犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その4

2012-04-17 00:03:32 | 国家・政治・刑罰

 「間接事実」「情況証拠」といった法律用語は、その定義の基礎を日常用語の「事実」「証拠」に置いており、この言葉の意味は他の言葉の意味との間で循環します。ある人間が通常の社会生活を送っているならば、その者は「事実」「証拠」という言語の前後関係を無意識のうちに把握しているはずです。時間の流れに関する常識論に従えば、まず初めに何らかの事実が起きて、それに関する証拠が残ります。今現在の目の前に証拠があって、そこから過去の事実を推認するという思考は、時間の流れを逆行していることになります。これは1つの決め事であり、法制度を運営するに際しての技術論です。

 ところが、このような時間の逆行性に慣れると、人はこれが技術論に過ぎないことを忘れます。弁護士は民事事件の相談を受けたとき、相談者が語りたい「事実」ではなく、まず「証拠」の確認から入ります。過去に実際に何が起きたのかよりも、念書を書かせたか、現場の写真を撮ったか、会話を録音したかどうかが重要になります。これは、相手方の当事者と弁護士が嘘をつくことが前提になっているからです。ここにおける当事者と相手方の地位は、双方の弁護士の間で互換性があります。弁護士にとっては、自分の側の当事者も、相手方の当事者も、どちらも嘘つきとなります。

 唯一であるはずの過去の客観的事実が唯一でないとき、弁護士にとって重要な問題は、「この証拠からはどのような判決が出るか」という点に集約されます。そして、それが過去の事実と合致しているか否かは重要ではなくなります。しかしながら、「証拠が存在しないならば過去の事実は存在しない」という法律実務の感覚と、「証拠があろうとなかろうと過去の事実は存在する」という常識論は、明らかに対立します。そして、弁護士が仕事を離れた場面で普通に日常生活を送り、そのことに何の疑問も持たないとき、法は人を救うものではなく、人を苦しめるものとなるように思います。

 「証拠が存在しないならば事実は存在しない」という実務感覚が刑事裁判の中で語られるとき、「無実」と「無罪」とは全く異なった概念となります。無罪とは、検察官の主張する公訴事実が証明できないということに尽きており、「それならば本当は何が起きていたのか」「真犯人は誰か」といった問題は、そもそも議論の場から解消されています。ゆえに、有罪判決を受けた弁護団の怒りは本気だと思います。怒りのポイントは、なぜこの程度の情況証拠で有罪の認定ができてしまうのか、という点です。ここでは、判決と過去の事実とが合致しているか否かは問題ではなく、被害者の死も大した問題ではありません。

(続きます。)

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