犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

千葉県館山市 小学生死亡事故

2012-04-29 00:12:24 | 時間・生死・人生

4月28日付け 日刊スポーツニュースより

 4月27日午前7時35分ごろ、千葉県館山市大賀の県道で登校のため停留所で路線バスを待っていた同小の小学生ら6人の列に軽自動車が突っ込んだ。軽自動車は車道から左側にはみ出し、この4月に小学校に入学したばかりの館山小1年の山田晃正君(6つ)をはねた後、約3メートル先の石塀に衝突した。その後、山田君をひき、巻き込んだ状態で約25メートル走行したとみられる。

 山田君の母親は路上に横たわる息子を抱え「こう君、こう君、お母さんだよ。目を開けて」と泣き叫んだ。50代の男性会社員も「6人はいつも同じ時間に立っていて、小学生はうれしそうにバスを待っていたのが印象的だった。京都でも同じような事故があったばかりなのに……」と声を詰まらせた。


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 ここのところ、急に交通死亡事故が急に増えたように思われがちですが、年間約5000人が交通事故で亡くなっています。1日に10人以上です。私が裁判所で立ち会った数々の自動車運転過失致死罪の裁判も、9割以上が新聞に取り上げられることもなく、私を含めた限られた人間の記憶に残るのみです。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉は、世の中に五万とある言葉の中で、私が知り得る限り、人間の尊さや哀しさ、この世に起きてしまう事実の残酷さ、さらには窮しても転じることのない足元の崩壊による穴を最も正確に語る言葉であり、破壊力が時空間の内に凝縮されたまま人の解釈を拒んでいる状態を示しているように思います。この言葉を聞いて胸が張り裂けない者は、人間の名に値しないと思います。また、胸が張り裂ける状態を手放したままに語られる未来、立ち直り、癒し、再生といった理屈は、地に足が着いていない机上の空論だと感じます。

 私は、子供を事故で失って法廷で意見陳述をする母親の姿を前にするたびに、「命の重さ」という言い古された成句が無意味であることを思い知らされてきました。母親は、「子供と代わってやりたかった」と述べます。母親が子供と代わってしまったら、子供は母親を亡くして一人ぼっちで残されてしまうではないかといった心配は、現実には不可能なことであり、無意味な理屈です。この言葉がこの言葉として言われざるを得ないのは、この世には不可能を不可能と知り、比較の対象がないことを前提としつつ、その比較論を語ることによって現実を語るしかない現実があるということだと思います。

 私は、現に生きている母親の姿を前にして、その「命の重さ」を感じることができず、またこれを感じることは彼女に対して僭越な態度であることを知りました。母親が子供の死と同時に命を失っていれば幸福だったのかと問われれば、そうとは結論できないものの、不幸であるとも判断できませんでした。私は、彼女に生きるべきことを内心でも求めることができず、かと言って死ぬべきであるとは断じて思えず、少なくとも「命は重い」という常識論の無効を突きつけられました。それは、どんな人間も生きているだけで価値があるのだといった、死刑廃止論で用いられる論理とは次元を異にしていました。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉が意味しているものは、母親が息子に対して目を開けてほしいと願っている、ただそれだけです。加害者の運転手を許すも許さないも意味しておらず、法律の定める刑罰が重いも重くないも意味しておらず、国や地方の道路政策を責めるも責めないも意味していません。ただ、目を開けてほしいという思いの破壊力が、その言葉の意味を知る者の精神を崩壊させ、政治的な一切の解釈を拒絶しているのみと思います。あれほどマスコミで聞かれた「絆」ですが、母親の言葉に対して「親子の絆」が語られないのは、絆が断ち切られる場合のことは想定していなかったからだと思います。