教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない④

2009年02月28日 | 子育て
《匿名性の高さは子どもに安全と言えない》
 千里中央は、◎◎中学校や◎◎小学校にとっては校区であり、地元です。中学生の地域体験学習を受け入れて下さっている店舗もあります。
 しかし千里中央は、地元商店街というより、大阪北部一帯をエリアとした商業地域です。顔見知りの人と人が触れ合う下町の商店街ではなく、物と現金の交換が中心のドライな大人の街といえるかもしれません。
 私は9月の『かけはし』に『商店街で見た地域の力』という記事を掲載しました。クラブ帰りの地元中学生にアイスキャンディーを振る舞いながら語り合うような付き合いは、広大な消費地をエリアにする千里中央では不可能です。
 千里中央は、行き交う人お互いがどこの誰だか分からない匿名性の高い商業地域なのです。匿名性が高いということは、それだけ子どもにとっての安全性が低いということです。
 子どもが繁華街を遊び場にすることは、大きなリスクがあるのです。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない③

2009年02月27日 | 子育て
《お金を使った遊びの落とし穴》
 お金を使った遊びには、当然元手(もとで)が要ります。過去にビックリマンシールが流行ったときには、スーパーゼウスのカードを手にいれようとして家から20万円もの現金を持ち出し、ビックリマンチョコを買ったという小学生の事件が市内の生徒指導担当者会で報告されたことがあります。かつてのガチャガチャやタマゴッチ、遊戯王カード・・・もっとありふれた店先に置かれた駄菓子。どれも子どもたちの欲望を駆り立てる魅力があります。しかし元手には限りがあるために、そこに家のお金の持ち出しや万引きという行動が付きまとうのです。
 子どもが遊びの欲望をアイデアーや創造力で満たしていたときには起こらなかった問題行動が、限りあるお金を使って遊ぼうとすることで生じたのです。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない②

2009年02月26日 | 子育て
《創造性と工夫を育てた子どもの遊び》
 子どもたちには、何も無いところから遊びを生み出す力があります。例えば『かくれんぼ』。『かくれんぼ』をするときに、何の道具も必要ありません。あるのはお互いが取り決めたルールだけです。しかもこのルールは、「見つかってない人にデンをしてもらえば生き返ることができる」とか「小さな弟や妹は見つけられてもオニにはならない」というように、その時々の状況や構成メンバーのニーズに応じて変化する柔軟性があるのです。

 状況を見て、判断し、対策を考え、場合によってはルールを変えてしまうという一連の作業は、大人社会の中でも要求される大切な創造力・企画力です。このような遊びを通じ子どもたちは社会性を育(はぐく)むのです。

 しかしお金を使う遊びでは、こうはいきません。大人がシステム化したサービス(例えばゲームソフト)を買いゲームに遊んでもらうという行為が、子どもたちの中心となります。無から有を作り出すという大切な創造性は影をひそめてしまいます。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない①

2009年02月25日 | 子育て
《広がろうとしている買い食いと大型店舗での遊び》
 千里ニュータウンの再開発にともない、千里中央には新しい商業ビルが建ちつつあります。街が活気付くのは喜ばしいことですが、一方で小学生の中に買い食いや大型店舗での遊びが広がろうとしています。

 もちろん、子どもが家庭の『お使い』や『買い物』の仕事をすることは必要なことです。テレビ番組の『はじめてのお使い』を見るまでもなく、子どもは親以外の大人と接することで多くのことを学びます。家庭内のルールの外に、もっと大きな社会のルールがあることを学ぶことにもなります。また他人から優しくされたり親切にされたりする経験は、子どもの心を豊かにします。

 しかし子どもが『お金を持って遊びに行く』ということと、『お金を持ってお使いに行く』ということの間には、大きな違いがあります。また子どもが『遊ぶこと』と『お金を使って遊ぶこと』の間にも大きな開きがあります。

国際化した面接試験

2009年02月20日 | 学校の話題
 私立高校入学試験終了後、中学校は生徒から入試問の題聞き取りを行い、教科書の範囲(=学習指導要領の範囲)を逸脱する入試問題がなかったかチェックを行います。同時に面接試験での質問内容を検討し、必要であれば高校側に改善を要求します。その生徒向けアンケートを実施しているときのことです。ある生徒が「先生、たぶん日本人やったと思う。」と言うので何を言っているのかと不審に思い、その生徒に近づいてみると「ほら、面接官は何人(なにじん)ですか、と書いてある。」「それは、何人(なんにん)ですか、ときいているんや。」

 「こんなん連れてやってますねん。」往年の漫才師平和ラッパなら、こう言ったやろうなあ。

子どもの詩~お母さん ぼくわかっているよ

2009年02月18日 | 短歌・詩
山本貴紀(四年)

お母さん、ぼくわかっているよ。
しゅく題は、学校から帰ったら、すぐした方が
いいことを。
だれのためでもない、ぼくのために、
ぼくのために言ってくれていることを。
けど、今はぼく 外で遊びたいねん。
友達と遊びたいねん。

お母さん、ぼくわかっているよ。
自分の部屋ぐらい自分でかたづけないと、いけないこと。
だれのためでもない、ぼくのために、
ぼくのために言ってくれていることを。
けど、今はぼく ファミコンしたいねん。
もうちょっとで てきをたおせるねん。

お母さん、ぼくわかっているよ。
野球練習しないと、レギュラーになれないことを。
だれのためでもない、ぼくのために、
ぼくのために言ってくれていることを。
けど、今はぼく しんどいねん。
レギュラーになりたいけど、つかれてるねん。

お母さん、ぼくわかっているよ。
今のままでは、遊びも勉強もスポーツも、
中と半ぱになることを。
けど、今はぼく なんでもいろんなことを
やりたいねん。
あれもこれもやってみたいねん。

わかっているんやったら、
さっさとすぐにしろと、言われそうやけど、
すなおに聞いたら、
きっとお母さん安心するやろ。
安心して、ぼくからはなれていってしまうやろ。
ぼくからはなれたらいややねん。
だって、いつもぼくに言っているやろ。
「なんでも自分のことは、自分でやれるように
なってくれんと、死んでも死にきれん」と。
だからお母さんに安心してほしくないねん。

死んだらこまるねん、ぼく。
いつまでも、いつまでも、
ぼくのそばでぼくのことを、
おこってほしいねん。
車イスで追いかけ回して、
おこってほしいねん。
病気のちょ金箱のようなお母さんやけど、
出したり入れたりしながらでも
お母さん頑張ってな。
きんジストロフィーは治らへんやろうけど、
ぜっ対、くじけたらあかんで。
ぼくとやくそくしたやろ。
ゆびきりげんまんしたやろ。

(『こころのうた』佼成出版社より)

 「何を甘っちょろいこと言うてんねん」と思いながら読んでいましたが、車いすという言葉に反応し、きんジストロフィーという病名に立ち止まりました。
 私が教員に就いた頃、筋ジストロフィーという病にかかると、20歳を過ぎるのは至難の業だと言われていました。私が30年前に出会った生徒は、小学校低学年時代は校庭を走り回っていたらしいのですが、中学校に入学したときには、起き上がることも不可能となっていました。そして中学3年生での突然の死。生命の儚(はかな)さを思わずにおれませんでした。
 作品は後半になり、お母さんの病気に触れることばが出てきます。しかし、それでも、「こんなこと言うてる場合やないやろ」と、口から出そうになるのです。

入試の朝にしてはいけないこと~自家用車で送ってはならない

2009年02月16日 | 進路保障
入学試験という特別な朝を迎え、保護者の皆さんも居ても立ってもおられなくなる気持ちは良く分かります。以前、あるお父さんが息子の受験を気遣って、高校まで車で送って行ったことがありました。しかしお父さんの善意は、とんでもない結果をもたらしましたのです。
中学校の職員室に高校から電話が入りました。「1時間目のテストが始まろうとしているのに、生徒が現れない」驚いた担任教員は家に電話をした結果、生徒は父親の運転する車で出かけたことを母親から聞いたのです。その日は前夜から降り積もった雪のため、大阪府北部の道路は大渋滞に陥っていました。「1時間目のテストを受験しないと2時間目以降のテストは棄権したとみなされる」という高校側に対して事情を説明し、何とか受験ができるようお願いしました。結局その生徒は1時間目のテストに間に合わなかったため0点として扱われ、2時間目からの受験になりました。
公共交通機関(電車やバス)が事故や天候の影響で遅れた場合は延着証明が発行され、試験時間が保障されるケースがあります。しかし自家用車の場合は、事故や天候の影響があっても「自己責任」とされてしまうケースが多いのです。

子どもの詩~今年のなつ天国へ行ったおかあさんへ

2009年02月14日 | 短歌・詩
竹田まい(一年)

 おかあさん・・・・おかあさん・・・・
 おかあさん・・・・
いくら よんでも もう へんじをして
くれないんですね
わたしが いもうとと ケンカばかり
しているから?
 おかあさんが いなくなってから
少し 泣き虫に なりました
そして 少し やさしくなりました。
 もう ケンカは しません
二人で なかよく します
いもうとを かわいがります
 だから だから 
 わたしの 名前を
 もう 一ど
 よんで 下さい。

(『こころのうた』佼成出版社より)

入試の朝にしてはいけないこと~友達を待つ

2009年02月13日 | 進路保障
 一人で知らない高校に行くのは心細いものです。「7時○分の電車に乗ろうね」と約束したくなる気持ちはよくわかります。でも約束した時間に来ない友達を待っては絶対にいけません。

 以前、来ない友達を駅でずっと待っていたため、テスト開始時間に間に合わなかった生徒がいました。待ち合わせしていた相手の生徒は、朝になって急に体調を崩したためタクシーで試験会場に向かっていたのです。

 待ち合わせがうまくいかなかったために試験会場にあわてて着くというのは、大きな心の動揺につながります。場合によっては、合格不合格を左右しかねないことにもなります。たとえ同じ電車に乗らなくとも心配いりません。受験番号が続いていれば試験会場では同じ教室で出会えるのです。

子どもの詩~赤ちゃんの遊び着

2009年02月12日 | 短歌・詩
久保花恵(五年)

今年の1月十日、女の子が生まれた。
名前は「友梨恵」
私と弟のかわいい妹だ。
七月のある日、お母さんが物置から
ダンボールを一個おろしてきた。
中には赤ちゃんの衣類が
ぎっしり詰まっていた。
「二人が赤ちゃんの時着たものですよ。」
お母さんが一枚の遊び着を見せてくれた。
「ぼく、こんなに小さかったの。」
「みんなしまっておいたの。」
なにかうれしい気持ちになって
次々に遊び着を取り出してみた。
「ずいぶん古いけど買った物なの。」
「これは全部おばあちゃんの
リフォーム作品だよ。」
洋裁の得意なおばあちゃんが説明してくれた。
デザインや布の性質を考えて
どれも工夫して作ってある。
着古しのトレーナーは、布が柔らかくて
赤ちゃんの肌にやさしいし
丈夫で吸汗性(きゅうかんせい)にすぐれているそうだ。
お母さんの着古しをリフォームして
まず私が着て、次に俊輔が着て
今度は三人目の友ちゃんが着る。
感動で胸が熱くなってきた。
「古いものだけど思い出が
いっぱい詰まっていて捨てられないの。」
お母さんの心が口からこぼれた。
「ぼく、このピンクも着たんだ。」
弟の俊輔は大笑いをした。

あまいミルクの匂いと
やさしいお母さんの匂いがする
ふんわりとあたたかな遊び着だった。

(『こころのうた』佼成出版社より)

おばあちゃん、お母さん、私、弟、そして生まれてきた妹。命の連鎖を子ども自身が、このように感じているのかと思うと、読ませてもらった私の心が暖かくなります。

子どもの詩~ハードルお母さん

2009年02月11日 | 短歌・詩
村田ともみ(四年)

お母さんは、むかし
ハードルせんしゅ。
こくりつきょうぎじょうにも
いったことがあるんだって。
かつやくして
テレビにもでたんだよ。
ゆうしょうにはならなかったけれど。
きのう、うのきちくのうんどうかいにでた。
しょうがいぶつきょうそうにでた。
ハードルがあった。
お母さんが1とうだとよそうした。
「よういドン。」お母さんはビリから2ばんめ
セーフセーフ。

(『こころのうた』佼成出版社より)

「僕がママを好きなのは、ママがお料理が上手だからでもなく、ママが立派だからでもない。僕がママを好きなのは、ママが僕のママだから。」以前こんな文をどこかで目にしました。
「お母さんである」というだけで子どもは無条件に母を信頼し、心から愛するのです。お母さんが国立競技場で活躍したという話を聞いたからお母さんのことが大好きなのでありません。地区運動会でビリから2番でも、そんなお母さんが大好きなのです。

子どもの詩~九月の朝

2009年02月10日 | 短歌・詩
須釜奈津美(四年)

九月の朝
私は何が何だかわからないけど
泣きたかった。
お母さんがどうしたの
と何度も言うけど
うまく言えないんだ。
時々、こんなふうに
なみだが私の声になる時がある。
もう学校へ行く時間はとっくにすぎている。
何度顔をあらっても
また、なみだ、なみだ、なみだ。
弟が
げんかんで何も言わず
待っていた。
もんく一つ言わないで
だまっていた。
九月の朝
少し泣きそうな弟の目が、
私の心にやさしかった。

(『こころのうた』佼成出版社より)

月曜日の朝や長い休みの後に学校に行きにくくなることは、小学生の中でたまにあります。学校に行くのが嫌というよりは、親やおじいちゃん・おばあちゃんと過ごした時間を愛(いと)おしむ思いが、学校へ足を向かなくしてしまうことがあるのです。たとえば冬の朝、暖かい布団から抜け出たくないのと同じように。
こんな時には親が過剰反応する必要はありません。「どうして行かないの」と詰め寄ると、子どもは何らかの「回答」をひねり出さざるを得ません。親から「いじめられたの?」「勉強がわからないの?」「学校で何か嫌なことがあったの?」と厳しく追及されると、どこかで首をたてに振らないと許してもらえない気になるのです。「○○君がいじわるをするから」(意地悪な子がいない学級なんてありえません)「勉強が面白くないから」(勉強が好きな子はもともとそんなにたくさんいません)・・・夏の素敵な思い出にひたっていただけなのに、不毛な「犯人探し」の追求に子どもを追い込めないことが大切です。

子どもの詩 うそつき

2009年02月09日 | 短歌・詩
岩崎鮎美(四年)

学校でうそをついちゃった。
みんなが集まってきた。「うそをつけ」
みんなが私に向かっていう。
「本当だもん」
私がいう。
よくかんがえると、
本当だもんとうそをついている。
うそをつくとまたうそをつく。
なんだか目からなみだが・・・・。
本当のこといおうかなー。
でも、うそを
二回もついたので、
なかなか、いえない。
うそをつくと、
だんだんつみがおもくなる。
どうしよう。
どうしよう。

(『こころのうた』佼成出版社より)

自分のついた些細(ささい)なうそが原因で、窮地(きゅうち)に陥(おちい)ることは子どもたちの世界に良くあることです。3学期は学年のまとめの時期です。友達との関係で、素直にならなければいけないことがなかったか、自分を振り返ってみましょう。

ガラスドアーの事故…女子生徒の足がガラスに突き刺さった

2009年02月06日 | 生活指導
中学校での話です。ガラスドアーを勢いよく開けようとし、ガラスを割るという事故が2件続きました。ガラスドアーの取手部分を押せば何事もないのですが、ガラス部分を押すと思わぬ重大事故に遭うことがあります。今回は幸いにして怪我にはなりませんでしたが、20年前に市内で起きた重大な事故を紹介し、皆さんの注意を呼びかけます。

その事故は、ある中学校の女子生徒の身に起こりました。皆さんも両手が荷物でふさがっている時に、足でドアーを開けようとした経験があるかもしれません。その女子生徒も、網(あみ)ガラスを足で開けようとしたのです。ところがドアーは開かず、網ガラスは割れてしまいました。ひょっとしたら、ガラスに小さな傷や目に見えないひびがあったのかもしれません。原因は分かりませんが割れたのです。

網ガラスは普通のガラスと違い飛び散りません。そのため金網と割れたガラスが数十センチにわたって女子中学生の足を切り刻みました。連絡を受けた先生たちが血まみれになった足を抜こうとしても、金網とガラスが肉に食い込んで、引き抜くことができなかったのです。そうしている間にも、どんどんと血が流れ出します。先生たちの手では救出不可能と判断し、消防署のレスキュー隊を呼び、網ガラスを壊しながら女子生徒の足を引き抜いたのです。その数十分の間、血まみれの足は網ガラスに突き刺さったままでした。出血多量で命を失う危険もあったのです。女子生徒の足からガラス片を取り除き、傷口を縫い合わす手術が行われました。しかし36針も縫った足の傷跡は、決して消えることはなかったのです。

ちょっとした油断や不注意が思わぬ事故や怪我につながるのです。決してガラス部分を押してドアーを開けないようにしましょう。

東京の友人に送ったメール

2009年02月04日 | 進路保障
東京での土曜日の朝。みんなとの楽しかった余韻に浸っていると、一本の電話がかかってきました。卒業生で、私が二年三年と担任をしていた生徒が亡くなったとの連絡でした。27歳。中学時代は野球部のエース。T高校・大阪市立大学でもピッチャーとして活躍した生徒でした。食品会社に入社し、去年の秋に仙台支社に転勤となったまでは聞いていました。

あわてて新幹線に乗り、学校に戻り、同窓会名簿を使って同級生たちに連絡しました。

昨日が通夜で今日が告別式。自死でした。東京で三人で話していたKの事を思い出しました。Kが一人で悩んでいたのと同じように、教え子も、見ず知らずの仙台で一人で悩み苦しんで亡くなったのだろうと思い、コタエました。

彼の死、そして残された家族、どう考えても、無念です。同時に簡単に首切りを行い、やる気に燃えた若者の命を食らいながら繁栄を夢見る、この社会の在りように憤っています。

暗い話になりました。しかし僕たちの再開の裏で、こんな悲惨な事が起きていていたのです。

…Kとは、中学校時代の同期で、ハンドボール部のキャプテンを務め、T高校から大阪大学、S酒造会社へと進み、二十代半ばで自死した私の友人です。Kがどうして死ななければいけなかったのか、東京で再開した三人で話していました。その直後の卒業生の死。あんな良い奴が生きられなかった。今後どんな子どもを育てるべきなのかの問いに、こだわっていかなければと思ったのです。