犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その7

2012-04-23 23:49:41 | 国家・政治・刑罰

 今回の判決に先立つ論評として、裁判員が死刑を選択することの負担についての議論が聞かれました。人が人を裁くことの重大さ、そして人の命を奪うことの重大さに裁判員の精神が耐えられるか、といった問題提起です。実際に殺人事件の裁判に立ち会い、被告人と被害者の遺影の双方に向き合ってきた私には、このような抽象的な問題提起は的外れであると感じられました。ここでの問題は、研究室で行われる高尚な知的遊戯ではなく、現に目の前にいる被告人の人生を意図的に終わらせてよいか、現に血が流れて心臓が動いているこの人間を殺してよいかということです。

 私は、自らの経験より、「殺してよい」との持論を有しています。そして、裁判員が実際に死刑の決断を下したならば、その判断の過程において、避けては通れない独特の心情を経ていたのではないかと想像します。それは、殺人の体験がある者、すなわち他者の人生を奪った経験のある者の威圧感に接したときの戦慄です。私は、オーラといった非科学的なものは信じませんが、目の前にいる被告人のまさにこの手が実際に人の命を奪ったのだという現実の中に置かれていると、思わず「殺人者のオーラ」と言いたくなるような空気に圧倒されることがありました。目が合ってしまえば、その視線に飲み込まれそうになります。

 本件のように、被告人が犯行を否認している裁判の場合には、そもそも被告人が殺人者であるか否かが問題になっています。しかしながら、その殺人行為の否認の中から滲み出る堂々とした態度は、自白よりも雄弁に殺人への自信を語り得るように思います。現に人の命が失われているときに、その命についての敬意を持つか否か、被害者の死など歯牙にもかけないかということと、自分が殺人者であるか否かは全く別のことです。裁判員の最終的な決断の論拠は、有識者の議論に反して、一身的な倫理観の指し示す方向、すなわち殺人者の威圧感に対する戦慄への感度と無関係ではあり得ないと思います。

 裁判員による死刑の選択について、民主主義との関連での問題点が指摘されています。すなわち、国家権力が市民の命を奪うに止まらず、国から選ばれた市民が他の市民の命を奪うという問題です。ここでは、最初の殺人行為は単に私人間で命が奪われる現象に過ぎず、いずれにしても被害者の死は矮小化されており、国家機関による死刑執行とは質が異なることが前提です。しかしながら、これも私の狭い経験からの推定ですが、裁判員が肌で感じることになる死の質の違いは、全く別のところだと思います。すなわち、理不尽で不条理な突然の死と、手続きが保障されたうえでの罪の償いとしての死の違いです。

 判決の後、「裁判員が死刑を決断することの心理的負担」について再び問題提起がされていましたが、私は人を馬鹿にしているとの感想を持ちました。ここでは、裁判員が正義の問題について主体的に考察することは期待されておらず、「社会正義の実現」は弁護士会の側にあり、裁判員は対象化されています。これは、被害者遺族に対して心のケアばかりが与えられ、正義を主体的に問う地位が与えられない構造と似ています。裁判員が被害者の存在を通じて死を現実に受け止め、その現実の死から死刑を導く倫理的判断を経ている場面において、裁判員を客体化した刑事弁護の戦術の奏功は困難だと思います。

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