犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その6

2012-04-22 23:03:57 | 国家・政治・刑罰

 他人に迷惑が掛かることへの想像力からではなく、自分が罰を受ける不快感を避けるために「善」の行為を選択するのは、人間の理性の表われとしては幼稚だと思います。法は道徳と峻別され、刑罰権の発動は謙抑的でなければならず、ゆえに法は世間的な規範としては枠の小さな決まりごととなります。「人を殺してはいけません」と法律で決めてもらわなければ殺人の善悪が解らない人間は情けないですが、それを決めてもらうことが当たり前になっている社会は足元を掬われるものと思います。

 あらゆる行為の善悪を自分で決めず、他人に決めてもらうシステムの中では、「自分が殺したいと思った人間を殺して何が悪い」との理屈に正面から反論することは困難と思います。殺人は善であり、しかもその善である行為を隠すことも善であり、世間的な「殺人は悪である」という決まりに従うのも善であり、ゆえに自分はその殺人を犯していないと主張するのも善であり、あらゆる弁解を繰り広げることを善だとすれば、善悪の内容の議論では太刀打ちできません。あとは独善と独善が衝突するのみと思います。

 人間が作る法律や裁判制度が不完全であることは、日々実務に携わっている弁護士が一番よく知っていることだと思います。裁判では、小さな嘘はすぐにばれますが、大きな嘘は容易にばれません。この嘘の大きさが人生全体にまで拡大し、嘘の人生を演じるようになれば、そちらが本当の人生になります。経験を積んだ弁護士は、嫌でも「嘘で塗り固められた人生を生きている刑事被告人」からの洗礼を浴びているはずですが、多かれ少なかれ世間を上手く渡っている人間は、この嘘の人生を演じていざるを得ないように思います。

 「人を殺してはいけません」と法律で決めてもらう社会では、実際に起きた事実の重大さよりも、情況証拠による有罪認定のルールのほうが重要視されます。そして、唯一の真実を知っている被告人ほどそれを基点に「あり得た別の可能性」を細かく無数に思いつき、荒唐無稽な中でも理路整然としてくることは、腕の良い弁護士であれば容易に見抜けるものと思います。即日控訴という徹底抗戦の姿勢の表明は、弁護人にとっては立場やメンツを守るための手法であり、「裁判を闘うこと」がまさに戦術やゲームに過ぎないことを裏側から述べているように思います。

(続きます。)