犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

JR福知山線脱線事故から7年

2012-04-25 23:50:03 | 時間・生死・人生

 この7年間、私は自分自身が組織に揉まれ、あるいは組織に揉まれている人々に接する仕事を通じて、経済社会のルールを学んできました。その主要なルールは、「経済効率のためには安全は軽視されざるを得ない」ということであり、さらには「人命は全てに優先するわけではない」ということでした。また、いわゆる大企業病、官僚病といった単語が意味するところも、深い脱力感と無力感を伴って全身で理解できるようになってきたと思います。

 数分の遅れを取り戻そうと暴走し、高速でカーブに突入した運転士の心境を、私は容易に想像できます。私自身、組織人としての規則や義務、あるいは組織内部での保身の欲求が入り混じり、周りが完全に見えなくなることが多いからです。そのような状況に置かれた場合、自分以外の人間は邪魔であり、突き飛ばされるべき存在となります。組織の中で分刻みのスケジュールに追い回されている者であれば、当時の運転士の焦燥感は手に取るようにわかるものと思います。いわゆる日勤教育が事故の遠因であったか否かという議論自体は、後知恵の結果論であり、議論のための議論に堕するものと思います。

 事故現場にいたJRの社員が救助にあたらず、普通に出社して仕事をしていたことがマスコミで取り上げられ、世論の非難を浴びていました。私は、もし同じ立場に立たされたのであれば、出社を選ばざるを得なかったと思います。脳化社会における巨大なシステムがひとたび回転を始めれば、人間は組織の歯車にすぎず、自分自身の良心に従った行動をすれば職務倫理に抵触するからです。自分の欠勤によって処理すべき仕事の流れが滞ることの不当性は具体的な切実感をもって迫ってくるのに対し、電車の中に挟まれた状況は想像もできないものであり、重大さの判断に逆転が生じるのだと思います。

 事故の日の夜、JRの社員がボウリング大会を中止しなかったことも詳しく報道され、世論の非難を浴びていました。この点に関しても、組織内での実務的手腕に優れ、書店に並んでいるビジネス書を読み込み、順調に出世するような社員は、恐らくボウリング大会を中止しないだろうと思います。組織の中で責任を果たすということは、「そのような気持ちになれない」といった個人の内心、あるいは「そのような気持ちになるべきではない」といった他者への要求ではなく、その結末が結論として通用するかどうかを見極めることだからです。これは、様々な思惑を有する人々を調整する能力の試金石です。

 組織内で激しく揉まれ、挫折に打ちのめされる者は、現代は人命が最優先にされない社会であることを知り抜いているものと思います。これは、他者の人生の存在を実感するには、経済社会は余りにも自分自身の人生を生き抜くことに懸命にならざるを得ず、人命尊重など考えている余裕がないという裏側からの証明です。行き場のない攻撃の感情の対象として、事故後の対応の不味さが指摘されてバッシングを受ける場面は、ここのところも多く見られました。命の重さを理解すべき義務に駆られたとき、人は悪者を叩くことによって、死者や遺族の側に立っている安心感を得ることができるのだと思います。

 7年前の4月に繰り返し言われていたことは、経済効率のために安全が犠牲にされてはならないということであり、人命は全てに優先するということでした。そして、そのような認識が薄いJRの体質が批判され、その流れでボウリング大会の開催が批判され、二次会で乾杯をしたかどうかが問題にされていました。私もその流れに乗り、二度とこのような公共交通機関による死亡事故が起こらない正義のために、JRを批判していたように思います。7年後の私は、「人命は全てに優先するわけではない」という世界に完全に浸かりつつ、7年前に想像していた通りの7年後の世界を生きています。