教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

教育基本法改正法案についての意見~日本弁護士連合会

2006年11月21日 | 教育資料
教育基本法について日本弁護士連合会が行なった学習会に参加しました。その際の資料を掲載します。

当連合会は本年2 月3 日、準憲法的な性格を持ち国際条約との間の整合性をも確保する必要性が高い教育基本法については、衆参両院に、教育基本法について広範かつ総合的に調査研究討議を行う機関としての「教育基本法調査会」を設置し、同調査会のもとで、その改正の要否をも含めた十分かつ慎重な調査と討議をすることを求める提言を行った。
また、本年4 月25 日にも、同様の観点から、教育基本法改正法案の国会上程について最大限の慎重な取扱いを求める旨の会長声明を発したが、本年4 月28日政府案が上程され、衆議院「教育基本法に関する特別委員会」にて継続審議となり、9 月26 日に召集される臨時国会ではその成立を期する、とする政府方針が伝えられている。
しかしながら、政府案は以下に指摘するとおり、憲法に関わる重大な問題を含んでおり、また法案を対象にした委員会における審議のみでは、教育基本法についての広範かつ総合的な調査研究討議を行うには不十分である。
当連合会は、改めて、衆参両院に「教育基本法調査会」を設置し、同調査会のもとで、教育基本法の改正の要否をも含めた十分かつ慎重な調査と討議を行うことを求めるとともに、提案されている内容でこのまま教育基本法を改正することには、強く反対の意思を表明するものである。

1 現行教育基本法の立憲主義的性格
現行教育基本法は「日本国憲法の)理想の実現は、根本において教育の力に、(まつべきもの」とされ「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とされている(前文)。このように、教育基本法は日本国憲法に密接に関連し、我が国の教育法体系の中での根本理念を定める法律と位置づけられている。
のみならず、教育基本法は、憲法と同様に、その基本において名宛人は国家であり、教育の根本規範として、子どもが自由かつ独立の人格として成長するために必要な理念と基本原則を明らかにしたものであって、教育を受ける者との関係において「権力」を行使する立場にある者(国、地方公共団体、教育行政機関、学校、教員)に対し、憲法の精神に則り「すべきこと」と「してはならないこと」を命じる立憲主義的な性格を有している。
立憲主義とは、個人の尊厳と法の支配を指導理念とするものであって、ここで教育の権力的側面を見据え、現行教育基本法制定の背景となった教育に対する国家的介入がもたらした悲劇、一元的な価値観・一方的な観念を植えつける教育が過去に招いた惨禍を想い起こすとき、教育基本法は、今後も、その立憲主義的性格を失ってはならない。
ところが、政府案においては、以下のとおり、現行教育基本法が有する立憲主義的な性格を形作る重要な部分が失われてしまうのではないかとの問題がある。

2 現行法10 条「改正」の問題
教育は、教師と子どもとの直接の人格的な接触のなかで子どもの個性に応じ弾力的に行われるものであることから、本来的に、教師の自由な創意と工夫が求められる。教育内容に対する権力的介入を警戒しこれに対して抑制的態度をとることは、戦前の教育における過度の国家的介入と統制を反省するとき、その重要性は極めて大きい。最高裁判所旭川学力テスト事件大法廷判決が「教育に対する行、政権力の不当、不要の介入は排除されるべきである」と述べているのも、このような教育の本質と歴史からの教訓を背景にしたものとして理解されるべきものである。
そもそも、個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきことを求める憲法の下において、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的であるべきであり、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような教育への国家的介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは許されない。この憲法上の要請を確保するものとして規定されたのが現行教育基本法の10 条である。
同条は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を、負って行われるべきものである(第1 項「教育行政は、この自覚のもとに、。」)、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない(第2 項)と定め、教育に中立性・不偏不党性を求めるとともに、教育現場における自主性・自律性を尊重すべきことを表明し、もって、国家による教育内容への介入はできるだけ抑制的でなければならないとする憲法上の要請を担保するものとなっている。
しかし、これと対比されるべき政府案16 条は、現行法10 条1 項の「教育は不当な支配に服することなく」との文言は残存させながらも、同項の「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」との表現については「この。法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものである」へと改変し、さらに、同条2 項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」との定めは削除している。
その結果、政府案においては、政党政治の下で多数決原則によってなされる国政上の意思決定に教育を全面的に委ねることになりかねず、本来人間の内面的価値に関する文化的営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきではない教育の在り方を損なうことが強く懸念されるとともに、教育行政の名で必要な諸条件の整備確立を超えて国家権力が教育内容に介入することも可能となり、これを抑制するための歯止めも失われることになる。
しかも、政府案の17 条は、政府と地方公共団体が教育振興基本計画を定めることを規定しているが、これにより「教育目標」の達成計画、達成度評価、効果的達成を促す予算配分などを通して、教育に対する更なる国家的介入を招きかねない。
立憲主義的性格を有する教育基本法においては、教育現場の自主性・自律性を尊重し、教育における自由な領域を確保することの重要性はいうまでもない。教育への国家的介入を抑制し教育現場の自主性・自律性を尊重する要となる教育基本法10 条の意味を失わせる政府案は、立憲主義的観点から重大な問題がある。

3 精神的自由が侵される危険
政府案の2 条は、教育の目的を実現するための目標として、個人の意志・意欲や内心にかかわることがらを含む事項を5 項目に分けて幅広く取り上げ、これを「教育の目標」とし、これを達成すべく教育が行われることを規定している。現行法の2 条が、教育の目的を達成するにおいても「自発的精神を養い「自他の敬愛と協力」によることを教育の方針とし、これにより一方的に特定の価値観を押し付けることのないように配慮すべきことを規定しているのとは対照的ですらある。
すなわち、政府案2 条が「教育の目標」として掲げる「徳目」は、本来、多様性をもつ多義的な概念であって、もとより一義的に決定できないものである。しかし、これらが達成すべき「教育の目標」として教育の根本規範である教育基本法に規定されるならば、教育の場においては、国・地方公共団体によって一定の価値選択がなされ具体的な内容をもったものとして一義的に決定され、その決定された一方的な観念が子ども達に植え付けられることにもなりかねない。しかも、先に指摘したとおり、政府案16 条では「この法律及び他の法律により行われるべきもの」とし、法律によってこれらの「徳目」の内容がいかようにも決定される可能性をはらむに至ったことによって、この懸念は一層大きいものになる。
また、この懸念については、次の2 点を併せ考えるとき、その影響は更に大きなものとなる。まず、政府案2 条の「教育の目標」は、義務教育(5 条)をはじめ、大学(7
条)や私立学校(8 条)も含む学校教育(6 条)において、それが達成されるよう「体系的な教育」が「組織的に行われ」ることになる。のみならず、家庭教育(10 条、幼児期の教育(11 条)及び社会教育(12 条)並びに「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力(13 条)などを通して社会の人々の生活全般」に及んでいくことも否定できない。
さらに、教育振興基本計画(17 条)に基づき、政府・地方公共団体により、「教育目標」の達成計画、達成度評価、効果的達成を促す予算配分などを通して多義的な「徳目」に一定の内容で具体化された「教育目標」の達成が、確実に図られるよう促進することも可能となる。
以上のように、政府案2 条が「教育の目標」として掲げる「徳目」については多義的であるが、教育の場においては、国や地方公共団体が一義的に決定することになりかねず、憲法の保障する精神的自由(憲法19 条、20 条、21 条、23 条)が侵害される危険が大きくなる。

4 むすび
教育の現場や、子ども達が直面している教育をめぐる状況に深刻な問題があることは大方の見解が一致するところと思われるが、このような状況を改善する処方箋として現行教育基本法を改正するという方向を目指すことに対しては、子ども達の事件を日々担当する実務法律家の立場からすると大きな疑問と違和感を抱かざるを得ない。
政府案は既に述べたとおり、重大な問題を含んでおり、また法案を対象にした委員会における審議のみでは、教育基本法についての広範かつ総合的な調査研究討議を行うには不十分である。
当連合会は、改めて、衆参両院に「教育基本法調査会」を設置し、同調査会のもとで、教育基本法の改正の要否をも含めた十分かつ慎重な調査と討議を行うことを求めるとともに、提案されている内容でこのまま教育基本法を改正することには、強く反対の意思を表明するものである。
以上 2006 年(平成18 年)9 月15 日

進路を考える① 働くということ

2006年11月14日 | 進路保障
みなさんは中学校を卒業したあと、どんな進路を考えていますか。就職する人、進学する人、進学にしても普通科に行く人、英語科や工業科に行く人、様々です。しかし高校に進学しても大学に進学しても、最後には働くというゴールが待っています。そこで「働く」ということを頭に描きながら進路を考えてほしいとおもいます。

日本の法律では、大人になるためにいくつかの階段を登らなければなりません。その第一の階段が、刑事罰(傷害や窃盗の罪)の責任を問われる14歳という年齢です。第二の階段は、中学校を卒業する15歳となります。第三の階段は、結婚が許される最低年齢である16歳(女子)と18歳(男子)。最後の階段は、成人となる20歳です。

15歳という年齢を考えてみましょう。憲法では「すべての国民は勤労の権利を有し、義務を負う。児童はこれを酷使してはならない。」(27条)と定め、国民の働く権利と義務を定めたうえで、児童が酷使されることを禁止しています。労働基準法では「満15歳にならない児童は、労働者として使用してはならない。」と更に詳しく規定しています。

15歳になったら働いてもよいという決まりは、逆に言えば15歳までの間は、子どもが自分の心身の成長のため、労働から守られなければならないという意味として考えなければなりません。

江戸時代までの日本では、職業は同時に身分を表していました。農民は農業をしているだけの人ではなく、士農工商という身分の「農」であったわけです。そのため職業の自由というものは存在せず、親の「仕事と身分」をセットで子どもは受け継いだのです。そのため子どもは学校には行かず、子どもの頃から親と一緒に仕事に出でかけ、親から仕事の仕方を仕込まれました。親は仕事を教えてくれる先生でもあったわけです。

明治維新が起こり身分制度が無くなっても、多くの人々は子どもを学校に通わせる余裕はなく、親の仕事を継いでいました。しかし親の仕事を継ぐのではなく、自分の好きな仕事をしたいと考える人たちが増えてきました。一方で、自営の職人や商店は姿を消し、家業を継げない人たちが増えてきました。現在では、私たちの多くは親から継ぐことのできるような家業を持っていません。

そんな中で、学校教育が大切になってきたのです。英語を習っても、みんなが外交官や貿易会社に勤めるわけではありません。音楽を習っても、みんながピアニストや作曲家にはなりません。しかし食べてみないと料理の味が分からないのと同じで、学んでみなければ、自分が何に向いているのか分からないのです。学校で多くの科目を学ぶということは、その広い分野から自分にあった進路を選ぶことのできる可能性を広げるということなのです。

同時に憲法では国の主権者は国民であると定めています。国会では、教育・社会保障・外交・景気・雇用など様々な分野の論議が交わされています。その内容が理解できなければ、国政選挙に於いて正しい判断ができません。

職業選択の自由のためにも、主権者としての意志を発揮できるためにも、義務教育が実施されるようになったのです。(つづく)

「いじめる側にいたら」と想像する力(改定)

2006年11月10日 | いじめ問題
【いじめが起きた!そのとき大人たちは?】
ある日の学級懇談会で担任の先生から「このクラスに深刻ないじめが起こっています。」と告げられると、みなさんはどう考えるでしょうか。私も含め多くの人は、「わが子がいじめの被害に遭っているのではないか。」と不安になると思います。雑誌でも「わが子のいじめ被害の見分け方」「いじめを放置する無責任な親・学校と、こう闘う」という刺激的なタイトルが目立ちます。

【いじめる側に立つ可能性】
ところがあたりまえのことですが、いじめられる子どもがいるということは、必ずいじめる子どもがいるということなのです。いじめる側といじめられる側の関係は完全に固定化しているわけではなく、いじめる側にいる者は、いつかいじめられる側に「転落」するかも知れないと考え、そのことへの不安がいじめに子どもを駆り立てることがしばしばあります。

わが子がいじめの被害に遭うか加害の立場になるかは、フィフティー・フィフティーのはずです。いじめる側が多数のことが多いことを考えれば、わが子がいじめる側に立っていることが、いじめを受けるより数倍多いはずです。(もちろん、いじめの被害・加害のどちらにもかかわっていない子どももいます)

【いじめた側がいじめと向き合う】
しかし、現実には「このクラスに深刻ないじめが起こっています。」と開くと、多くの人はわが子が被害に遭っていないかと考えます。そして、いじめる側に立っているとしたら、どんな言葉を子どもにかけたらいいか、と考え悩むケースは少ないのです。こういった私たち大人の考え方が、いじめの解決を困難にする一因になっていると思うのです。なぜなら、いじめを加えている子どもの周りにいる大人の協力ぬきには、いじめの解決は難しいからなのです。

いじめの被害にあった子どもの親たちが、いじめられたわが子に「いじめをなくそう」と語るより、いじめをした側の子どもの親たちが、いじめをしたわが子に「いじめをなくそう」と語る方が、より効果的なのです。わが子が被害を受けたときは深刻に悩み、加害のグループにいると言われたときには「そんなはずがない」と考え、わが子を「擁護」してしまう、それではいじめをめぐって双方の溝は深まるばかりです。

【いじめを生み出す構造】
極論すると、いじめに被害と加害の関係はありません。自分のことを好きな子どもは、決していじめをおこしません。いじめをおこすのは、自分のことを好きになれず、自己肯定感を持つことができない子どもたちなのです。(大人にも言えます!)いじめをおこす子どもは、自分を肯定できるように大人社会から育てられていない被害者でもあるわけです。

子どもの弱さを嘆き、子どもに優しさを求めず、ひたすら「強くなること」「勝者になること」だけを求め続けたとき、子どもは心のバランスを崩し、自分や他人の中にある弱さを憎むようになります。その結果、自分の中の弱さは覆(おお)い隠し、他人の弱さをあげつらって攻撃する心が芽生えてくるのです。

残念なことにニュースでは、いじめ問題を解決できないまま命を絶つという事件が後を絶ちません。記者会見に現れる学校関係者の発言には、こんな認識でいいのかと憤りを感じます。いじめを解決する取り組みに全ての学校が誠意を尽くすと同時に、子どもたちをいじめに駆り立てる要因を取り除くため、社会全体が努力すべきではないでしょうか。

小学生進路アンケート

2006年11月09日 | 小中連携
6年生のみなさん、こんにちは。みなさんは6年間の小学校生活を終え、いよいよ中学校への進学をむかえようとしています。みなさんが、よりよい中学校生活を過ごすため、中学校では学校見学会を準備しています。この見学会が、みなさんの疑問や不安にこたえるものになるよう、このアンケートへのご協力をお願いします。

①みなさんは10年後、どんな大人になり、どんな仕事につこうと考えていますか。みなさんの夢を教えてください。
(                                )

②今、みなさんは自分の生活の中でどんなことが気になっていますか。当てはまるもの全てに○をつけてください。
(  )友達関係 (  )勉強のこと (  )家族関係
(  )異性の友人 (  )自分自身のこと (  )先生との関係
(  )特にない その他(                   )

③みなさんは中学校生活について話を聞いたり相談したことがありますか。
(  )ある
あると答えた人は、誰と話し合っているのか選んでください。
(  )親 (  )兄弟姉妹 (  )学校の先生
(  )塾の先生 (  )友人 その他(          )
(  )ない

④みなさんは中学校生活の中で何を大切にしたいと思いますか。
(  )友達をふやしたい   (  )クラブ活動に熱中したい
(  )勉強を頑張りたい   (  )行事を盛り上げたい
(  )体力を強化したい
その他(                            )

⑤中学校生活に対する質問や不安があれば教えてください。見学会のときに先生や先輩たちが答えます。(質問は複数でもかまいません)

引退試合

2006年11月05日 | 短歌・詩
涙目の後輩励ましそのあとで 隠れて泣いた引退試合 (東京都高校1年 咲里16歳)

きっと後輩たちは「涙目の先輩励ましそのあとで・・・」と歌っていたのではないでしょうか。

君への思い

2006年11月04日 | 短歌・詩
止まらない蔵王の傾斜はきつすぎて 例えていうなら気味への思い (兵庫県高校3年 文18歳)

恋心をうたった短歌なのですが、きっぱりとした、いさぎよさを感じてしまいました。

髪の長さ

2006年11月02日 | 短歌・詩
あの人に出会った時から切ってない 髪の長さは時間の長さ (大阪府高校1年 ゆかり16歳)

長く伸びた髪を背中に感じるたびに「あの人」を感じているのですね。まいった!これ以上何も言いません。

夜間中学校

2006年11月01日 | 短歌・詩
 夜間中学校という存在を知らない読者の方もおられるかもしれません。夜間中学校は、さまざまな理由で義務教育を受けることができなかった人たちに対する教育保障のため開設されたものです。現在は公立中学校の学級として認められ、選任の教員も配置されていますが(私たちの町でも○○中学校に設置)、1970年代のスタート時には、教員の無償のボランティアと手作りの教材によって運営されていました。   

 夜間中学の開設に関わった先輩教員は、「学校の戦争責任への反省が夜間中学校を生んだ」と語っていました。夜間中学校が開設された頃、大阪ではそのほとんどの生徒が戦前に何らかの理由で朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちでした。在日朝鮮・韓国人以外にも差別や貧困のため学校教育を受けることができなかった人たちも少なくはありませんでした。しかしそれら未就学の問題が、戦争や戦後の混乱の中で問題としてとらえることのないまま戦後教育が始まったのです。 

 これら義務教育を受けられなかった人たちに対して「学校や自分たち教員は何をしてきたのか」という問いかけの中で夜間中学校の開設が取り組まれたのです。現在の夜間中学には、中国残留者の家族、ブラジル日系人の家族、ニューカマーと呼ばれる外国人、昼間の学校に通えなくなった中学生など理由の違いはありますが義務教育を終えたいという共通の願いを持った人たちが、学習に励んでいるのです。

 そこには受験のみを目標とするのではない真に学ぶ姿があります。「何のために勉強しているのか」と考える受験生たちは、学割定期で通学する80歳をむかえたおばあさんの胸に湧き上がる「誇らしさ」の持つ意味を考えてみるべきです。学ぶとは、人間の誇りを身につけることなのです。同時に私たち教職員は自分の教育活動が子どもたちに誇りをつけるものになっているか、絶えずふり返らなければならないと考えるのです。