今年の1月、教え子たちの同窓会が二つありましました。一つは、「かけはし」でも紹介した中学校二十歳の同窓会です。もう一つは、前任校の卒業生たちが開いた同窓会です。その同窓会で、私は予期せぬ卒業生と出会いました。中学3年生の夏に街で事件を起こし少年院に入ったAが来ていたのです。少年院を退院後、S県にある飲食店で働いていることは聞いていたのですが、よくぞ生きていた!と言うのが私の率直な感想でした。同時に同窓会の連絡がAの元にも届けられていることにも驚きました。
家を出た母親を恨み、大人への激しい不信感を抱いていたAでした。3年の春、ふとしたことからAと担任のB先生が職員室で乱闘になったことは私にも忘れられない事件でした。B先生と私とでAを床に組み伏しても、体をバネのように弾ませ激しく暴れました。Aの上に馬乗りになったB先生が「これだけ言ってもお前には伝わらへんのか!俺は・・」と絶句し体を震わせながら涙を流したのを見てAの力が抜けていったことを覚えています。
一次会の時には挨拶ぐらいしかできなかったのですが、二次会ではAの隣に座り、その後の暮らしぶりを聞きました。店こそ変わったもののやはりS県の飲食店に勤めていたAは、結婚し、人の親となっていました。「子どもがどういう友だちを持つかは大切やから、ありがとうがちゃんと言える子どもに育てたい」すっかり穏やかになっているAに乱闘の話を切り出すと照れていました。
二次会が終わる頃、Aと二人っきりで3次会に連れだったのは、散髪屋の息子で学年トップの成績だったCでした。サッカー部に入り学校生活を大いに楽しんでいたCは、現役で東京大学に合格し、今は地方の公立病院で小児科医をしていました。夜の街に消えていく二人を見ながら「あの二人は小学校時代から仲良かったなあ」と卒業生が教えてくれました。それを聞きAの立ち直りを支えたのは、こんな友人たちの優しい眼差しだったのではないかと思いました。
東大から医師、少年院から夜の飲食店、その後の人生では絶対出会うことのない二人です。しかし地域の同じ小・中学校で学んだことで、友だちと言い合える関係が続き、同窓会で再会できたのです。子ども相手の問診が大変なため、なり手が少ないと言われる小児科医ですが、こんな「人脈」を持っているCなら、きっと素晴らしい医師になれると確信しました。そして何の打算もなく付き合ってくれるCのような友人を持っていたからこそ、Aは社会人としての一歩が踏み出せたのだと思うのです。
家を出た母親を恨み、大人への激しい不信感を抱いていたAでした。3年の春、ふとしたことからAと担任のB先生が職員室で乱闘になったことは私にも忘れられない事件でした。B先生と私とでAを床に組み伏しても、体をバネのように弾ませ激しく暴れました。Aの上に馬乗りになったB先生が「これだけ言ってもお前には伝わらへんのか!俺は・・」と絶句し体を震わせながら涙を流したのを見てAの力が抜けていったことを覚えています。
一次会の時には挨拶ぐらいしかできなかったのですが、二次会ではAの隣に座り、その後の暮らしぶりを聞きました。店こそ変わったもののやはりS県の飲食店に勤めていたAは、結婚し、人の親となっていました。「子どもがどういう友だちを持つかは大切やから、ありがとうがちゃんと言える子どもに育てたい」すっかり穏やかになっているAに乱闘の話を切り出すと照れていました。
二次会が終わる頃、Aと二人っきりで3次会に連れだったのは、散髪屋の息子で学年トップの成績だったCでした。サッカー部に入り学校生活を大いに楽しんでいたCは、現役で東京大学に合格し、今は地方の公立病院で小児科医をしていました。夜の街に消えていく二人を見ながら「あの二人は小学校時代から仲良かったなあ」と卒業生が教えてくれました。それを聞きAの立ち直りを支えたのは、こんな友人たちの優しい眼差しだったのではないかと思いました。
東大から医師、少年院から夜の飲食店、その後の人生では絶対出会うことのない二人です。しかし地域の同じ小・中学校で学んだことで、友だちと言い合える関係が続き、同窓会で再会できたのです。子ども相手の問診が大変なため、なり手が少ないと言われる小児科医ですが、こんな「人脈」を持っているCなら、きっと素晴らしい医師になれると確信しました。そして何の打算もなく付き合ってくれるCのような友人を持っていたからこそ、Aは社会人としての一歩が踏み出せたのだと思うのです。