教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

進路を聞く会 2008年

2008年06月30日 | 進路保障
 毎年卒業生を招いて行ってきた進路を聞く会ですが、今年は教育実習生の先輩たちから進路のお話を聞きました。みなさんは聞きたい話を聞けたでしょうか。先輩たちの話を紹介します。

【****:**小→府立北野高校】
《進路決定について》将来なりたいものはなかった。クラブ活動の陸上を続けたいという強い思いもなく、夢もなく、ぼんやり高校進学について考えていた。けれど、学力という面ではチャレンジしたいという思いがあった。姉の通っていた高校について、話を聞くことができた。やはり、身近に生の声を聞くことが大切。高校見学などにも行って、イメージをはっきりと持つことができた。けれど実際に見ても、この高校でいいんかな・・と何回も疑問を持つことがある。将来のことだけでなく高校時代を楽しむということも大切。

 高校受験は私立・公立それぞれ1校ずつ受験した。大学受験は第1希望の学校が不合格で、第2・第3・・と変更していったが、思った以上に大学生活を楽しむことができた。自分が入学した学校を1番にするつもりで、その学校を信じて生活してほしい。

 中学時代の内申は激悪だった。先生にもアドバイスを受けて努力したが、なかなか上がらなかった。けれど悔しいから挑戦した。挑戦することは悪いことだとは思わない。最終的に決めるのは自分。

《高校生活》入学式の翌日にテストがあった。苦手な数学で赤点。何回、どんな方法をとっても成績を上げることは難しかった。けれど得意教科を伸ばせるチャンスもある。好きなもの、自分の得意なものをどんどん伸ばしていってほしい。勉強では予習が必要。宿題は家できちんとしておかないと、学校での休み時間になど、とてもできない。1時間まるまる宿題の答え合わせという授業もあった。家で勉強するクセをつけることが必要。このテレビが終わったら勉強しよう・・とか、自分で「勉強する時間」を作ることが必要。

《友達について》高校では、自分と似たような学力、似たような考え方をする人が多かった。けれど中学校では、いろんな考え方を持つ人たちに出会えたと思う。私は高校時代に学校にいくのがしんどくなったことがある。学校に行かなくなった私を誘ってくれたのは、中学時代の友達だった。家にいるより、外に出ようといろいろと連れ出してくれた。体育館で卓球とか。そうやって放課後に連れ出してもらっているうちに、高校に戻ろうかな・・という気になってきた。できるだけたくさんの友人を作って、連絡を取り合ってほしい。中学生活は、あと何ヶ月かで終わる。何かに全力を尽くしてほしい。あれ、やっておけば良かったな~と後悔するのではなく、やって良かったと思えるように。

小学校生徒指導体制を考える②

2008年06月25日 | 生活指導
≪2.単年度制の検証≫ 
単年度制という言葉を知っている中学校教員は、多くないと思います。私は聞いてはいましたが、単に一年毎にクラス替えをするだけのものと思っていました。しかし小学校の単年度制は、担任の総入れ替えを意味しています。かつては二年間持ち上がりが原則でしたが、今では三年生担任が四年生を持つ、五年生担任が六年生を持つというケースは、少なくなっています。

 市内小学校で単年度制が検討されだしたのは、90年代半ばではなかったでしょうか。70~80年代に中学校現場で吹き荒れた校内暴力に対し、比較的穏やかであった小学校が様変わりを始めました。その中で「学級崩壊」「小一プロブレム」という言葉が小学校で生まれました。小学校の授業が成立しなくなるという事態は一過性のものでなくなり、一人の担任が二年間クラスを担当することがもたなくなるという危機が訪れます。それへの対策が単年度制であったと思います。
 
 しかしクラス替えはともかく、担任を総入れ替えする積極的な意味が私には分かりません。一年限りという関係が子どもや保護者との信頼関係を築き上げる事を困難にしているように見えるのです。

 中学校が三年サイクルを崩していないのは、進路や生徒指導を考えた場合、信頼関係を造り上げるのには時間が必要だからです。もし中学校で単年度制を実施するとどうなるか。間違いなく生徒や保護者との関係は崩れ、市内全中学校が大きく荒れる事は、中学校教員には容易に想像できます。

 様々な要因で担任の学級指導が困難になっているなら、学校組織として保護者や子どもの声に向き合っていく必要があるのではないでしょうか。単年度制によってゴールを二年先から一年先に縮めても担任を支え合う体制を造り上げなければ小学校担任の抱える悩みは解決されないのです。

小学校生徒指導体制を考える①

2008年06月24日 | 生活指導
≪はじめに≫
 小・中学校は戦後60年の間、独自の文化を作り上げてきました。この二つの文化は、同じ義務教育の9年間を引き受けながらも、これまで交わることがありませんでした。市町村単位の研究会や職員団体を共に構成しつつも、お互いの仕事内容についてはほとんど知らないままであり、私が小学校に赴任したときは職種が違う程のカルチャーショックを受けたのです。

しかし東京を中心に学校選択自由化の波が押し寄せ、地域と学校の関係が厳しくなりつつある現在、お互いの文化を学びあう中で『学校力』を伸ばしていく必要があると考えます。私は中学校教員の目から感じた小学校の生徒指導(生活指導)体制の問題を提起することにより、お互いの違いから学びあう取り組みの一歩としたいと考えます。

 検討が必要と考える項目は次の7点です。

第1は、6年間の指導の継続性
第2は、単年度制のプラスとマイナス面の検証
第3は、高学年を中心とした教科担任制導入の検討
第4は、各クラスの事例を学び合える校内指導体制のあり方
第5は、家庭訪問の実施の是非
第6は、子ども同士のトラブルに対する謝罪の持ち方
第7は、中学校を含む関係機関との連携のとり方

 これら7点は、中学校の生徒指導体制と比べ違いを感じたものです。以下、これら7点について考えていきたいと思います。

≪1.6年間の指導の継続性≫
 中学校で一年生の担任をするということは、卒業するまでその学年と共に過ごすということです。資料の中に私のこれまでの学年所属を書いていますが、学級担任も、生徒指導主事も、障害児学級担任も、基本はこのように3年サイクルで動いているのが分ると思います。

 資料 私の学年所属
 ●○中…1副・2担・3担・3副・1担・2担・3担・2副・生指・生指・生指・2担・3担・進路・進路・進路
 ○●中…2担・3担・生指・生指・生指・生指・1担・障担・障担・障担・小中・小中・小中・小中

 小学校では1年の時の担任が卒業までかかわり続けるということは、まずないということを小学校に勤務して知りました。私は小中9年間の連携を考える前に、小学校の中で、6年間の子どもの育ちが、どのように引き継がれているのだろうかと考えるのです。

 「どんな子どもに育て小学校を卒業させるかというような長期的なことを考える余裕は自分にはない。それよりこの一年を無事に過ごし次の担任に引き継ぐことしか考えられていない。」ある小学校教員から、こんな話を聞きました。何事に対しても非常に誠実に取り組んでおられる先生の言葉であるだけに衝撃を受けました。

 確かに中学校3年と比べ小学校の6年は、職員の平均的な勤務年数(ほぼ8年から9年で異動)と比べれば、長いです。1年で担任を持った子どもが小学校を卒業する日を見ることなく転勤する場合も多くあるとも聞きました。管理職も4~5年で転勤していきます。一方中学校では、教え子が教育実習生として学校に戻ってくるのを迎えることもあります。小・中のこの違いは、教員が子どもの育ちを考える際のスパンの違いに結びつくことになるのではないかと考えます。

 個人で6年間の育ちを引き継ぐのが困難ならば、学校体制として6年間に責任を持ち、子どもの成長を引き継いでいくことが大切だと思うのです。単年度制の検証や教科担任制導入について、私は「6年間の指導を視野に入れる」ことを意識して提起しています。(つづく)

中学一年生が小学校の先生に送った手紙⑧ 2008年

2008年06月23日 | 小中連携
【○○小学校○○先生へ きれいな字を目指しています 1年1組 ○○○○】
 ○○先生お元気ですか。今年は4年生を担任されていると聞きました。お体をこわさないよう頑張って下さい。ぼくたちが○中に入学して、はや2ヶ月がたちました。今では○○小の人たちとも仲良くなり、にぎやかで楽しい毎日をおくっています。クラブはもちろんサッカー部に入り、優しい先輩たちに囲まれて頑張っています。勉強も段々レベルアップしてきましたが、ちゃんとついていけているので問題ありません。先日の中間テストも、結果は良かったので報告しておきます。

 ぼくが中学校に入って一番気をつけていることは、「字をきれいに書く」ということです。これは6年の時から散々言われていたし、「字は人を表す」とも言うので、できるだけきれいに書くようにしています。○中は○○小よりもうんと校舎が広いので、最初はとまどっていましたが、今ではその校舎にも慣れて迷わないようになりました。先生たちはとても個性豊かな先生ばかりで面白いです。この3年間がとてもいい3年間になるように、悪いことをせず、楽しく過ごしていけるように努力するので、先生も頑張って下さい。

中学一年生が小学校の先生に送った手紙⑦ 2008年

2008年06月21日 | 小中連携
【○○小学校 ○○先生へ 1年2組 ○○○○】
 ○○先生、今までありがとうございました。小学校6年の2学期から、クラスがバラバラになって、そのまま卒業になったから、特にそう思う。でもそれはそれで楽しかってんけど。中学は勉強も難しくなって、中間のテストが86点という結果になってしまった。(6教科)それにしても先生はちっこくなったなぁ。俺なんか159.7やでー。ちょっとでかくなっただけやけど。部活は野球部に入った。キャッチャーを希望して、足腰を強化するよう、監督に言われ、自分だけ別メニューをやっています。それは厳しい練習で、クラブが終わると腹が減って、帰ったら真っ先にメシを食べるねん。月~土曜まで野球漬け。

 勉強は、くたくたの状態でするねん。大変やねんで。かばん重いし。中学はそれなりに厳しいということを6年の終わりに学級会や道徳でやったら?楽しいところ、厳しいところがあるというのを教えてほしい。ほんまに楽しいで!小学校より楽しくて厳しい。小学校もそれなりに面白かったで。小学校もいいけど、中学校はもっと楽しいで!

中学一年生が小学校の先生に送った手紙⑥ 2008年

2008年06月19日 | 小中連携
【○○小学校○○先生へ なじんでます 1年1組 ○○○○○】
 お元気でしょうか?○○先生。卒業してから、はや・・2・3ヶ月。前1組が全員そろうことはありませんが、しっかりやってると私は思っています。あいかわらず数学は苦手で、もうすぐやってくるプールにも嫌気がさします。でも好きな社会・国語・団体行動などは楽しくやっています。作文は特に得意です。今書いているのも、私の得意分野です。美術は好きですが、なかなか上手く絵がかけません。中学になって不満なことは、制服です。スカートは足を高くあげられないし、シャツを入れるとかゆくなります。「私服ってすごい」と実感しました。荷物も重くなるし、私にとって抱えきれないほど大変な中学校生活です。身長はどんどん抜かされ、勉強はしんどく、卒業アルバムはまだできていない・・などなどありますが、たいした悩み事はありません。今、この席からもみじの木が見えています。この木が全部赤になるまでには、先生も今の6-2になじめるよう頑張って下さい。先生!そんな心配の目など・・私は、どんどんなじみますから!!

中学一年生が小学校の先生に送った手紙⑤ 2008年

2008年06月13日 | 小中連携
【○○小学校○○先生 1年2組 ○○○】
 僕は○○」先生には悪い思い出ばかりを残したのでこの手紙を○○先生に出すことにしました。はじめは担任の○○先生にしようと思っていましたけど、やっぱりクラブや委員会でふざけてばかりで○○先生には悪いことをしたので申し訳ないと思いこの手紙を先生に渡すことにしました。本当に1年前は委員会で仕事をやらなかったり、低学年は真面目に話を聞いているのに僕は同級生とふざけてばかりでした。本当に申し訳ないと思います。僕は中学生になってそのことを後悔しているけど、その失敗をもとに、次に生かしていきたいと思います。前のことばかり後悔していても次に進めないので、中学校でいろいろなことを学び、将来もし会えたら○○「先生や○○先生に成長した僕の姿を見てもらいたいです。
 僕は今新しい仲間と共に勉強や部活を頑張っています。部活では野球部に入っています。先輩はすごく優しいです。勉強では小学校と違い、すごく内容が難しいです。○○先生は今どうしていますか。教師を続けていますか。教師は難しいと思うけど、新しい生徒と共に頑張って下さい。○○先生は、思いやりがあり、時には厳しく時にはとても優しく、とても良い先生です。自信を持って頑張って下さい。本当に一年お世話になりました。これからも仕事頑張って下さい。


アンネ・フランクとオードリ・ヘップバーン

2008年06月12日 | 平和について
《収容所で終わらされた15歳の命》
 今日はアンネ・フランクにとって、79回目となるはずの誕生日です。アンネはドイツ・フランクフルトのユダヤ人一家に生まれた少女です。ヒトラーが政権を握りユダヤ人迫害を行うようになると家族はオランダに移住します。その後、第二次世界大戦でドイツがオランダを占領したため、一家は友人の屋根裏で生活を始めることになります。屋根裏生活は1942年7月に始まり、ドイツ軍に発見されるまでの1944年8月まで続きます。ドイツ軍によってアンネは強制収用所に送られ、栄養失調と伝染病によって1945年3月に亡くなったと言われます。将来作家になりたいという夢を持っていたアンネは、屋根裏生活を過ごしていた2年の間に日記を書き続けました。これが『アンネの日記』と言われる作品です。55ヶ国語で発売された日記は、世界で2500万部以上も売られたヒット作ですが、15歳で亡くなったアンネにとっては、これが唯一の作品となりました。

《同い年に生まれたヘップバーン》
 私がアンネ・フランクについて興味を持ったのは、母が同じ1929年の6月に生まれたからです。私の母はT市に生まれ、戦時中は学徒動員でM町にあった軍需工場で働いていました。しかし空襲で命を落とすこともなく、戦後結婚し、私たちを生み、孫の顔を見ることもでき、今年79回目の誕生日を迎えました。

 アンネが戦争の犠牲にならなければ、どんな人生を送り、どんな作品を残しただろうと、私は考えるのです。戦争の時代を生きた多くの人たちがアンネ・フランクに自分の生涯を重ね合わせました。その一人が『スクリーンの妖精』と言われたオードリ・ヘップバーンです。ヘップバーンはベルギーで1929年5月4日に生まれ、オランダで少女期を過ごしました。戦後アンネの日記を読んだヘップバーンは「自分が崩壊するような衝撃を受けた」と書き残しています。ドイツ軍によって叔父たちが目の前で銃殺された経験を持つヘップバーンは、レジスタンス運動(ドイツの占領に反対する抵抗運動)に参加した経験を持っています。オードリ・ヘップバーンにとってアンネ・フランクは自分自身だったのです。ヘップバーンの主演した映画『尼僧物語』を観て下さい。レジスタンスに立ち上がる一人の女性の生き方が見事に描かれています。

《何度も裁判で争われた日記》
 ヨーロッパで『アンネの日記』は何度も裁判で争われています。「ドイツ軍の残虐行為は無かった」という立場から「日記は偽物という証拠が見つかった」という意見が繰り返し発表されるからです。そのたびにオランダでは裁判が行われ、『日記』の正当性が証明されてきました。戦争の記憶が遠のく今、戦時下の残虐行為についての論議が日本でもヨーロッパでも起きています。戦争証言者がますます少なくなりつつある今、『アンネの日記』を多くの皆さんが読んでみられることを願います。『アンネの日記』は各校図書館にあります。

中学1年生が小学校の先生に送った手紙④ 2008年

2008年06月10日 | 小中連携
【元○○小学校○○先生へ おかげで勉強好きになったよ 1年2組 ○○○○】
 お久しぶりです。お元気ですか?私は元気です。私が○○先生に教わったのは4年前のことですが、今でもしっかりそのときの出来事や思い出が頭に浮かびます。音楽発表会に出たこと。本の読み聞かせをしていただいたこと。私が牛乳を全部飲み終わるまで、いすにすわってずっと待ってくれていたこと。牛乳が嫌いだった私には、そのときばかりは先生が悪魔のように見えました。が、そのお陰でそれからは牛乳を残さずにすみました。私は中学校に入ってバスケットボール部に入りました。小学校の時は、陸上をやっていてボール運動は苦手でしたが、少しずつ慣れてきています。5月下旬には中間テストがありました。私は1・2年のときに○○先生の授業を受けて勉強が好きになったので、1週間に1回は勉強をしています。なのでまあまあ満足な点数が取れたと思います。先生は今可愛いお子さんがおられるそうですね。私もいとこが1歳になります。また先生に会えることを楽しみにしています。


中学一年生が小学校の先生に送った手紙③ 2008年

2008年06月09日 | 小中連携
【○○小学校○○先生へ 厳しい指導ありがとう 1年2組斉藤遊大】
 ○○先生、お久しぶりです。ぼくが小学校を卒業してもう少しで3カ月です。中学校は思ったとおり授業から何から難しく厳しいです。クラブはサッカー部に入りました。先輩はものすごく上手く、体力にはかなり差がありますが、顧問の先生が言うには、今の2年生は全員が素人スタートと聞いて安心しました。でもボールが硬く、毎日足が痛くなります。
 先生にお世話になったお陰で、厳しい中学校生活にも耐えることができています。あの厳しい指導がないと多分だらけていたと思います。先月、中間テストがありました。中学生だけあって、かなり難しかったです。一応全て平均点よりは上ですが、中学生のテストレベルを思い知らされました。それと○○小の人と最初は離れていたけど、今はよくしゃべっています。
 2年間教えていただいて、ありがとうございました。感謝していま

中学一年生が小学校の先生に送った手紙② 2008年

2008年06月08日 | 小中連携
【○○小学校○○先生へ 周りを助けられる人になりたい 1年2組 ○○○○】
 やっと中学校生活にも慣れてきました。授業のスピード、ルールを守る事、忙しさ。疲れる事もあるし、できない事も人よりあるけれど、頑張ってみようかなって思えます。部活は吹奏楽部に入りました。優しい先輩に囲まれてながらクラリネットを吹いてます。楽しくてしかたないです。友だちもいっぱいできていろんな人に助けてもらっています。迷惑をかけたりする事もある。だからこそ、私は周りの人も助けられる人になりたいです。これからも頑張ります。

中学一年生が小学校の先生に送った手紙① 2008年

2008年06月07日 | 小中連携
 ○○中学校では1学期中間テスト終了後に小学校の先生へ手紙を送る取り組みを行っています。子どもたちの了解をとったうえで、その一部を紹介します。小学校時代に言われたことが今になってわかるという言葉を発見し、「真実は後から見えてくる」という言葉を思い出しました。なお各手紙の見出しについては教育相談員がつけました。

 【○○小学校○○先生へ 先生の言葉に勇気づけられた 1年2組 ○○○○】
 私たちが卒業してほぼ3ヶ月が経ちました。私は卒業してから4~5回小学校へ遊びに行きました。小学校へ行くと、○○先生はいつも喜んで私たちを迎えてくれるので楽しみにして行けます。

 中学校では毎日勉強・部活が忙しく、何をするにもテキパキ行動しないといけません。たまに追いつけなくて「あ・・・」と思うことがあるけれど、クラスの友だちがいつも助けてくれるので「友達っていいなあ♡」と改めて感じたりしています。でもたまに小学校にもどりたいと思うことがありますが、○○先生が通知票をわたす時に言って下さった「いつもみんなのことを気にかけてくれてありがとうね。中学校へ行ってもみんなのことを気にかけてあげてね。」という言葉が私を元気づけてくれています。あの時は気付かなかったけれど、今は私の大事な言葉です。いつもイヤになった時はこの言葉を思い出し、「がんばれ」と自分に言い聞かせています。本当に今までは気付いていなかったけど、たくさんな先生方にはげましの言葉をいただきました。これからも頑張るので応援していてください。

 最後に私はバトン部に入りました。○○たちと頑張っています。良かったらバトン回しに行きます。6時まで練習しているので、良かったら見にいらしてくださ
い。

 ○○先生もお体に気を着けて4年生の人たちにも励ましの言葉をたくさん伝えてあげて下さい。また遊びに行きますね。