教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

自分で自分の身を守るとは~青少年健全育成会全体会報告

2008年01月31日 | 子育て
 5月21日に行われた校区青少年健全育成会全大会では、昨年までの3年間インドネシア日本人学校に勤務されていた○○小学校○○○○先生から『海外で考えた日本の危機管理』と題したお話をしていただきました。○○先生は、「日本社会は子どもが自分で自分の身を守るという力を奪っているのではないだろうか」という問題提起をしたうえで、日本とインドネシアとの違いを例に出しながら子どもにも危機管理という意識を持たせる必要性を語られました。

【安全か危険か自分で判断する力をつける】
 当時のインドネシアは1997年の暮れから、スハルト大統領退陣を求める学生デモが盛んでした。しかしデモ隊への軍の発砲をきっかけに1998年の5月15日には数百人の死者を出すジャカルタ大暴動へ膨れ上がり、数週間にわたり混乱が続いていました。(日本では『ダンゴ3兄弟』の歌が流行っていました)危険を察知したヨーロッパやアメリカ系企業に勤務する者は、いち早くインドネシアを脱出しましたが、日本人だけは本国からの帰国命令が出ないので、いつまでもインドネシアに留まりました。その結果、暴動が起きた後のジャカルタ空港で飛行機待ちをしている外国人といえば全員が日本人だったというエピソードを紹介しながら、安全かどうかの判断は国や会社まかせにせず、自分で判断できる力を持たなければいけないと結論づけました。

【時間を守るということ】
 時間を守るというルールをとってみても、日本とインドネシアでは大きく異なるといいます。○○先生はバスを使って修学旅行に出かけるとき「一人が遅れたら全員を待たすことになるから時間を守りなさい」と日本で教えてきました。しかしインドネシアの日本人学校では「自分の命を守るため時間を守りなさい」と教えていたのです。インドネシアでは時間がくれば人員点呼もせずにスクールバスは出発してしまうのです。日本人学校に通う子どもたちは安全のため警察バイクが先導するスクールバスで通学するのですが、一箇所の停留所で遅刻した生徒を待っていると次の停留所で待っている子どもが誘拐や暴動などの危険にさらされるかもしれないのです。だからより多くの子どもの命を守るため、バスは決して遅刻した生徒を待ってくれないのです。

 話を聞いて私は時間を守るというルール一つをとってみても、発想の違いの大きさに考えさせられました。学校生活の中でも、子どもに責任を自覚させるということとを意識しながら、自分で考える力を身につけていく指導が大切だと思いました。(生徒指導部だより『千里馬』NO.6 1998年5月26日発行)

 食の安全が危機に瀕し、様々な偽装が飛び交う今、「安全を自分で判断できる力」はますます必要とされているのではないでしょうか。

子育てを考える① 『聞く力』の低下とは?

2008年01月25日 | 子育て
 【ついに国語のリスニング入試が登場】聞く力の低下が顕著であるとし、青森・岡山・沖縄など7県の公立高校入試に国語の放送問題が実施されており、今後更に拡大しそうだと朝日新聞が報じていました。日本語で放送された内容に対するいくつかの設問があり、それに日本語で答えるというものです。

 【教員が直面する聞く力の低下=聞いてない】「聞く力」の低下は、多くの教員が日々直面しています。例えば・・・先生「教科書41ページを開きなさい」生徒A「先生。どこを開くんですか。」先生「教科書41ページです。B君。読んで下さい。」生徒B「先生。どこ読むんですか。」先生「いま41ページって言ったやろ!」・・

 私が教員になったのは1979年。町工場と飲み屋と文化住宅が混在する「下町」の学校がスタートでした。しかし教員と生徒の間でのこんなやりとりは、まずありませんでした。今では一度の指示がクラスに徹底することは非常に難しくなりました。教科書を開けるだけなので、指示した内容が高度なわけではありません。生徒が教員に反抗しているわけでもありません。ただただ、聞いていないだけなのです。

 【個別に話しかけられると聞けるが全員に話しかけられると伝わらない】これが授業での実感です。小中学校の学習は、教科に関する様々な情報(英単語であったり、因数分解の解き方であったり、原子記号であったり、漢字であったり)を視覚や聴覚で取り込むことから始まります。ところが見えていても見てない。聞こえていても聞いてない。これでは学習の力が伸びるはずがありません。まず聞くこと、これが学習の基本なのです。

 子どもの聞く力が低下した原因については、社会学者や教育学者が解明してくれると思います。しかし私が見る限りは次のような要因が大きいと考えます。それは①聞き逃しによる失敗を安易に大人がカバーしてしまっていること、②大人が持つべき最終決定権を子どもに与えてしまったこと、③子ども集団が解体されつつあり総合的なコミュニケーション力が低下したことが考えられます。次号でこの3つについて、もう少し詳しく述べようと思います。(つづく)

記憶をつなぐ・・阪神淡路大震災②

2008年01月24日 | ニュースを読む
 神戸新聞は『遺族が語る』という特集を組み、残された家族の声を掲載し続けています。「大丈夫やから、こっち来るな!炎の中から聞こえたその言葉が父の最期の言葉でした」「娘の足が瓦礫の下から見つかった後に成人式(当時は15日が成人式でした)の晴れ着姿の写真が届いた」「母の遺体が作ってくれたわずかな隙間で僕は助かった」など、あの日の記憶が語られています。

今回は淡路島の洲本市で、長男:比呂文さん(当時15歳)長女:さゆりさん(当時13歳)を失われた東さん夫婦の声を掲載します。

    ◇

《まだ強くは生きられない 》東昇さん(58歳)・東里美さん(51歳)
 もう十年。夫婦だけの生活にも慣れました。
あの日、一階で寝ていた子どもたち二人は抜けた二階の下敷きになりました。ふすま一枚隔てた隣室で寝ていた私たち夫婦も、タンスや梁(はり)に押しつぶされました。助けにいくことができず闇の中で何度も子どもたちの名前を呼びました。でも返事はありませんでした。長男の比呂文は当時中学三年生。料理が得意で台所の手伝いもよくしてくれました。だから「高校では食品加工を学ぶんだ」って。震災の前日には参考書も一緒に買いに行きました。さゆりは笑顔の明るい子。だれとでも仲良くなりました。近所の小さな女の子たちをまるで妹のようにかわいがって。将来の夢は保育士になることでした。

 二人とも友人に恵まれていました。神戸や大阪に就職した友達も、帰省したときにはよく自宅に立ち寄ってくれます。比呂文の友達は、誕生日がくると毎年お墓にメッセージカードを供えてくれます。二十歳を過ぎてからは、そこにお酒も加わりました。さゆりの友人も優しくって。三年前の「成人の日」でした。門出を祝おうと、私(母親の里美さん)が二十歳のときに着た晴れ着をタンスから引っ張り出して仏壇のある部屋に飾ったんです。「一人きりの成人式」の予定でした。でも、地元の成人式を終えた友人たちが大勢自宅に来てくれたんです。「一緒に祝いたかった」って。みんなが二人のことを覚えてくれている。周囲の支えがあってこその十年でした。

 だけど、まだ強くは生きられません。「希望を持って生きて」と励まされるけど、子どもを失った親の「希望」って何でしょうか…。十年が過ぎても答えは見つかりません。遺品はすべて段ボールにしまっていますが、開けてみることはありません。悲しくて、涙が出るから。節目の日なんて来ないと思うんです。二十年たっても、三十年たっても。(神戸新聞2005/08/28)

    ◇

 子どもを失った親の「希望」って何でしょうか。私は、この問いに対する答えを見つけることができません。何十年たとうが節目の日なんて来ない、という声は震災の記憶を心に留めておくことの大切さを訴えているようでした。

記憶をつなぐ・・阪神淡路大震災

2008年01月22日 | ニュースを読む
 1995年1月17日午前5時46分、関西を襲った大地震は、6434人もの尊い命を奪った大災害でした。テレビ番組はすべて特別報道番組に切り替えられ、行方不明や亡くなった方の名前を一日中読み上げていたのです。子どもたちの多くも地震の被害に遭いました。240人(1995年1月25日文部省調査)にものぼる小・中学生の命が奪われ、更にその数倍の子どもたちが重軽傷を負いました。神戸市を中心に180校もの小・中学校で臨時休校が続き(壊れずに残った教室は避難者であふれていた)それらの学校から1万人を超える緊急転校者が周辺都市へ流れていました。(『かけはし』NO.48より)

 あらゆることは自分に置き換えてみてやっと分かります。今になり中学3年生の皆さんには、1月17日に地震が起きたことの大変さが分かると思います。目の前の受験のことで頭がいっぱいになっているこの時期に家族が亡くなり、家はつぶれたのです。

 中学校で1995年4月から始めた(1996年7月まで続く)月2回の炊き出しボランティア(灘区岩屋公園避難所)には、多くの中学生が参加しました。生徒会の呼びかけで炊き出しのためのお米も集まりました。約一年半に及んだボランティア活動がきっかけで、大学で報道のあり方を学ぶことになった者や、医療に携わることになった者、消防署の救急隊員になった者もいました。現場に駆けつけることで中学生たちは震災から生き方を学んだのでした。

 震災報道を追い続けた神戸新聞は、『だから語り続ける 私たちの震災13年』という記事を連載し、当事者が震災を語ることの辛さ、辛さを乗り越えて語る意義を私たちに訴え続けています。(神戸新聞社の許可を得て、一部紹介させて頂きます)

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野村 勝さん(元消防士 69歳)
 「火さえ消してくれとったら、家族は生きられたんや」罵(ば)声とともに、消防士の野村勝さんに向かって灰皿が飛んだ。背後の壁に当たり、床に転がった。向かいに座っていた60歳くらいの男性。厳しい目をしていた。阪神・淡路大震災から間もない1995年3月。長田区役所での復興街づくりの会合に、住民の野村さんは出席した。街のあちこちにがれきが残り、大火の跡が生々しかった。「やることはやった。仕方がなかったんや」皆が震災当日を語る中で述べた野村さんの言葉が、男性の怒りを買った。13年前、野村さんは56歳。1月17日は垂水消防署の消防司令補として当直に就いていた。激しい揺れで机もテレビもひっくり返った。12人ほどいた隊員に、出動態勢を命じた。「ガス漏れや」。6時前に住民が駆け込んできた。現場に急行。最大音量で火を使わないよう叫び続けた。消防無線は信じられない現実を伝えていた。「塩屋町で倒壊家屋の下敷き」「長田、兵庫、須磨、灘、東灘で火災」「長田に応援に向かえ」―。長田区は火の海だった。放水しようにも消火栓の水が出ない。無線で応援を求めたが応答なし。「はよ消さんかい」「何とかして」。市民の悲鳴が突き刺さる。防火水槽を求めて歩き回るが、その間も炎は街を焼き尽くしていった。2週間後の非番の日、長田の街を歩いた。菅原市場付近で、骨と思われる小さなかけらがあった。手を合わせることしかできなかった。区役所の会合をきっかけに、野村さんは自分の職業を口にしなくなった。火災にどうすることもできず、多くの住民が亡くなった。「あの時こうしていれば」と何度も自問した。長田の現場が頭から離れず、眠れぬ夜が続いた。(神戸新聞1月15日『だから語り続ける 私たちの震災13年』より)

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 悲惨な現状を目の当たりにした震災で生き残った人たちの中には「生きていてよかった」と考えず、「自分が生き残った事が罪ではないか」という気持ちにおちいってしまう人がいます。心の優しい人ほどそう考えてしまいがちなのです。(戦争から帰ってきた私の父もそうだったと思うし、JR尼崎列車事故の生存者も同じような気持ちを語っています)野村さんもまたその一人でした。「助けられたかもしれない命を助けられなかったのではないか」という思いが消防士である野村さんに重くのしかかり、生き残ったことに悩む日々が続きました。

 そんな野村さんは故郷の徳島で看護士をしている同級生に頼まれたことがきっかけで病院関係者を前に震災の体験を話しました。

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 「さっきまで『助けて』と声がしたんです」と救助を求められたこと。手にしたホースからはわずかの水しか出なかったこと。怒りに任せた市民から突き飛ばされたこと。「それでも私は何もできませんでした」。静まりかえった研修室で、声を詰まらせながら話は続いた。救命という同じ仕事に携わる人たちに、問いかけずにはいられなかった。「当直の時に地震が起きたら医師とどのように連絡を取りますか」「この病院は担架の数は足りてますか」「非常用の照明の燃料はありますか」話し終わった後、しばらく拍手がやまなかった。

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 震災は人々の心の中に傷となって残っています。震災の記録だけでなく、記憶をつなげていくことが大切であると思うのです。野村さんはこの講演会をきっかけに震災を語り継ぐ活動を始めたのです。


35期生(185人)卒業おめでとう!~生徒指導部だより『千里馬』159号より

2008年01月21日 | 学校の話題
3月14日。前日の雪交じりの空とはうって変わった穏やかな朝を迎える中で35期生の卒業式が行われました。校長先生から一人ひとりに手渡された卒業証書。はにかみながらも握手を求め差し出される卒業生の手。「ありがとうございます。」と動く唇。卒業生みんなの決意を伝えてくれた答辞の言葉。体育館に響く思い出の歌と別れの歌。この卒業式を素晴らしいものにしたいというみんなの思いが一つになり鳴り止まぬ拍手。拍手。

 ○○中学校では子どもたちを中心とした卒業式づくりを目指し、1996年3月の卒業式からみんなが向き合う対面形式での卒業式を行ってきました。卒業生の後姿を遠くから眺めていた旧来の卒業式とは異なり、お互いが向き合い卒業生一人ひとりの緊張した表情や決意の言葉を参加者全員が受け止めることができることを願っての試みです。それ以来卒業式は毎回参加者全員の感動を生み出しながら行われてきました。

 しかし皆さんもご存知のように卒業式を巡っては国会や地方議会で様々な論議が行われています。そして卒業式の在り方が政治の世界で論議されればされるほど、私たちが気軽に口に出しにくいものになっているように思えます。21世紀は人権をベースにしながらお互いの多様な価値観が尊重される時代です。この時代にふさわしい卒業式の在り方を追いもとめていく必要が思います。

 卒業式が終わった後、長年にわたって地域の民生委員をされている方からこんな話を聞きました。「中学生の涙を見て、久しぶりに胸がジーンときました。子どもたちが変わったって言うけど、やっぱり中学生って良い時代ですね。」・・・年に一度はこんな感動がないとネ。

 こんなこともありました。1時になろうとするのに学校から帰ろうとしない卒業生に帰宅を促すと「先生!私が門を出たらもう○○中の生徒じゃなくなってしまうんよ。」と言いながらまた泣き出してしまった卒業生。・・・こんなに中学校を大切に思ってくれてると知り、私もウルウルしそうになります。

 卒業式当日にいただいた保護者アンケートの一部を紹介します。
 「とても温かみのある卒業式でした。8年前の長男の卒業式と違い、どの顔の表情もよくとらえることができ、ひとつにまとまった式でした。」

 「大変感動的なすばらしい式だった。対面形式の趣旨がよく生かされていたと思う。参加者全員が見守る中、校長を代表とする職員・在校生が見守る形になっているところが良い。旧習や固定観念にとらわれず、かと言って伝統的な卒業式の整然とした雰囲気を失うことなく、とても温かみのある式だった。今後もこの形を継続発展させてほしい。日の丸・君が代が国旗・国歌であることを否定するものではない(尊重したい)と思うが、教育現場への強引な押し付けには恐れを抱く。反対だ。」

 「中学校での卒業式に初めて参加しました。子どもの様子が大変よく分かりました。特に校長先生のお話が素晴らしかったです。こんな話を校内通信で拝見できたら親子ともども大変勉強になったのではと思います。本年二人目の子がお世話になります。またヨロシクお願いします。」

 「とても身近に子どもたちを見ることができて良かったです。」

 「とても良い卒業式でした。この形式は今後とも続けて下さい。マイクの位置や準備、バックミュージックなど、もう少し先生方の配慮が欲しかったです。送辞は卒業生に手渡して欲しかったです。」(2001年3月19日発行)

下校する子どもたちの安全確保のために~生徒指導部だより『千里馬』116号

2008年01月18日 | 生活指導
【危ない!歩行者専用道路でのバイク走行】
 5月に入り中学校東門前歩行者専用道路(かしの木橋~近隣センターの間)を少年たち(本校卒業生を含む高校生)がバイクに乗って走り回るというできごとが何度かありました。特に先週の11日(木)と12日(金)は、生徒が下校する4時ぐらいからバイクに乗った少年たちがもくせい公園周辺に集まりました。11日は私が出張だったため、校長先生をはじめ他の先生方で指導していただきましたが、12日の様子は次のようなものでした。

 4時頃、東門スロープをキックボードで滑り降りていく金髪少年が職員室から見えたので私が駆けつけました。すると東門の階段下にバイクにまたがった少年が数人いるのが目に入りました。その中に、タバコを手に持った卒業生A君(34期生:高校1年)がいたので、「こら!A!調子にのんな!」と怒鳴りながら階段を下りると、A君はとっさに手に持ったタバコを捨てました。見渡すとA君以外にB君C君D君(いずれも33期生:高校2年生)、E中学を卒業したF君(高校2年)、G中学を卒業したH君(高校1年)、それと見知らぬ金髪ロン毛少年2人の合計8人の少年と5台のバイクがありました。顔見知りの少年たちは移動し始めたのですが見知らぬ金髪少年は私を無視し、バイクにまたがっていました。

【子どもたちの安全を考え警察に連絡】
 私「ここはバイク通行禁止や。バイク押してどけろ。」金髪「何でそんなこと言われなあかんねん。」私「ここにバイク通行禁止の標識があんの知らんのか。」金髪「何者や」「中学校の教師や。生徒指導の○○って言うんや。お前こそ誰や。」金髪「何でお前に答えんなあかんねん。」私「自分の名前もよう言わんかったら来るな。」金髪「教師にそんな事言う権利あるんか。」私「あるんじゃ。うちの学校の門の前をお前らがバイクで走ったら、うちの生徒が危ないんじゃ。」金髪「お前がどっか行ったら帰るわ。」私「今すぐ帰れ。よう帰られへんのやったら、今から警察に連絡する。」と言って千里中央交番に連絡しました。

 電話の後すぐに現場に戻ると、バイクも金髪少年たちもいなくなっていました。しばらくして千里中央交番から警察官がやってきました。一時間ほど門の前で安全確認した後、運動場のクラブ活動の様子を見に息ました。6時になり生徒達を下校させ、もくせい公園に行くと先ほどの少年たちはサッカーをしていました。バイクは見あたりませんでした。

 公園の様子が気になるので一度帰宅して食事をした後、22時過ぎに学校周辺を巡視に回ると少年たちはパトカーに乗せられているところでした。
(2000年5月15日)

 数年前にはこのような『攻防』のあった公園も、今ではすっかり静かになり不審な動きを見かけることがなくなりました。しかしこのような対応を通じ中学校では危機対応の力を培ってきたのだと思います。

命をもてあそぶ非常ベルのイタズラ~生徒指導部だより『千里馬』151号より

2008年01月17日 | 生活指導
 「非常ベルが鳴ったらどうする?」小学生にも分かる質問です。「安全な場所に避難する」それが答えです。非常ベルが鳴れば避難するという当たり前の行動ができなくなると命を落とす重大な事故につながります。そのため中学校では、どんな場合でも非常ベルが鳴れば避難行動に入ります。

 昨日はその非常ベルが鳴りました。私は「ただいま非常ベルが鳴りました。生徒の皆さんは静かに教室で待機し、次の放送の指示を待ってください。非常ベルを押した生徒はすぐに職員室に連絡しにきなさい。」という放送を入れました。職員室の非常ベル受信機には、どの校舎のどの非常ベルが押されたか表示されます。それを見て各先生方は現場に駆けつけ、異常を調べました。しかし異常が認められず、また非常ベルを押した生徒も現れなかったため原因不明のまま2度目の放送で全員避難を呼びかけました。

 全員避難と全校集会に時間が費やされたため授業の終了が20分ほど延長しました。放課後のクラブ活動だけでなく、様々な活動への影響があったと思います。病院の予約時間に間に合わなかった人もいたかもしれません。しかし何よりも恐れていることは、非常ベルが鳴っても「どうせイタズラや」と皆が思うことによって本当の事故が起きたときの避難行動ができなくなるという事です。今、私たちの中学校には耳の聞こえにくい生徒が通学しています。去年までは車椅子を使っている生徒もいました。様々なハンディーがある生徒も含めみんなの命を守らなければなりません。非常ベルのイタズラは決して許されるものでないのです。(2001年2月20日発行)

 「非常ベルが鳴ったら避難させるというのは生徒に対する懲罰ではないか」という意見がありました。しかし鳴り響く非常ベルの向こうには、みんなに緊急事態を知らせようという生徒の善意があると信じることが大切だと私は考えます。「生徒を信じる」とは、そういうことではないでしょうか。雨に打たれながら避難行動に入ったこともありました。しかし非常ベルのイタズラをしてはいけないという事は生徒の間にも浸透し、今では何年間も非常ベルが鳴らない状態が続いています。

中学生世論調査②私の「うれしかったひと言」

2008年01月15日 | 子ども理解
 中学生世論調査の第2弾は、「うれしかったひと言」です。心も身体も大きく成長する時期に中学生がどんな言葉をうれしく感じているのか調査しました。同時に言葉の持つ力についても皆さんと考えればと思います。

激励・支える言葉(やればできる、ずっと友だちなど)52人(25.5%)
感謝の言葉(ありがとう)34(16.7%)
努力を認められる言葉(頑張ってる、部活上達した)25人(12.3%)
挨拶(こんにちは、おめでとうなど) 13人(6.4%)
ほめられた言葉(優しい、カッコいいなど) 11人(5.4%)
約束の言葉(また遊ぼう、こづかいあげるなど) 11人(5.4%)
成長を認められた言葉(大人になった、大きくなったなど)10人(4.9%)
ゲーム機の音声(Good job、ナイスオペレーション) 2人(1.0%)
その他(学級閉鎖、誕生日おめでとうなど)6人(2.9%)
うれしかった言葉なし12人(5.9%)
無回答 28人(13.7%)

《男女共に一番多かったのは激励したり、励ましたりする言葉》
「あんたやったらできる」「やればできる子」という言葉で勇気づけられ「あなたと友だちで良かった」「いつもみかたや」「いやな事困った事があったら相談して」「大丈夫?」という言葉で自分が支えられていることを実感できるのだと思います。なかには「あわてずにしっかり最後までゆっくり時間をかけなさい」と具体的に言ってもらえてうれしかったという感想や、「ベスト出さんかったら後で怒るで」というキツメの言葉がうれしかったという意見もありました。「今年もあなたの笑顔が見られますように」と友人から言ってもらえた人もいましたが、こんな言葉をくれる友人がいることは最高の幸せだと思います。アンケートは1月8日の始業式に配布したため3年生では受験に関する意見が多くありました。「頑張ったら伸びる」「やったらできる」と先生から言われたひと言でやる気になり、「安心して勉強しなさい」という親のひと言で焦りが消え、友人の「合格祈ってる」というひと言や、先輩からの「絶対この高校においで」と言われた言葉が励みになっていると回答が寄せられました。

《次に多かったのは感謝の言葉》
32人の生徒たちが「ありがとう」の言葉をあげていました。「ありがとう」のたった5文字の言葉が、これだけ多くの支持を得ているのだと改めて思いました。「いてくれてありがとう」「よく生まれてくれた」という回答も一つずつありました。深い意味を持つ言葉だと思います。

《3番目に多かったのは自分の努力を認めてくれるひと言》
「よく頑張っている」「成績が上がったね」「部活頑張っているね、うまくなった」などの言葉が頑張っている自分を見てくれているという安心感につながっていると思うのです。「頑張っているところみんなはちゃんとわかっているよ」という親のひと言は、不安を吹き飛ばす魔法の一言だと思います。

《4番目に多いのが挨拶「久しぶり」「こんにちは」》
こんなありふれた言葉が、うれしかったひと言の4位に入っています。「あけましておめでとう」という言葉も6人があげていました。今年は吉永小百合さんからの年賀状が届き、一瞬喜ばれた方も多くおられたと思います。どんなありふれた挨拶でも、それが自分にとって意味のある人からのものであれば喜びにつながるのだと思います。

《以外に少なかったのはほめ言葉》
ほめられるよりも具体的な行動を応援してくれたり努力を認めてくれたほうがうれしいということでしょうか。約束の言葉は11人中4人がお年玉やこづかいをあげるというもので、これは言葉というよりもそれに続く現金が目当てだと考えられます。その他の意見で「つっこみを入れてくれてうれしかった」という意見がありました。『笑いの文化』を大切にする大阪人らしい意見ではないでしょうか。ゲーム機の音声をあげた意見が2人いました。ゲームをクリアーしたときだけに流れる音声なのですが、人の肉声よりもゲーム機の音声の方がうれしいという心のありようを皆さんはどう考えるのでしょうか。

《愚痴やイヤミを言うよりも前向きなひとことを》
小規模校であるがゆえに数人の声により世論調査の結果が左右されるという統計上の問題があります。しかし子育てや教育の中で「言葉の持つ力」はたいへん大きいと考えます。愚痴を言いたくなる気持ちも良く分かりますが、子どもたちを支え、激励するひと言や「ありがとう」と言える「ゆとり」を大人たちが持ち続ける必要があると考えました。
また「うれしかったひと言」を言ってくれた相手は友人が57人で断トツの一位でした。このことは大人だけでなく、いやむしろ中学生の皆さんのひとことひとことが、仲間を励まし勇気づけていることを表しています。みなさんの中でお互いを励まし勇気づけあう関係を更に発展させていくことが必要なのです。





















○○小・○○小6年生が○中を見学しました

2008年01月09日 | 小中連携
 12月6日、校区小学校6年生の中学校見学会が行われました。今年の見学会は市の小中一貫教育研究発表会と並行して行われたために校内見学がカットされましたが、小学生たちは希望した体験授業(国語・数学・理科・美術の4コース)を受け、更に生徒会執行部からの学校紹介を聞いた後、思い思いのクラブ活動の見学に分かれました。体験授業は昨年から始まったのですが今回も小学生のアンケートをみてみると86.1%の小学生が「良かった」と答えていて興味が持てたようです。参加した小学生の感想とアンケート結果をお知らせします。

【中学校見学会アンケート】
①見学会の中で興味を持てた項目
        良かった    普通    興味無し
 体験授業   86.1%   11.4%    2.5%
 生徒会説明  49.4%   43.0%   7.6%
 説明パンフ  41.8%   48.1%     10.1%
 クラブ見学   86.1%   10.1%   3.8%
②出会った中学生は親切にしてくれましたか。(はい97.4% ・ いいえ 2.6%)

【小学生の声】
私は国語の授業を受けました。先生はとても面白かったです。イメージを広げるための『連想ゲーム』をやったりして楽しかったです。授業の内容は古典だったけど、わかりやすく教えていただいてよかったと思います。クラブ見学は体験もさせてくれたので楽しかったです。吹奏楽部ではフルートを吹けたので嬉しかったです。楽しい授業や体験を用意して下さってありがとうございました。《○○○○:○○小》

クラブ見学の時、バレーを一緒にやらせていただいて良かったです。床に座って見学している時、わざわざ私たちに椅子を用意していただいたり、とても親切でした。(バレー部とバスケ部の人たちです)楽しく見学できました。ありがとうございました。体験授業面白かったです。《○○○○:○○小》

数学は体験授業でどんなことをやっているのかよくわからなかったです。自然数という言葉が出てきて、最初はわからなかったけど、どんどんやっていくと「なるほどなー」と思いました。生徒会の説明は、○○小学校の質問したことは全部答えてくれたので、うれしかったです。ぼくの疑問に答えてくれたと思いました。クラブ見学は、全部の所を見て回ると、部活をしている人たちが楽しくしていて、みんな明るいと思いました。僕は中学校の見学をしてよかったです。《○○○:○○小》

体験授業では○○小の人とも仲良くなれたし、今までしたことのないことが出来てうれしかったです。クラブ見学は、見学会の前から楽しみにしていました。一番初めにテニス部を見に行きました。そこでラケットを持たせてもらいました。ラケットを持つ前は、すすめられても緊張してなかなか持てませんでしたが、持つと緊張しなくなりました。それから中学生の人に優しく教えてもらいました。次に吹奏楽部に行きました。私は小さいころからフルートを吹いてみたかったので吹かせてもらいました。でも全然音がでなかったので、残念でしたが、ここでもとっても優しく教えてもらいました。ほかにもドラムやサックスという楽器をさわらせてもらいました。私も中学生になったら、この人たちのような、後輩思いの優しい中学生になりたいです。12月6日は、本当にありがとうございました。私たちが中学生になったらお願いします。《○○○○○:○○小》


新年のご挨拶を申し上げます

2008年01月01日 | 話題
 小学校との兼務という予想もしない職に就き3年になりました。朝は○○中学校で学校へ登校しにくい子どもたちを支援し、午後は○○小学校で社会科授業や小中連携の取り組みを行っています。また校区新聞『かけはし』を発行し、教育問題や人権・平和の問題を保護者と共に考えています。

 小学校に勤めて思ったのですが、小中の間には職種が違うのではと感じる程の文化の差があります。しかし文化の違いに感動したり驚いたりしながら、この差が小中の教育力を伸ばす力になるんだと考えるようになりました。現在の学校には、今までのやり方では通用しにくい課題が山積みです。小中お互いが持つ教育力から学ぶことで、解決の糸口が見つかると確信しています。校区新聞の内容は、ブログ上で公開しています。『教育相談室かけはし』で検索して下さい。

 最後になりますが、私は昨年思いがけない怪我をし、手術を受けました。皆様方も健康と安全には十分に留意され新年をお過ごしになるよう願っています。2008.1.1