犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その6

2012-04-08 23:03:44 | 時間・生死・人生

 人が特定の立場に立てない場合、その中心にあるのは穴です。穴は死者の別名であり、ここで「死者の無念」と言えば嘘になります。この部分を言葉にしようとしても、言葉になり得ないものと思います。すなわち、苦心して文字にした瞬間にそれは嘘となり、他者から見れば理解不能か、あるいは単に感傷に浸っているようにしか見えないと思います。そして、この嘘を嘘と知って語り続けることは虚しさと体力の消耗を伴い、他者には伝わらないまま、嘘を嘘と知らずに語られる言葉に覆われるのだろうと思います。

 私は、人の話す言葉そのものに関わる仕事で飯を食っているという偽善的な矜持から、言葉を有する人間が書くに値する言葉を書くとすれば、この死者の別名である穴の部分しかあり得ないとの直観があります。直観ではありながら、経験則に基づく結論でもあります。この部分の論理は、非常な厳密さを要求され、妥協の余地はないものと思います。但し、この厳密さは文字にできないため、言葉を技術的に定義する法律実務の場では相手にされません。私は仕事上、そのような場面を多く見せられてきました。

 法律の思考は、言葉の意味を厳密に捉え、論理操作を行う方法論です。法律家が条文の一言一句の解釈に命を賭けなければならないのは、その解釈次第で実際に死刑と無罪が分かれるからです。この種の言葉の厳密さが力を込めて語られるとき、私はそのような意味での言葉のプロを心底から軽蔑します。死刑と無罪を分ける厳密な論理は、「死者の無念は察するに余りある」の先には進めず、「遺族の処罰感情は激烈である」の先にも進めず、嘘を嘘と知らずに真実を語るものと思います。

 悲惨な事件や事故において、日常言語のルールが「被害者」「被害者遺族」という立場を設けるとき、ここから生じるのは紋切り型の固定観念であり、例によって悲劇のヒーローとヒロインが登場するお涙頂戴のお芝居が展開されるのみです。「通夜がしめやかに行われた」「会場は深い悲しみに包まれた」との報道によって、「ここは泣くところですよ」と指示されれば、誠実な人間は泣くことができないはずだと思います。このような劇場の台詞と、言語の限界に突き当たって語られる嘘が混同されるのは虚しいことです。

 上記は、埼玉県東松山市の足場倒壊事故の報道を契機に、この種の事故に対する私の日常的な感想をグダグダと書いただけのものです。もとより建設的な提言は何もありません。