教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

卒業式の挨拶

2013年03月26日 | 子育て
保護者の皆さまへ
お子様の卒業、おめでとうございます。入学式の場で「居心地が良く、皆の力が発揮できる学年を目指し、力を合わせましょう。」と挨拶をしてからの3年間、38期生は、その目標を立派に達成し、○中を巣立とうとしています。心身ともに大きく変化し、さらに進路の問題をつきつけられるこの時期を子ども達はいつもいつも平穏に過ごせたわけではありません。友人とのトラブルに悩んだり、学習から逃げ出したくなったり、時には自暴自棄になりそうな時期もありました。これらの問題を保護者の皆様と協力しながら、大きな傷を子ども達に負わせることがないよう努力してまいりました。充分な期待に応えられない点も多々あったことと思いますが、私たちの取り組みにご理解とご支援を戴き、本当にありがとうございました。担任と保護者という関係は、これで途切れてしまいますが、これからは地域の一員として、末永く○中学校を支援して頂ければ幸です。 第三学年職員一同

家庭訪問で聞いたチョッと良い話

2010年05月17日 | 子育て
 5日間にわたり実施された家庭訪問ですが、保護者の皆様には時間を都合つけていただきありがとうございました。家庭訪問を通じては、担任から学校での子どもたちの生活の一端をお知らせすると同時に、ご家庭からは小学校時代の生活や家庭での様子を教えていただき、今後の参考になりました。

 私は入学式後の保護者懇談の際に、「これからは給食がなくなり、お弁当造りが大変になると思いますが、子どもたちに学期に一回でも自分でお弁当を造らせて下さい。」というお願いをしました。それは、かつて私が担任をした中学3年生の男子生徒が、毎日自分と父親のためにお弁当を造っていたことを知ったことに影響されてのお願いでした。ところが「先生から聞いた話を家庭でしたところ、さっそくお弁当造りのチャレンジが始まりました。」という話を家庭訪問で聞くことができました。お弁当を自分で造った経験が、お弁当を造ってくれる人への感謝の気持ちを深めると私は考えています。1年◎組で、お弁当造りの暖かな輪が広がることを願っています。

樋口了一『手紙』

2009年05月29日 | 子育て
テレビで紹介されて以降、樋口了一さんの『手紙』は、オリコンチャートでヒットを続けている。作者不詳のこの詩は、ポルトガル語で書かれたものだったという。年老いた親を見つめる子どもの視点ではなく、老いてゆく『私』の視点で書かれているところに新しさを感じた人も多いと思う。

『私』が『あなた』に何度も本を読んだこと、いやがる『あなた』に着替えをさせ、お風呂に入れたこと、立ち上がろうとする弱々しい『あなた』に手を差し伸べたことなどを思い起こさせ、そして「私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい」と結ぶ言葉に、西田敏行さんでなくともググッときたと思う。

しかし私にはこの詩が年老いてゆく『私』の視点で描いたという形式をとりながらも、親の老いを受け止めようと自分に言い聞かせようとしている『子ども』が書いたように思える。

公民の授業では、社会福祉や家族について学ぶ単元がある。ぜひ子どもたちに聞かせたい一曲だ。

手紙~親愛なる子供たちへ~
年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなづいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しいことではないんだ 消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい(略)

テイチクHP樋口了一『手紙』
http://www.teichiku.co.jp/artist/higuchi/disco/cg17_lyric

絵本の読み聞かせ アンケートのお願い

2009年03月05日 | 子育て
引率の◎◎幼稚園・◎◎保育所の先生方へ

 本日は◎◎中学校の生徒のため大切なお時間を割いていただき、まことにありがとうございました。

 この絵本の読み聞かせは、家庭科保育単元の一環として、毎年中学3年生が取り組んでいるものです。3月3日が公立高校前期入試合格発表ということもあり、中学3年生にとっては、辛い時期の真っ只中です。しかし中学生は園児のみなさんが来るというので、とても待ち遠しく思いながら練習を行ってきました。

 少子化の波が全国を覆い、弟や妹に絵本を読み聞かせた体験を持つ中学生は少なくなっています。だからこそ今日の機会が、やがて父や母になるであろう中学生にとって、貴重な経験となることと思います。

 今後のため、お気づきになったことがあれば、ご記入していただくようお願いいたします。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない④

2009年02月28日 | 子育て
《匿名性の高さは子どもに安全と言えない》
 千里中央は、◎◎中学校や◎◎小学校にとっては校区であり、地元です。中学生の地域体験学習を受け入れて下さっている店舗もあります。
 しかし千里中央は、地元商店街というより、大阪北部一帯をエリアとした商業地域です。顔見知りの人と人が触れ合う下町の商店街ではなく、物と現金の交換が中心のドライな大人の街といえるかもしれません。
 私は9月の『かけはし』に『商店街で見た地域の力』という記事を掲載しました。クラブ帰りの地元中学生にアイスキャンディーを振る舞いながら語り合うような付き合いは、広大な消費地をエリアにする千里中央では不可能です。
 千里中央は、行き交う人お互いがどこの誰だか分からない匿名性の高い商業地域なのです。匿名性が高いということは、それだけ子どもにとっての安全性が低いということです。
 子どもが繁華街を遊び場にすることは、大きなリスクがあるのです。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない③

2009年02月27日 | 子育て
《お金を使った遊びの落とし穴》
 お金を使った遊びには、当然元手(もとで)が要ります。過去にビックリマンシールが流行ったときには、スーパーゼウスのカードを手にいれようとして家から20万円もの現金を持ち出し、ビックリマンチョコを買ったという小学生の事件が市内の生徒指導担当者会で報告されたことがあります。かつてのガチャガチャやタマゴッチ、遊戯王カード・・・もっとありふれた店先に置かれた駄菓子。どれも子どもたちの欲望を駆り立てる魅力があります。しかし元手には限りがあるために、そこに家のお金の持ち出しや万引きという行動が付きまとうのです。
 子どもが遊びの欲望をアイデアーや創造力で満たしていたときには起こらなかった問題行動が、限りあるお金を使って遊ぼうとすることで生じたのです。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない②

2009年02月26日 | 子育て
《創造性と工夫を育てた子どもの遊び》
 子どもたちには、何も無いところから遊びを生み出す力があります。例えば『かくれんぼ』。『かくれんぼ』をするときに、何の道具も必要ありません。あるのはお互いが取り決めたルールだけです。しかもこのルールは、「見つかってない人にデンをしてもらえば生き返ることができる」とか「小さな弟や妹は見つけられてもオニにはならない」というように、その時々の状況や構成メンバーのニーズに応じて変化する柔軟性があるのです。

 状況を見て、判断し、対策を考え、場合によってはルールを変えてしまうという一連の作業は、大人社会の中でも要求される大切な創造力・企画力です。このような遊びを通じ子どもたちは社会性を育(はぐく)むのです。

 しかしお金を使う遊びでは、こうはいきません。大人がシステム化したサービス(例えばゲームソフト)を買いゲームに遊んでもらうという行為が、子どもたちの中心となります。無から有を作り出すという大切な創造性は影をひそめてしまいます。

お金で遊ぶ習慣を子ども時代からつけたくない①

2009年02月25日 | 子育て
《広がろうとしている買い食いと大型店舗での遊び》
 千里ニュータウンの再開発にともない、千里中央には新しい商業ビルが建ちつつあります。街が活気付くのは喜ばしいことですが、一方で小学生の中に買い食いや大型店舗での遊びが広がろうとしています。

 もちろん、子どもが家庭の『お使い』や『買い物』の仕事をすることは必要なことです。テレビ番組の『はじめてのお使い』を見るまでもなく、子どもは親以外の大人と接することで多くのことを学びます。家庭内のルールの外に、もっと大きな社会のルールがあることを学ぶことにもなります。また他人から優しくされたり親切にされたりする経験は、子どもの心を豊かにします。

 しかし子どもが『お金を持って遊びに行く』ということと、『お金を持ってお使いに行く』ということの間には、大きな違いがあります。また子どもが『遊ぶこと』と『お金を使って遊ぶこと』の間にも大きな開きがあります。

単なる言葉の言い換えではない生きる姿勢

2008年12月25日 | 子育て
 私が教職に就いた70年代には、教育現場で「欠損家庭」という言葉が残っていました。それがしばらくして「母子家庭」に変わりました。しかし父親と暮らしている家庭の子どもも含めるため「母子・父子家庭」という言葉に変わりました。最近では「ひとり親家庭」という言葉が使われだしています。

 「欠損」=欠けて無くなるという意味には、明らかにマイナスの価値観が含まれています。他人の家庭の在り様を行政の末端に連なる学校が勝手に「欠損」と呼ぶことは、あまりにも失礼な表現だったと思います。あの元総理大臣だって離婚経験者です。両親いるのが普通で、そうでなければ「欠損」という時代は、過去のものです。社会の変化にふさわしい言葉を選ぶことが、学校や行政にとっても必要となったのです。

 更に言えば、親が一人しかいないことがマイナス面ばかりではないことを、多くの教員は子どもたちから学んできました。『かけはし124号』に掲載した高校生を思い出して下さい。あの高校生は、子どもとしてだけでなく家族の一員として親を支えたいと願っています。母親の苦労や悩みを支えられるのは家族である自分でしかいないと考えているのです。家族関係や人間関係が希薄になったと言われる現代にあって、この高校生の意識はとても貴重だと思うのです。

 足元を見てみましょう。私たちの◎◎中学校に通う子どもたちの中には、「ひとり親家庭」どころか、両親とも失った子どもが何人かいます。炊事や洗濯を分担しながら通学している中学生が何人もいるのです。苦労を苦労と思わず、まっすぐに生きている中学生の姿を見ると、自分自身の中学時代を思い返すのも恥ずかしくなります。

 「仲間から学ぶ」「子どもから学ぶ」「生徒から学ぶ」という視点で考えて下さい。学ぶべきものが見えてくるのではないでしょうか。中学生の皆さんは家族に優しいですか?大人たちは子どもたちの心を優しく強く(心が強い人は他人に優しくなれます)育てていますか?年末・年始は家族が一同に集まるチャンスです。家族の絆(きずな)について、もう一度考えてみて下さい。

名曲『おふくろさん』に見る子育て観

2008年12月07日 | 子育て
 紅白歌合戦で、『おふくろさん』が復活というニュースを目にしました。川内康範(かわうちこうはん)さん作詞、猪俣公章(いのまたこうしょう)さん作曲の『おふくろさん』は、言うまでもなく森進一さんが歌い、大ヒットした名曲です。ところが森さんがイントロ部分に手を加えたことに激怒した川内さんが『おふくろさん』を歌うことを封印し、そのまま亡くなってしまわれました。そのため歌謡曲ファンは、二度とこの歌を聞くことができなくなるのではと心配していました。しかし川内さん遺族と森さんとの和解が成立し、再び『おふくろさん』は歌われることになったのです。
 
 名曲と呼ばれる所以(ゆえん)は、その歌詞にあります。

 「おふくろさんよ おふくろさん 空を見上げりゃ 空にある 雨の降る日は 傘になり お前もいつかは 世の中の 傘になれよと 教えてくれた あなたの あなたの真実 忘れはしない」

 幼い頃は母が自分たちを守る傘であり、わが子が大きく育ったら世の中の傘になれと教えた。それはきれい事ではなく、母の真実の願いであった。……父親は子育てにどう関わったのかということを今回は問いません。今の大人は、わが子に対して世の中の傘になれと教えているでしょうか。他人を蹴(け)落としてでも、わが子だけの幸せを願っていないでしょうか。

 亡くなった川内さんのイメージした母親は、多分明治の生まれだと思います。60歳を超える森進一のイメージする母親は、大正か昭和初期の生まれではないでしょうか。どちらにしても、旧制中学校や旧制女学校(現在の中学校と高校を合体させたようなもの)を卒業する生徒が珍しかった時代です。学歴はなくとも、生きることに対して理想や賢さがあったことを、この歌詞は教えてくれるのです。当時と比べ私たちは、はるかに『高学歴』となりました。しかし私たち大人は、本当の意味で理想を持ち、賢く子どもたちに接しているでしょうか。

 私はビートルズやフォークソングを聴きながら育った世代で、演歌や歌謡曲は苦手です。しかし紅白歌合戦で歌われる『おふくろさん』の歌詞を、今一度噛(か)み締(し)めてみたいと思いました。

夏休みに家族の一員としての仕事分担を 2008年

2008年07月22日 | 子育て
 つい先日、愛知で中学2年生によるバスジャック事件が起こりました。犯行の動機を新聞は、「父親から彼女との交際について注意されたことを恨み、親を困らせてやろうと思った」と伝えていました。イタリア・フィレンツェ大聖堂への大学生の落書きが話題にもなりました。どちらも幼稚な行動が目立ちます。

 保護者の皆さんは、大人へのステップをどのように歩まれたでしょうか。私の場合は「まき割り」の仕事を任された小学校4年生のとき、少し大人になった気がしました。まきをまっ二つに割るという爽快感以上に、それまで手に触れることのできなかった斧という刃物を任されたことが嬉しかったのだと思います。中学校2年生の冬休みには、祖父の営んでいた食料品店を手伝うため、夜明け前から福島区の中央市場で働きました。初めて手にした給料袋(給料明細書も入っていた)には、お年玉とは全然違う重みがありました。自分の働きが社会で認められたように思えたのです。ふり返れば、私の子ども時代には、手伝いを通じて大人に近づくステップを親や社会からたくさん与えてもらっていたと思います。

 現代は子どもが大人になるきっかけを掴みにくい時代だと言われています。大人になるというのは、誰かに頼る割合を少なくし(お互いが支え合っているのでゼロにはなりません)、周囲の人を支え合える存在になるということです。学校での係活動や掃除活動、家庭での家事分担のように、誰かの為に働くことを積み重ねる中で、責任感・計画性・協力・優しさなどの社会性を身につけ、大人に近づきます。数学の因数分解が解っても、英語が話せるようになっても、それだけでは大人にはなれないのです。

 右の記事は1998年7月の朝日新聞投書欄に掲載された記事です。「実際に手を動かさずして・・・家族への感謝の心、いたわりの心も育たないであろう。」という一節に深く納得し、いろんな場で紹介してきました。(『かけはし』では2度目)バスジャックを行った少年も、もっと思い起こせば医師である母親と弟妹を殺した奈良県東大寺学園の生徒も、家族から、何よりも母親からたくさんの愛情を受けていたはずです。しかし実際に手を動かさなければ、家族の愛情を感じる心も育たないのです。いつも「してもらっている」子どもは、感じる心が麻痺してしまいます。甘いものを食べ続けると、舌の感覚が麻痺するように。麻痺した舌には、いつもは美味しいはずのコーヒーも苦く感じるのです。

 いよいよ夏休みです。遊びも、クラブ活動も、学習も頑張って欲しいと思います。しかし、子どもたちが家族のため何か一つでも家事(仕事)をする、そんな経験を積ませてみてはどうでしょうか。

子育てを振り返る① わが子がウソをついた!

2008年05月08日 | 子育て
 「最近、子どもがウソをつくようになり困っています。」小学校低学年の男の子を持つお母さんがこんな悩みを打ち明けてくれました。親なら誰でもわが子の言葉を信じたいと思うでしょう。反対に大切に育てたわが子にウソをつかれると落ち込むのも当然です。しかし『子どもを信用する』ことと、『子どもの言葉を全て鵜呑(うの)みにする』ことは別です。

 大人は、『ウソ=罪悪』と考えてしまいます。ウソを倫理的に悪だと考えるから、わが子がウソをつくということを認められなくなってしまいます。しかし子どもは『親の期待に応えている自分』を演じたくて、すぐにバレるようなウソを
ついてしまうことがあります。子どもは非力です。親に依存しなければ生きていけません。そのため子どもは「良い子にしなければ親から愛されないのではないか」と思い、とっさにウソをついてしまうことがあるのです。子どものウソは非力な自分を守るための手段でもあるのです。(もちろんウソをついてはダメだと教えなければならないことは言うまでもありません)

 みなさんも子ども時代に親には内緒にしたかったことや、ウソをついてでも秘密にしておきたかったことがあったのではないでしょうか。子どもはウソをつくということをいつも頭の隅にとどめておく必要があります。そのうえで子どもがついたウソも含め、丸ごと子どもを認めることが大切だと思います。わが子に限ってウソをつくはずがないと溺愛(できあい)するのでなく、わが子がついたウソの上塗りをするのでもなく、わが子がウソつきだと諦めるでもない姿勢が大切です。

 子どもを認めたうえで、同時に人を傷つけるウソについては決して見逃さない姿勢が大切です。(次回、子どもがウソをつく背景についてもう少し考えましょう)

留守家庭児童会~自主運営のころ

2008年04月15日 | 子育て
 もうすぐ26歳になる息子が小学生のころのことです。当時市内の小学校では留守家庭児童会(○○小学校では『めだか学級』、○○小学校では『かしの木学級』)の整備が進んではおらず、夏休みなど長期の休みには閉鎖されていました。

 子どもだけを残して仕事に行くのが心配な親たちは、交代で休暇をとり留守家庭児童会を自主運営することにしました。校長先生を相手に交渉を行い学校施設の利用を許可していただきました。また夜中に親たちが集まって休暇をとれる日を出し合い、簡単な時間割を決めました。私の当番のときは『調理実習』と称して子どもたちとそうめんを作って食べたことを思い出します。

 留守家庭児童会のために一日休暇をとるのは確かに負担でした。しかし共働きの父親である私も、わが子の友だちの顔や名前も覚えることができたし、目の前で起きたケンカの仲裁を通じ親同士の連帯感も生まれたと思います。何よりも小学校低学年の子どもを何十人とお世話をされている指導員さんの苦労を知ることができました。

 今は、夏・冬・春の休みも留守家庭児童会は当たり前のように開催され、働く親にとっては随分と便利になりました。しかし留守家庭児童会の運営に関わることによって得た、家庭で見るとは違うわが子を見つめなおすチャンスを失っているようにも思えるのです。

子育てを考える③ 『聞く力』の低下とは?

2008年02月14日 | 子育て
 『聞く力』が低下した原因について、前号で①聞き逃しによる失敗を子どもが経験していないこと、②大人が持つべき最終決定を子どもに与えてしまったこと、について私見を述べさせていただきました。今回は③の子ども集団が解体されつつあり総合的なコミュニケーション力が低下したことについて説明を加えます。

 子ども集団の解体は、子どもの遊びの孤立化、人間関係の希薄化、子どもを取り巻く大人集団の崩壊という形をとって進行しています。

 《機械と遊ぶ》以前公園でとても不思議な光景を見ました。小学生たちが野球をして遊んでいるのですが、とても静かなのです。よく見ると子どもたちの手にはそれぞれゲーム機があり、攻撃チームの子どもたちは自分の打順を待つあいだゲームに熱中し、誰も友達のプレイを見ていないのです。ファミレスで向かい合うカップルもそれぞれが携帯で誰かとメールをしていて二人の間の会話がありません。ゲーム機や携帯などの機械が相手では、気にくわないと消去したりリセットしたりできますが、現実世界では気の合わない子が同級生だったり、嫌な上司が会社にいたりするのです。子ども時代から機械に遊んでもらっているようでは、多様な人がいる実世界で生き抜くための豊かなコミュニケーション力は身につきません。

 《大人社会はどうか?》「うちの子をしかってくれてありがとう」という標語があります。しかしこの標語自体が成り立たなくなろうとしています。『我が子への注意』を『我が子への攻撃』ととらえてしまう親が増えているのです。子どもが成長するためには様々な大人からのアドバイスが必要です。それら周りからの応援をシャットアウトしてしまっては、子どもの成長は困難です。我が子への注意は親の子育てへの支援だと受け止めることができないほど大人集団の崩壊が進み、大人の対立に子どもが巻き込まれることがあるとすれば、最大の犠牲者は子ども自身です。「良薬口に苦し」という昔の人の言い伝えにあるように、的確なアドバイスは時として耳障(みみざわ)りなものです。子どもの聞く力の低下は、一方では大人社会の聞く力の低下を反映しているとも言えるのではないでしょうか。

 『聞く力』の低下は深刻な問題と思いますが、私には子どもを取り巻く環境の変化が子どもの『聞こうとする姿勢や意欲』の低下を招いているように思えます。家庭でも学校でも、子どもたちに聞こうとする姿勢を身につけることが大切だと考えるのです。                  (この連載は一旦終わります)

子育てを考える② 『聞く力』の低下とは?

2008年02月04日 | 子育て
 『聞く力』が低下した原因について、前号で①聞き逃しによる失敗を子どもが経験していないこと、②大人が持つべき最終決定を子どもに与えてしまったこと、③子ども集団が解体されつつあり総合的なコミュニケーション力が低下したことを挙げました。もう少し説明を加えます。

 子どもに選ばせて良いものと選ばせたら良くないものの区別をすることが大切です。これを間違うと子どもを育てるという私たち大人の責任が吹っ飛んでしまいます。中学校で担任をしているとき、朝登校できていない生徒の家に電話をかけると「子どもが起きません。」という返事が返ってくることがありました。何時に起きれば遅刻せず間に合うかを子どもに考えさせたうえで起床時間を選ばせるのは良いと思うのですが、「起きるか起きないか」を本人に選択させてしまうと子どもの生活は崩壊に向かいます。同じように「お手伝いで皿洗いをするか掃除をするかを選択する」「宿題は国語からするか算数・数学からするかを選択する」のように「正しい行動をする」という前提で子どもにどちらかを選択させるのは良いのですが、「しなくてもよい」という選択肢を含めることは決して子どものためにはなりません。

 部分的な選択肢を子どもの成長に合わせて与えるのは良いのですが、しなければいけないことの最終判断を大人が放棄してはならないのです。「常に自分の判断が優先される」と子どもが勘違いすると、人の話を聞く必要はなくなってしまいます。その結果、子育ても教育も行き詰まります。犬だって、しつけに失敗すると飼い主の言うことを聞かなくなるのです。

 失敗を防ぐのではなく失敗を見越して手を打つことが大人の賢いかかわり方です。失敗を繰り返さないと人は鍛えられません。小さな失敗の積み重ねが致命的な失敗を防いでくれるのです。子どもが失敗することを見越したうえで、子どもが困ったときの為のアドバイスを準備しておけば慌てる必要はありません。そもそも義務教育段階では取り返しのつかない失敗というものは多くはありません。(もちろん命の危険を伴う事故からは子どもを守らねばいけませんし、中学校に入っても九九ができないとなると将来の進路に不安が高まります)子どもに失敗をさせ、失敗の原因を考えさせ、学ぶ姿勢をつけること、これも聞く力を育てるために大切なことです。(つづく)