教育相談室 かけはし 小中連携版

ある小学校に設置された教育相談室。発行する新聞「かけはし」が、やがて小・中3校を結ぶ校区新聞に発展しました。

私が出会った子どもたち・・友人のまなざし

2007年01月27日 | 出会った子どもたち
今年の1月、教え子たちの同窓会が二つありましました。一つは、「かけはし」でも紹介した中学校二十歳の同窓会です。もう一つは、前任校の卒業生たちが開いた同窓会です。その同窓会で、私は予期せぬ卒業生と出会いました。中学3年生の夏に街で事件を起こし少年院に入ったAが来ていたのです。少年院を退院後、S県にある飲食店で働いていることは聞いていたのですが、よくぞ生きていた!と言うのが私の率直な感想でした。同時に同窓会の連絡がAの元にも届けられていることにも驚きました。

家を出た母親を恨み、大人への激しい不信感を抱いていたAでした。3年の春、ふとしたことからAと担任のB先生が職員室で乱闘になったことは私にも忘れられない事件でした。B先生と私とでAを床に組み伏しても、体をバネのように弾ませ激しく暴れました。Aの上に馬乗りになったB先生が「これだけ言ってもお前には伝わらへんのか!俺は・・」と絶句し体を震わせながら涙を流したのを見てAの力が抜けていったことを覚えています。

一次会の時には挨拶ぐらいしかできなかったのですが、二次会ではAの隣に座り、その後の暮らしぶりを聞きました。店こそ変わったもののやはりS県の飲食店に勤めていたAは、結婚し、人の親となっていました。「子どもがどういう友だちを持つかは大切やから、ありがとうがちゃんと言える子どもに育てたい」すっかり穏やかになっているAに乱闘の話を切り出すと照れていました。

二次会が終わる頃、Aと二人っきりで3次会に連れだったのは、散髪屋の息子で学年トップの成績だったCでした。サッカー部に入り学校生活を大いに楽しんでいたCは、現役で東京大学に合格し、今は地方の公立病院で小児科医をしていました。夜の街に消えていく二人を見ながら「あの二人は小学校時代から仲良かったなあ」と卒業生が教えてくれました。それを聞きAの立ち直りを支えたのは、こんな友人たちの優しい眼差しだったのではないかと思いました。

東大から医師、少年院から夜の飲食店、その後の人生では絶対出会うことのない二人です。しかし地域の同じ小・中学校で学んだことで、友だちと言い合える関係が続き、同窓会で再会できたのです。子ども相手の問診が大変なため、なり手が少ないと言われる小児科医ですが、こんな「人脈」を持っているCなら、きっと素晴らしい医師になれると確信しました。そして何の打算もなく付き合ってくれるCのような友人を持っていたからこそ、Aは社会人としての一歩が踏み出せたのだと思うのです。

苦労を苦労と思わず

2006年04月30日 | 出会った子どもたち
「ムッチャ恥ずかしいわ。みんな私の弁当を見て笑わんといてね。」D子の明るい声が響いた。弁当箱の中身は焼きめしの上に焼きそばがのっているだけだった。

修学旅行一日目の昼食は、各自が持ってきた弁当である。朝早いにもかかわらず、みんなの弁当箱にはごちそうが詰まっていた。しかしD子はその日も自分で詰めた弁当を持ってきていた。

D子の父親は、私と同じ中学の出身であることが懇談の時にわかった。そのことを知った瞬間に30年ほど前の古い記憶が、一気によみがえった。全校朝礼が終わり校舎に入るとき、いつも列から遅れて不自由な足を引きずっていた生徒が一つ下の学年にいた。そのときの小柄な生徒がD子の父親になっていた。D子の一つ違いの妹が生まれた直後に母親は家を出た。それから父親と妹の3人の生活が続いていた。家事は徐々にD子の肩にかかっていった。

学習は得意とは言えなかったが、運動は何をしても上手く、D子はいつも体育委員をかってでた。歩くのが苦手だった父親は、D子がどんなスポーツをしても活躍することを心から喜んでいた。しかし何よりもすごかったのは、自分の苦労を笑い飛ばす強さと明るさをD子が身につけていたことである。

修学旅行の日に自分で弁当を作ってきた生徒は、私のクラスに3人いた。その中には「最後の懇談」で紹介したC子もいた。学年会議で修学旅行当日の昼食を弁当と決めたとき、私はうかつにも自分のクラスのC子やD子の弁当を誰が作るのか、考えていなかった。D子の弁当を見たとき、私は自分の不覚を恥じた。しかしD子は、そんな私の後悔を吹き飛ばすように、明るく友人の輪の中で弁当を、食べていた。

それから数年が過ぎ、D子の結婚式に招かれた私は、主賓のスピーチをする羽目になった。メインは修学旅行の弁当の話。苦労を苦労とも思わず、いつも前向きに生きてきたD子は、きっと幸せを築いていくにちがいない。。

同い年の教え子~私の出会った子どもたち

2006年03月29日 | 出会った子どもたち
小学校入学式の朝、F男は母親と一緒に登校した。運動場にいた二人の先生が声をかけた。「ここから体育館までは自分で歩こうね。」F男は車椅子から立ち上がったが、次の一歩が出なかった。

入学式が始まるなか、母親はF男を連れて家に帰った。下半身のマヒ、白内障による視力低下、知的障害。養護学校への入学も認められなかった。教育委員会は「就学猶予」(しゅうがくゆうよ)の手続きを母親に迫った。

F男が小学校に入学できるまでは、それから11年もの『闘い』が必要だった。しかし家の中に引きこもっての生活は足の関節を硬直させ、F男は立つこともできなくなっていた。17歳で小学校に入学したF男が中学校に入学したのが23歳の春。私が教員となった年である。T市の中学校が、どんな障害があっても希望すれば入学を受け入れる立場に立ったのがこの年だった。

担任となって始めての家庭訪問で、私は母親からF男の生い立ちを聞かせていただいた。同じ時期にT市で育ち、ひょっとすれば友だちとして出会えたかもしれない二人が、十数年の時を経て担任と生徒として出会ったのだ。私の古いアルバム。小学校入学式の後、校庭の桜の木の下で家族と撮った写真。みんなの笑顔。その同じ日にF男の母親は泣きながら車椅子を押し、学校を去ったのである。私はそこに学校制度の冷たさと恐ろしさを感じた。

生まれ育ったT市で教員としてスタートをきった私の一歩は、F男とともに歩むことになった。同い年のF男が私に向かって「せんせい」と呼ぶ。望んで就いた仕事なのに、この言葉は私の心にとてつもなく重く響いた。再び子どもたちの人生を踏みつける学校・教員であってはならない、F男の見えない目が私に訴えていたのである。

最後の懇談

2006年03月10日 | 出会った子どもたち
学年始めに行ういつもどおりの家庭訪問。話も終わりに近づいたとき、C子の母親が静かに言った。「私は今まで、本当にこの子に助けられてきました。この子が小学生の頃から入退院をくり返してきたので、家のことはすべて任せっきりだったので。」

私がC子に出会ったのは、彼女が中学2年のときだ。決して視線を外すことのない授業中の眼差し、まっすぐに伸びた背筋、きれいな字で的確にまとめられたノート、そして申し分のない点数。社会科の授業でしか接していなかった私は、C子が恵まれた環境の中で勉強に専念しているものとばかり思っていた。3年生になり私のクラスになるまでは。私は勘違いをしたまま四月早々の家庭訪問を迎えていた。

 「これから、この子の進路のことで先生とは懇談を重ねなければならないのに、先生とは、もうお会いできなくなると思います。」そう語る母をいたわるような眼差しを注ぎながら、C子は傍らに座っていた。

 会えなくなる・・この言葉にどう応えたらいいのか分からないまま、家庭訪問は終わった。夏を迎えるころ、学期末懇談をする前に母親が入院した。見舞い・家事・受験学習に追われる毎日が続くが、C子は変わらぬ眼差しとまっすぐな姿勢で授業を受けていた。やがてその日が来た。クラスを超え多くの生徒たちが参加したお通夜。「中学生の娘を残して逝く妻は、本当に無念だったと思います。」同じ親として父親の「無念」という言葉が、胸に突き刺さった。

 今、C子は小学校教師として2年目を迎えている。あの頃と変わらぬ、まっすぐな姿勢で子どもたちに接していることと思う。



わかっていないのは私だった

2006年03月08日 | 出会った子どもたち
富士山の麓、河口湖のほとりにある宿に学校からの緊急連絡が入ったのは、修学旅行二日目の夜、夕食が終わりクラスで自由時間をとっているときのことだった。B子の父親が大怪我を負い意識不明で病院に運ばれている、連絡をとりたいという内容だった。

 B子は父親と二人暮し。母親とは2歳になる前に別れており、おそらく連絡先どころか顔さえも分からないだろう。C県に父親の兄弟がいるとは聞いていたが連絡先は分からない。頼れるのはB子しかいない。明日の朝一番の新幹線に乗せ病院に連れて行くべきか、それともすべての行程を終えてから病院に連れて行くべきか、悩んだ。病院に連絡すると、緊急手術は無事終えていた。危機は脱していたのだ。すぐに校長と対応を協議した。その結果、B子には新大阪駅に着くまでは父親のことを伏せておき、駅に着いたらすぐに事情を説明し病院に連れて行くことに決定した。部屋を巡回すると、何も知らないB子は友だちと楽しそうにトランプをして過ごしていた。

 B子に父親の怪我のことを告げたのは、新大阪駅に到着する直前だった。大きな瞳から涙がポロポロとこぼれた。「黙っていてゴメン。でも命は無事とお医者さんが伝えてくれたから、修学旅行が終わるまでは心配かけたくないと思っていた。」しかしB子の口からは予想もしない言葉が出た。B子はすべて知っていたのだ。

 仕事先でけんかし、深夜血まみれで帰ってきた父親を救急車に乗せ病院に連れて行ったのはB子自身だった。緊急手術が終わり明け方になったころ、看護婦さんには着替えを取ってくると言って自宅に戻り、そのまま修学旅行の荷物を持って家を飛び出していた。でも、いつ病院から呼び出しの連絡が入るのか、ビクビクしていたという。B子は私たちを父親の事故に巻き込まないため、必死の演技をしていたのだ。

 B子は母親に連絡をとってほしいと言う。「顔も分からないやろ?」というと、「知ってる」という。「保育所に通っていたとき、毎年運動会になると私の顔をじっと見て泣いている女の人がいた。その人が私のお母さんや。小学校2年のときまでは来てくれてはった。探して。」知らないはずの母親の顔をB子は運動会の参加者の中から見つけ出していたのだ。
 
 新大阪で他の生徒と別れタクシーに乗り病院に行った。数日後父親の意識は戻った。しかし記憶を失いB子を娘だと分からなかった。すでに新しい家庭を持っている母親との再会は叶わなかった。父親を見舞いながらの一人暮らしの生活が始まった。

 クリスマスが近づいたある日、B子が連絡もせず休んだ。家庭訪問をしたが、開かないドア。いやな予感がし管理人に鍵を開けてもらうと、B子が倒れていた。ガス中毒だった。一命をとりとめたが、B子は施設保護をすることになった。中学生の一人暮らしを支えることができるという私の思い上がりが、取り返しのつかない事故につながろうとしていた。1981年の冬のことだった。



お父ちゃんと別れて

2006年03月04日 | 出会った子どもたち
 「お父ちゃんと別れるか、僕を施設に入れるか、どちらか決めて」中学3年秋の進路懇談の内容は、A男のこの一言で一変した。「そんなこと、すぐに決められへん。」という母親に、「先生の前で、はっきり言うて。約束して。」とねばった。

 A男はクラスの中では小柄で無口な少年だった。2歳年下の妹と継父の4人で暮らしていた。夏休みの間に自転車で怪我をし、新学期には頭に大きなガーゼを貼って登校した。クラスの男子が笑い、A男も照れて笑った・・・ように見えた。私もつられて笑った。そのけがの原因が、そのとき分かった。父に包丁で切られていたのだ。傷は、左肩にも残っていた。

 父親は以前から自分になつかないA男に対して暴力的だった。しかしその暴力は、A男を危機におとしいれるまでエスカレートしていた。母親は夫と別れる約束をし、懇談は終わった。しかし実際に別れるまでには、それから3年の月日が必要だった。

 A男の安全を守るため、児童相談所(「子ども家庭センター」に名称変更)が動いた。施設入所が決まり、中学校卒業後もそこから職業訓練校に通うことになった。1982年のことである。世間では今ほど児童虐待が騒がれていなかった。今改めて考えると、A男だけでなく母親も暴力の犠牲者であったはずだ。母親の煮え切らない態度に憤慨していた自分の未熟さが悔やまれる。

素敵な再会~社会で学ぶ

2006年02月24日 | 出会った子どもたち
 「先生、おはようございます」職員室で見知らぬ青年から声をかけられた。「こんにちは」と返事しながら、頭の中の引き出しを開け、いつの卒業生だったかと記憶のファイルを開ける。

 ………「E夫か?」2年前に卒業したE夫だった。学年でただ一人就職という進路を選んだ生徒だった。果たして続くのだろうかという不安をよそに一日も休まず頑張っているという連絡だけは聞いていた。市内の小さな食品スーパーに勤めた彼は野菜部門の仕入れ管理を任されていた。

 「朝の8時半から夜の8時半まで立ちっぱなしの仕事で最初のうちはクタクタでした。売り場の改装の日は朝まで徹夜することもあります。残業手当もなく月に14万円の収入しかありません。でも仕事を続けてこれたのは先輩のおかげです。独身者では18歳から25歳までの先輩が5人ほどいるのですが、仕事を一から教えてもらうと同時に私生活のことや遊びのことまで何から何までお世話になりました。遊びに行っても最後は仕事の話になり職場のチームワークをどうつくるかという話になります。それがうれしいんです。これからも先輩たちと一緒に頑張りたい、世話になった先輩たちを裏切れない、そう思えたから仕事を続けることができました。」 

 「最初は野菜の名前も全然知らなくて社長さんに教えてもらってばっかりでした。今では名前は覚えましたがお客さんから料理方法を聞かれると分からないので、そのたびに社長さんに聞きに行ってお客さんと一緒に教えてもらっています。そんな時社長から‶聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥″と言われました。意味を聞くと、そんなことも知らんのか、中学校で何しとったんやと言われました。本当にもっと勉強していたらよかったと思います。中学生時代の自分が恥ずかしいです。」 

 いつも自分に自信が持てなかったE夫だが、その彼がとてもたくましく成長し自分を振り返る力と職場の人間関係を大切にする力を身につけていた。E夫のひとことひとことに深くうなずいた。 

 「中学校にやっと来れました。懐かしいです。中学しか出ていない自分にとって、学校といえば東町中学しかないんです。」 

 やっと来れました、という言葉に思わずこちらの胸が熱くなった。高校生になった卒業生たちが明るい声で中学校を訪れる。しかしE夫にとって母校である東町中学への道程(みちのり)はどれだけ遠かったのだろうか。自信を持てるようになってから中学校を訪れたい、E夫はそう考えていたのだ。 

 学ぶ場は学校だけでなく、卒業後の社会で学ぶことは山ほどある。私も学校に勤めだしたころ毎晩のように先輩から『夕食』に誘われ、生徒の見方(学校にいる時の生徒だけでなく家に帰ったらどんな生活をしているのかも含め)や職員の協力体制のあり方など日付が変わるまで熱く論議をしていた頃を思い出した。E夫は、あの時私が受けた感銘を今味わっているのだ。      (東町中学校生徒指導部新聞『千里馬』より)