5月21日に行われた校区青少年健全育成会全大会では、昨年までの3年間インドネシア日本人学校に勤務されていた○○小学校○○○○先生から『海外で考えた日本の危機管理』と題したお話をしていただきました。○○先生は、「日本社会は子どもが自分で自分の身を守るという力を奪っているのではないだろうか」という問題提起をしたうえで、日本とインドネシアとの違いを例に出しながら子どもにも危機管理という意識を持たせる必要性を語られました。
【安全か危険か自分で判断する力をつける】
当時のインドネシアは1997年の暮れから、スハルト大統領退陣を求める学生デモが盛んでした。しかしデモ隊への軍の発砲をきっかけに1998年の5月15日には数百人の死者を出すジャカルタ大暴動へ膨れ上がり、数週間にわたり混乱が続いていました。(日本では『ダンゴ3兄弟』の歌が流行っていました)危険を察知したヨーロッパやアメリカ系企業に勤務する者は、いち早くインドネシアを脱出しましたが、日本人だけは本国からの帰国命令が出ないので、いつまでもインドネシアに留まりました。その結果、暴動が起きた後のジャカルタ空港で飛行機待ちをしている外国人といえば全員が日本人だったというエピソードを紹介しながら、安全かどうかの判断は国や会社まかせにせず、自分で判断できる力を持たなければいけないと結論づけました。
【時間を守るということ】
時間を守るというルールをとってみても、日本とインドネシアでは大きく異なるといいます。○○先生はバスを使って修学旅行に出かけるとき「一人が遅れたら全員を待たすことになるから時間を守りなさい」と日本で教えてきました。しかしインドネシアの日本人学校では「自分の命を守るため時間を守りなさい」と教えていたのです。インドネシアでは時間がくれば人員点呼もせずにスクールバスは出発してしまうのです。日本人学校に通う子どもたちは安全のため警察バイクが先導するスクールバスで通学するのですが、一箇所の停留所で遅刻した生徒を待っていると次の停留所で待っている子どもが誘拐や暴動などの危険にさらされるかもしれないのです。だからより多くの子どもの命を守るため、バスは決して遅刻した生徒を待ってくれないのです。
話を聞いて私は時間を守るというルール一つをとってみても、発想の違いの大きさに考えさせられました。学校生活の中でも、子どもに責任を自覚させるということとを意識しながら、自分で考える力を身につけていく指導が大切だと思いました。(生徒指導部だより『千里馬』NO.6 1998年5月26日発行)
食の安全が危機に瀕し、様々な偽装が飛び交う今、「安全を自分で判断できる力」はますます必要とされているのではないでしょうか。
【安全か危険か自分で判断する力をつける】
当時のインドネシアは1997年の暮れから、スハルト大統領退陣を求める学生デモが盛んでした。しかしデモ隊への軍の発砲をきっかけに1998年の5月15日には数百人の死者を出すジャカルタ大暴動へ膨れ上がり、数週間にわたり混乱が続いていました。(日本では『ダンゴ3兄弟』の歌が流行っていました)危険を察知したヨーロッパやアメリカ系企業に勤務する者は、いち早くインドネシアを脱出しましたが、日本人だけは本国からの帰国命令が出ないので、いつまでもインドネシアに留まりました。その結果、暴動が起きた後のジャカルタ空港で飛行機待ちをしている外国人といえば全員が日本人だったというエピソードを紹介しながら、安全かどうかの判断は国や会社まかせにせず、自分で判断できる力を持たなければいけないと結論づけました。
【時間を守るということ】
時間を守るというルールをとってみても、日本とインドネシアでは大きく異なるといいます。○○先生はバスを使って修学旅行に出かけるとき「一人が遅れたら全員を待たすことになるから時間を守りなさい」と日本で教えてきました。しかしインドネシアの日本人学校では「自分の命を守るため時間を守りなさい」と教えていたのです。インドネシアでは時間がくれば人員点呼もせずにスクールバスは出発してしまうのです。日本人学校に通う子どもたちは安全のため警察バイクが先導するスクールバスで通学するのですが、一箇所の停留所で遅刻した生徒を待っていると次の停留所で待っている子どもが誘拐や暴動などの危険にさらされるかもしれないのです。だからより多くの子どもの命を守るため、バスは決して遅刻した生徒を待ってくれないのです。
話を聞いて私は時間を守るというルール一つをとってみても、発想の違いの大きさに考えさせられました。学校生活の中でも、子どもに責任を自覚させるということとを意識しながら、自分で考える力を身につけていく指導が大切だと思いました。(生徒指導部だより『千里馬』NO.6 1998年5月26日発行)
食の安全が危機に瀕し、様々な偽装が飛び交う今、「安全を自分で判断できる力」はますます必要とされているのではないでしょうか。