犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その5

2012-04-20 23:48:06 | 国家・政治・刑罰

 刑事裁判において、「疑わしきは罰せず」のルールがひとたび動かし難い大原則であるとされれば、ここから生じる疑問について正面から問題にすることはタブーとなるように思います。この大原則に従えば、人の命を奪うことに対して何の感情も起こさず、上手い言い逃れを思いつき、冷静に証拠を処分した者ほど情況証拠しか残らず、無罪になりやすくなります。他方で、人の命を奪ったことに対する良心の呵責に耐えられず、証拠をすべて提出し、事実を正直に語った者ほど有罪に近くなります。

 著名な事件に関する有罪・無罪の判断は、国民の規範意識や遵法精神に与える影響が非常に大きいものと思います。但し、「悪知恵が働く者ほど得をし、正直者ほど馬鹿を見る」という結論をそのまま受け入れることを避けるため、この点の疑問は、警察の初動捜査に対する批判に替えられるのが通常と思います。近代刑法の理論からは、上記の結末は不合理でも逆転現象でもなく、すでに解決済みの問題です。他方、民事裁判を並行して処理している実務家においては、上記の結末の不合理性については、知っていて触れないことが多いように思います。

 多くの民事訴訟を解決してきた弁護士は、人間の最も醜い部分や社会の裏側を嫌というほど見せつけられています。人の欲と欲がぶつかり合ったとき、人は徹底して自己中心になり保身に走ります。人は、賠償金の支払いを免れるために財産を上手く隠して自己破産し、あるいは差押を受ける前に形だけの離婚をして配偶者に財産分与します。そして、このような依頼者の要求を上手く処理できない弁護士は、無能として淘汰されているように思います。このような弁護士が、刑事裁判の「疑わしきは罰せず」のルールを語る場合、それは学者・研究者における問題の捉え方とは異なります。

 近代刑法の大原則とは逆の「疑わしきは罰する」という命題を仮定した場合、社会の醜い部分を知り抜いた者においては、この命題の正誤を抽象的に問題にする動機は消失しているように思います。ここで問題となるのは、犯罪者にとっては罪を犯すことが「善」であり、証拠を隠滅することも有罪判決から逃れることも「善」であり、善悪が人によって相対化されているということです。この場面で、国家権力による人権侵害である刑罰は「悪」であると主張するならば、それは社会の裏側を一周してきた者の世渡り術の表れであることを免れ得ないように思います。

(続きます。)