件・事故が続いています。安全性を軽視した競争が、時には人命を奪うような結末を招いています。

《わが子に胸張って言える仕事とは》
 子どもに説明できる仕事をしているか、言い換えれば、わが子に胸張って言える中身の仕事をしているかということだと思います。それは職種とか肩書きとは異なるものです。一級建築士という肩書きは胸張って言えても、耐震データーを偽装している事実を胸張って子どもに語れる父親はいないでしょう。4月13日の『めざましテレビ』(だったかな?)では、父親のラーメンの味を伝えたいといって店を出した息子が、父親への思いを綴った手紙が紹介されました。ラーメン店主をしていた父親は息子に胸を張っていたわけではありませんが、息子は父のラーメンの味に胸を張り、自分の目標としていたのです。

《子育てを通じて自分の内面にモラルをつくる》 
 子どもを授かり、育てていく過程を通じ、親は自分の育てられてきた過去に向き合います。そして自分という存在が、いかに多くの無償の愛に支えられてきたかに気づくのです。親は子育ての中で親になってゆくのです。育児という、まどろこしく、すぐには結果が現れない事業にかかわることで、人は忍耐と優しさを身につけていくのです。この人類の大切な事業に競争が持ち込まれるなかで、児童虐待が生まれます。また経済競争に勝つことにしか幸福の物差しを見出せないことにより、放任が生まれるのです。義務教育の9年間は子育ての真っ只中です。少し歩みを緩め、子育てに向き合いましょう。

 元設計士は、ついに告別式にも参加しなかったと報道されていました。余りにも寂しい告別式ではないでしょうか。

新聞から~弁当リレー支えられ春 

2006年04月13日 | ニュースを読む
4月11日の朝日新聞朝刊に、このような題の記事が掲載されました。

JR宝塚線脱線事故で中村重男さん(川西市)さんは、妻道子さん(当時40歳)を失います。大阪ミナミで人気の居酒屋を営む重男さんの生活は一変します。中学校三年の長男海里君を抱える重男さんは朝5時に起き息子の弁当を作り深夜0時過ぎまで店で働く日々が続きます。それを知った妻の5人の友人たちがローテーションを組み、海里君の弁当を当番でつくろうと決めます。恐縮する重男さんの手から「弁当つくるのに一人分も二人分も変わらない」と言って弁当箱を奪い取り、お母さんたちの手による弁当リレーが始まったのです。そのうちの一人はこう語っています。「道子ちゃんが一番海里君のことを心配しているはず。私が弁当を作っているのを見たら少しは安心してくれるかな」 

4月9日、父子は1本の桜を見にいきました。道子さんが子ども時代を過ごした大阪府のニュータウンでは、幼い頃に祖父と植えた桜が満開でした。その桜の下で合格発表をした写真が掲載されました。この街のどこかに道子さんの桜が咲いているのです。そしてこの街も、親たちの連携が子どもたちを救う街であってほしいと願うのです。

JR尼崎事故から学ぶべきもの

2006年03月28日 | ニュースを読む
大学の卒業シーズンです。JR事故で亡くなった子どもに代わり親が卒業式に参加したという報道が新聞やテレビでも流れました。ニュースを見ていると、あの事故が私たちに教えてくれたものは何だったのか、考えざるを得ません。『経済効率』と『人命』という、本来は天秤ばかりに載るはずのない二つが比較され、しかも経済効率が優先されたことが事故につながりました。そして考えるのです。あのニュースを見ていた『耐震構造偽造事件』関係者はどんな気持ちだったのか、と。偽造の陰で失われるかもしれない人命について、考えたのだろうか。そんなことを考えていたら仕事にならないと割り切ることが大人の生き方なのか、と。そして私たちが歴史から学ぶことの大切さについても考えました。「歴史は繰り返される」というのが先人の残した言葉なのですから。以下「かけはし」5月9日号の記事を掲載します。

JR福知山線脱線事故の関連報道が後を絶たない。私鉄に負けないスピードアップ、車両の軽量化、ATS(列車自動停止装置)新機種移行の遅れ、社員イジメの場となった日勤研修など、その後の対応でも辛い事実が明らかになっている。思いもかけず人生を終えられた人々のプロフィールが報道されるたびに目頭が熱くなる。犠牲となられた多くの命に哀悼の意をささげるとともに、この事故から学ばなければいけないことを考えていきたい。

《人間は失敗やミスをくり返す》
今回に限らず、事故のあと必ず語られるのが「事故を起こさないための社員研修の強化」である。乗客の命を守る専門職である乗務員が、研修を修め、技能を高めていかねばならないのは、当然である。しかし研修だけでミスがなくなると考えるのは、間違いである。人間の行動には、必ず思い込みや思い違い、見落としがある。それを補うための安全対策が、列車脱線防止装置や、ATS装置であり、乗務員に無理を強いないダイヤ編成と勤務形態である。残念ながらJRの安全対策は、そうではなかったようだ。

《ハインリッヒの法則》
アメリカの保険会社に勤務し、数々の労働災害事故を分析したハインリッヒは、『1・29・300の法則』を導き出した。死亡事故にいたる1件の重大な事故が起こる陰には、29件のかすり傷程度の事故があり、さらにその陰には、300件のヒヤッとする異常がある、というものである。JR西日本の乗務員にも、ヒヤッと感じる瞬間を「熟練のテクニック」で乗り切った経験があったのではないだろうか。確かに熟練のテクニックは大切であるが、それに頼っているようでは熟練になる前に命を落としてしまう乗務員・乗客がでても不思議ではない。F1レースをしているのではないのだから、誰が運転しても安全であるべきシステムがJRに必要なはずだ。安全な運行のための提案を現場乗務員が行い、必要であれば経営サイドが受け入れる、そんな関係をJRでは築けなかったのだろうか。

《失敗を隠さず教訓化できる職場環境が必要》
人間には失敗がつきものであり、ヒヤッとした体験を積み重ねた向こうには、人命につながる重大な事故があるとすれば、ミスや失敗は、その原因と背景が社内でキチンと論議されなければならない。ところが私たちの社会では、多くの場合、小さな事故が闇に葬られ、その結果取り返しのつかない重大事故を引き起こしてきた。原子力発電事故隠し、欠陥自動車隠し、大学病院での医療ミス、テーマパークで起きた飲料水配管工事ミス、回転ドアー死亡事故など枚挙にいとまがない。「考えられない」「あってはならない」と繰り返すだけでは問題の解決にならない。秘密裏に処理し、損失を最小限に食い止めようとしたことが消費者の不振を招き、経営危機に陥った企業もあった。「気のゆるみからミスが生まれる」「ミスが上司に知れれば勤務評価に響く」と怯え、口をつぐんでしまう代償はあまりにも大きく、取り返しがつかないのである。

JRとは労働の内容が大きく異なっていても、学校も子どもたちの命と未来を預かっている。自分が感じた「ヒヤリ」や「失敗」を私たちの教育課題として提案し、解決できる感性と勇気を、職員一人ひとりが磨いていかなければならない。