教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

阪神淡路大震災から17年を迎えて

2012年01月17日 | ニュースを読む
あの震災から17年が経ちます。少しずつ遠くなったあの時の記憶が、東日本を襲った3.11の震災を通して浮かび上がってきます。私は自分の生涯であれ以上の震災に出合うとは思いもしませんでした。
ここに4年ほど前の古い新聞記事があります。この新聞には、あの阪神淡路震災から10年以上経ち、ようやく当時の事を話すことができた人達の声が載っています。辛い思いをした人は、なかなかその体験を口にすることができないものなのです。中には一生誰にも話せないまま、自分の中に閉じ込めてしまう人もいるのです。昨年の東日本の震災の記憶も語られるまでには多くの時間が必要なのかもしれません。今日はこの記事を通して2つの震災について考えてみたいと思います。

父林穣弥(じょうや)さん=当時57歳=を失った渋谷和代さん(39)
炎はどれだけ熱かっただろう
 「大丈夫やから、こっち来るな」 それが、父の最期の言葉でした。火が迫ってきます。父ががれきの中にいるのに、何もできなかった。私と母、兄は手を合わせて「ごめんね」と言うしかありませんでした。やがて火は家を包みました。少し離れて私たちは見ていました。泣きませんでした。私が泣くと、母はもっとつらくなる。そう思い、涙は流すまいと決めたのです。 あの日、私と父母が住んでいた神戸市長田区日吉町五丁目だけで、何人も亡くなったと聞きました。あちこちで家が崩れ、人が生き埋めになりました。男の人たちが集まって、助け出そうとするのですが、重機がないと無理な家もあります。私の家もそうでした。人力で救出できそうな家から回っていきます。私の家は二階建てでしたが、二階が一階になった状態。重い瓦やはりがのしかかり、人の手ではびくともしませんでした。何度か回ってきてもらいましたが、うちだけにかかってもらうわけにはいかなかったのです。 父と一階にいた母は、わずかなすき間から脱出して、二階にいた私は助け出されました。火事が起こっていることを知らなかった。でも、時間がたつに連れて、三軒先、二軒先と火が迫ってきた。灘区から駆けつけた兄と、近所の数人が屋根に上って、最後まで助け出そうとしていました。もうそこまで火が来たとき、母が叫びました。「あんたらがけがをする。もうええから降りて」 夜は長楽小学校の校舎の階段で寝ました。確か三日後に小雨が降って、兄が「もう消えたから、お父さん捜しに行こか」と言いました。焼け残った電子レンジのそばに遺骨はありました。三人で拾って、近くにあった箱に入れました。 結婚後、私は夫の実家の稲美町に移り、一男一女に恵まれました。震災について忘れていくこともあるけど、父のことを思うと「炎に巻き込まれてどれだけ熱かったろう」と今も涙が止まりません。それから、なぜか父の仏前で手を合わせられないんです。母のそばに、いつも父がいる気がして。母に孝行することで、父にも気持ちが通じている気がするんです。(2007/12/23)


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