教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

「かけはし」を読み私たちはこう考えた②

2010年05月31日 | いじめ問題
だれも見ていないときに、手紙を書いて机に入れておくなんて、すごくひきょうだと思います。そのことで、何度も先生がみんなに注意したのに、やめずにコソコソして。見つかるのが嫌なら、やめればいいのに、と思います。同じクラスの友達が嫌な思いをしているのに続けるのはおかしいと思います。私はクラスの中で、こんなことが続いているのはすごく嫌です。《女子》

「かけはし」を読み私たちはこう考えた①

2010年05月28日 | いじめ問題
 5月17日号の『かけはし』を読んだあと、『いやがらせの手紙』についてみんながどう考えたのか、作文を書いてもらいました。作文には、注意された後も手紙を出している人がいることへの驚きと、平気で人を傷つけることへの怒りであふれていました。また同時に、「孤立している人を作らないようにしよう」と呼びかけるものもあり、みんなの正義感と優しさを感じることができました。一部紹介します。

 たぶん、ひどい手を使い、被害者の人にひどい内容の手紙を書いて机の中に入れた人は、自分のしたことの意味をわかっていない。そもそも手紙と言うものは、もらって嬉(うれ)しいものであると僕は思う。心が痛むことを書いて、その人を不安にさせるために使うものじゃないと思う。手紙は誰かに知って欲しいという時や、励ましたりするいいものだと思う。被害を受けている人は、不安と怒りで心がいっぱいだと思う。だから加害の人は、書いちゃいけない言葉などを知っていない最低の人間だと思う。被害者の人が困るような内容を手紙にして机に入れるのは、やめた方がいい。                                                      《男子》

みんなの顔を曇らせるできごと

2010年05月18日 | いじめ問題
 中学校の生活を、みんなは、いろんな希望や夢を持ってスタートさせたことと思います。またみんなのお父さんやお母さんは、わが子の中学校生活が楽しく実り多いものになることを願っていることと思います。しかし残念なことに◎組の中に根拠の無い話で、人を傷つけている人がいます。

 「お前ってヤンキーだったんだろ?コワい。みんなにばらしてやる。一人の人間を半殺しにしたって」「ヤンキー、かかってこいよ」(かかってほしかったら名前名乗れ・・・担任)「髪の毛キンパツ」(こんな生徒いないね・・・担任)「調子のってんじゃねーぞ」「ヤンキー、こえぇ」「席かえてもむだなんだよ」・・

 このような手紙を机の中に何度も何度も入れているのです。社会ではこんな行為を『ストーカー行為』と言い、これは明確な犯罪です。みんなの中学校生活を踏みにじる権利は誰にもありません。これらのことは、何度かクラスのみんなに伝えてきました。しかし未だに止めようとしない人がいるのです。

 自分自身に誇りを持って生きている人は、他人に優しく、決して人を傷つけたりしません。他人を妬(ねた)んだり人の不幸を願ったりする人は、コンプレックスを抱えていたり、不安を抱えている人です。みんなの会話の中に、他人への悪口はありませんか?みんなの前では恥ずかしくて言えないようなことをコソコソ陰で口にするのは、みっともないことだと思いませんか?人に嫌な思いをさせ自分だけが楽しい中学校生活を送れるって考えているのですか?クラスの中に、このような不正が続いていて、◎組が良いクラスになると思いますか?

 みなさんの考えを聞きます。そして保護者のみなさんは、子どもさんが、この「手紙」について、どう考えたか、ぜひご家庭で話し合って下さい。

子どもたちの復元力

2007年12月31日 | いじめ問題
 土曜の午後、クラブ活動を終え帰宅の準備をしているところに3人の卒業生がやって来た。同じ高校に通っていた3人は、一足先に推薦で大学に合格し、その報告に来たと言う。「あのな、今日は休日やぞ。いつ行っても学校に先生がいると思ったら大間違いやで。」と言いながらも、この子らも大学生になるんかと彼らの中学入学時を思い返した。当時私はこの中学校での生徒指導主事の仕事を終え、4年ぶりの担任を楽しんでいた。彼らの一つ上、38期の学年である。しかし39期の学年に耳が聞こえない生徒が二人も入学するというので担当教員を選ばなければならなくなった。いろんな経緯があったが私が立候補し、引き受けることになった。様々な不安のなかでの出発だった。

 「ウチらの小学時代はキツかったなぁ。」とA小学校の卒業だった一人が言い出した。「ウチらの学年の女子は性格がキツイ子がいて、小学校の時はイジメで大変やったね。」「さあから中学に入学したら平和やった。」「ほんま○中は平和やった。」

 「性格がキツかった子も一緒に入学したんやろ。その子はどうしてたん。」と私が尋ねると「中学に入ったら、みんな仲良しになってん。」「そうそう、B小学校からきた子らが仲良しやったから、それに影響されたんやと思う。」

 それを聞き、それまで黙って聞いていたB小学校卒業の男子が口を開いた。「そうやろ。ぼくら6年間ずっと一クラスやったから喧嘩でけへんかってん。男女も関係なく、ムッチャ仲良くしてたもん。」

 そうか。あの39期生にもそんなことがあったのか。小中連携が今ほど進んでいなかった6年前には、そんな小学校時代のトラブルに教員が気づくこともないまま中学生活が始まり、終わっていったのだろう。A小学校時代のキツイ人間関係に疲れていた子どもたちは、B小学校卒業生の穏やかな人間関係に癒され和んでいったのだろうと今になって分かった。おそらく他の学年では、その逆のこともあったに違いない。私が生徒指導主事として「生徒指導」を行うまえに、子どもたちはお互いから学び、和解し合っていたのかもしれない。

いじめのない学校とは~滝川高自殺事件を振り返る

2007年09月26日 | いじめ問題
 「これはいじめではない。犯罪だ!」文部科学大臣が激怒したと報道された滝川高校自殺事件は、9月になり連日のようにテレビ・新聞で報道されています。7月3日に発生したこの事件は、①授業中の学校で起きた飛び降り自殺であるという、それ自身ショッキングな内容に加え、②同級生からの執拗な金銭要求に耐えられないとする遺書が発見されたこと、③生徒の逮捕に及んでも「いじめは確認されない」とする学校の記者会見が異常さを際立たせました。

 学校の説明は「いじめは確認されていない」に始まり「お金の要求があったようだがそれがいじめであると断定できない」「いじめがあったようだがそれと自殺との関連については分からない」と変化し、現在は「生徒の自殺はいじめが原因の一つであると判断」(学校長のお詫び9月22日付)するに至っています。

 中高一貫教育を掲げ、医進コースや特進コース創設などの改革に積極的だった学校が、なぜいじめの発見や認定には消極的であったのかについて、自己検証が必要だと思います。私自身は「いじめはどの学校・どのクラスでも起こりうる」という前提に立つことがいじめ解決の第一歩になると思うのです。「いじめのない学校」にいじめが起きた途端、何の対策も打てずに事態が悪化するという状況は克服しなければなりません。いじめがあるからダメなのではなく、いじめが起きても何もしないからダメなのです。「いじめのない学校」を目指すから、いじめが起こるとそれを否定しようとする心理が起きるのではないでしょうか。「いじめが起きても解決できる学校や学級」こそ私たちが目指すべきものだと思うのです。

「恥」で済ますのか~いじめ自殺への学校の対応

2006年12月30日 | いじめ問題
12月28日の「命」をテーマとした夜の報道番組を見て歯がゆい思いをした。12年前に起こった大河内君のいじめ自殺事件の現場となった中学校が、取材を断るシーンを見てである。放送局側は、あの事件を教訓としてどのようないじめ問題への取り組みを行っているのかという取材を申し入れていた。校門に立ちはだかって取材を拒否した校長の言葉に耳を疑った。「恥をかかせないでほしい。」これが取材を断った理由だった。

恥というのは、誰にとっての恥を指すのだろうか。死んだ大河内君や遺族にとって恥だということだろうか。そうではない。大河内君の保護者は、あの時もそして今もわが子の死が無駄にならないために、いじめ克服に向け取り組んでおられる。この日のテレビでも全国の子どもたちに死なないでほしいと訴え続けておられた。校長の「恥をかかせないでほしい」との言葉は、「自分の恥」か、せいぜい「学校の恥」としか考えられない。子どもの死を「恥」という言葉で表現してしまうこの感性に大きな絶望と不信を感じてしまうのである。

恥じるような死など、ひとつとしてない。子どもの死を恥と感じるような校長は、もはや教員とは呼べない。

いじめ事件が起こり、中学校としてもいじめに立ち向かうための話し合いが積み上げられたはずである。教員は亡くなった生徒の死を一生背負いながら生きていこうとしたのではないのだろうか。恥じるべきは事件をなかったことのようにしようとする大人たちの生き方ではないのだろうか。

今も続くいじめ自殺事件から、何を学びどう教育活動の中に生かそうとするのか。その答えは全ての教員が見つけ出さなくてはならないものである。あの番組を見た校区の人たちは、校長の言葉にどれだけ不安になっただろう。私は幸いにしてこのような自己保身を口にするような校長にお目にかかったことがない。これからも、見たくはない。


「いじめる側にいたら」と想像する力(改定)

2006年11月10日 | いじめ問題
【いじめが起きた!そのとき大人たちは?】
ある日の学級懇談会で担任の先生から「このクラスに深刻ないじめが起こっています。」と告げられると、みなさんはどう考えるでしょうか。私も含め多くの人は、「わが子がいじめの被害に遭っているのではないか。」と不安になると思います。雑誌でも「わが子のいじめ被害の見分け方」「いじめを放置する無責任な親・学校と、こう闘う」という刺激的なタイトルが目立ちます。

【いじめる側に立つ可能性】
ところがあたりまえのことですが、いじめられる子どもがいるということは、必ずいじめる子どもがいるということなのです。いじめる側といじめられる側の関係は完全に固定化しているわけではなく、いじめる側にいる者は、いつかいじめられる側に「転落」するかも知れないと考え、そのことへの不安がいじめに子どもを駆り立てることがしばしばあります。

わが子がいじめの被害に遭うか加害の立場になるかは、フィフティー・フィフティーのはずです。いじめる側が多数のことが多いことを考えれば、わが子がいじめる側に立っていることが、いじめを受けるより数倍多いはずです。(もちろん、いじめの被害・加害のどちらにもかかわっていない子どももいます)

【いじめた側がいじめと向き合う】
しかし、現実には「このクラスに深刻ないじめが起こっています。」と開くと、多くの人はわが子が被害に遭っていないかと考えます。そして、いじめる側に立っているとしたら、どんな言葉を子どもにかけたらいいか、と考え悩むケースは少ないのです。こういった私たち大人の考え方が、いじめの解決を困難にする一因になっていると思うのです。なぜなら、いじめを加えている子どもの周りにいる大人の協力ぬきには、いじめの解決は難しいからなのです。

いじめの被害にあった子どもの親たちが、いじめられたわが子に「いじめをなくそう」と語るより、いじめをした側の子どもの親たちが、いじめをしたわが子に「いじめをなくそう」と語る方が、より効果的なのです。わが子が被害を受けたときは深刻に悩み、加害のグループにいると言われたときには「そんなはずがない」と考え、わが子を「擁護」してしまう、それではいじめをめぐって双方の溝は深まるばかりです。

【いじめを生み出す構造】
極論すると、いじめに被害と加害の関係はありません。自分のことを好きな子どもは、決していじめをおこしません。いじめをおこすのは、自分のことを好きになれず、自己肯定感を持つことができない子どもたちなのです。(大人にも言えます!)いじめをおこす子どもは、自分を肯定できるように大人社会から育てられていない被害者でもあるわけです。

子どもの弱さを嘆き、子どもに優しさを求めず、ひたすら「強くなること」「勝者になること」だけを求め続けたとき、子どもは心のバランスを崩し、自分や他人の中にある弱さを憎むようになります。その結果、自分の中の弱さは覆(おお)い隠し、他人の弱さをあげつらって攻撃する心が芽生えてくるのです。

残念なことにニュースでは、いじめ問題を解決できないまま命を絶つという事件が後を絶ちません。記者会見に現れる学校関係者の発言には、こんな認識でいいのかと憤りを感じます。いじめを解決する取り組みに全ての学校が誠意を尽くすと同時に、子どもたちをいじめに駆り立てる要因を取り除くため、社会全体が努力すべきではないでしょうか。

いじめ問題を考える…なぜ動物たちは病気を隠すのか

2006年10月19日 | いじめ問題
 東町中学校の一年生は、ニュース等で報道されるイジメ問題を通じて自分たちの生活を見直そうと、10月18日に学年集会を持ちました。集会では、学年の先生や校長先生がお話をしましたが、その場に参加していた私も飛び入りで2つのお話をさせていただきました。私の話した内容を紹介します。ご家庭でも話し合ってみて下さい。

 王子動物園の園長をされていた亀井一成さんのお話を聞いたことがあります。亀井さんのお話というのは、動物たちの健康維持がいかに難しいかとい内容でした。たとえば小・中学生のみなさんは、病気にかかったときにどんな行動をするでしょうか。多くのみなさんは、保護者や先生に体調不良を告げ体を休ませることと思います。人に慣れている犬や猫も、体調が悪ければ元気がなくなります。しかし動物園の動物たちは、病気になったときに自分の病気を隠そうとするのです。自分の病気を誰にも知られないよう、死ぬ直前まで元気に振る舞います。飼育係が気づいたときには、もう手遅れです。そこには野生世界の厳しいルールがあるのです。

 野生の世界では、体の弱いものから順番にライオンやチーターなどの肉食獣に食べられてしまいます。だから動物たちはどんなにしんどくても必死になって体調が悪いことを知られないようにするのです。これは野生動物が身を守るための本能なのです。そのため獣医さんの手当てを受けずに死んでゆく動物も少なくないのです。 

 私はこの話を聞いて、すぐに自分のクラス(当時私は中学校1年生の担任をしていました)や自分の学校のことを振り返りました。私のクラスには「わかりません」と質問する生徒に対して「こんなこともわからんのか。」と馬鹿にする生徒はいないだろうか。体育大会のレースで走るのが遅かった生徒に「お前のせいで負けた。」と攻撃する生徒はいないか。そんなことが気になりました。みなさんのクラスは、どうでしょうか。ぜひ考えてほしいのです。 

 もしみなさんのクラスに野生のルールがのさばっているとしたら、力の無い者や勉強が苦手な者は、自分が攻撃されないようにビクビクしながら生活しなければならないと思います。しかしそんなクラスは決して良いクラスだと言えないと思うのです。友達の「弱さ」を見つけても、そっと見守ってくれる、そして必要なときには手を差し伸べてくれる、それが良いクラスだと私は思うのです。

「言葉は勇気」になれるか・・北海道滝川市いじめ遺書に思う

2006年10月03日 | いじめ問題
《言葉の力》
「言葉はつばさ」「言葉は未来」「言葉は現実」「言葉は夢」「言葉は~」みなさんもよくご存知だと思いますが、テレビで放映中のある新聞社のCMです。わが子が初めて「ママ」としゃべってくれたのを聞いた親は、「言葉は夢」とこたえるかもしれません。同じ人が「子育て大変そうだね。もう会社に来なくていいよ。」と社長からクビを言い渡されたら「言葉は刃物」と感じるかもしれません。言葉は人に勇気を与えることもあるし、人を傷つけることもあります。この新聞でも、先輩から後輩に贈る言葉の連載を始めました。これらの言葉を通じて、3年生は同級生の、1・2年生は先輩の思いに触れ、力をもらったのではないでしょうか。

《遺書を読んで》
10月3日の朝刊各紙は、昨年9月9日、教室で死を遂げた小学校6年生の少女の遺書を掲載しました。親でもある私にとって命を絶った子どもの遺書を読むのは、とてもつらいことです。しかしこの遺書を公表しなければと考えた保護者の無念の思いと教育への期待を考えると、この遺書からも私たちは言葉の持つ意味を学ばなければならないと思います。 死を選んだ小学校6年生は、殴られたり、蹴られたりといった暴力を受けていたのではありません。「無視」と「言葉」(キモイと言われた)でいじめを受けていたといいます。

「みんなは私のことがきらいでしたか? きもちわるかったですか? 私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。」

みなさんはどのように読むでしょうか。この少女は、生きていれば中学1年生。みなさんと同世代で、ひょっとすればどこかで出会えたかもしれないのです。言葉は人の命を奪うこともあるのです。

《いじめの形態》
いじめには、暴力という非常にわかりやすいものもあれば、言葉・態度・無視・強要というように静かな形をとるものもあります。暴力という形をとって現われるいじめは、分かりやすく大人に発覚しやすいがために、指導が行われやすく、またいじめを行った側にも罪悪感があり、長期化するケースは少なくなります。しかし言葉・態度・無視といういじめは、大人には見えにくく、しかもクラスの多数を巻き込んでいることが多いため、いじめている側に罪悪感が薄いのが特徴です。またいじめを受けた側も、いじめの「証拠」を出しにくく、いじめが発覚するまでに時間がかかることもあります。

《いじめを解決できる学校・クラス》
いじめは私の子ども時代にもありました。私は、今思えばバラ色の子ども時代を送っていたように思いますが、それでもいじめに加わった辛(つら)い記憶と、いじめを受けた苦い記憶があります。しかし私の周りでいじめによる殺人や自殺が起こらなかったのは、クラスや子ども集団の中にいじめを解決できる力があったからだと思います。保護者のみなさんもまたそうではなかったでしょうか。自分の周りでいじめが無かったという人は、まずいないと思います。それぞれ違いはあっても、何とかいじめを解決してきたのではないでしょうか。

私は以前「中学校にはイジメがありますか」という小学生からの質問にこんな風に答えました。「イジメは上級生が教室に乗り込んで来ておこすのではありませんね。今みなさんが仲良くできていたり、誰かにイヤな思いをさせていなかったら、中学校になってもイジメはおこらないかもしれません。これから先、みなさんの間にイジメがおこるかどうか分かりませんが、イジメがあっても、生徒のみなさんと私たち職員とが力をあわせ、解決できる学校を目指しています。」

「いじめはありません」と言うから、いじめを隠そうとする気持ちが生まれ、真の解決が遠のくように思えるのです。