犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都府亀岡市死傷事故 その2

2012-04-27 23:43:57 | 国家・政治・刑罰

 京都祇園の事故の報に接した者が受けるべき最大の衝撃は、事故原因がてんかんの発作であると否とにかかわらず、人生は次の瞬間にも簡単に消えるという事実でなければならないと思います。そして、現に起きた事実を解釈を入れずに端的に捉えるならば、まずは「人の命ある日突然終わらせるような運転はしたくない」という自発的な欲求が先に来るはずだと思います。事後の賠償が大変だとか、何らかの生産性のある教訓を得るべきだとか、そのような理屈は結果論に過ぎないはずです。それだけに、その11日後に盗んだ車で無免許の居眠り運転で事故を起こされてしまっては、完全にお手上げです。

 法治国家においては、事故の衝撃は政策論としての刑罰論に変形され、定型的な議論に収まるのが通常だと思います。法律学の常識は、「大事件は悪法を作る」ということであり、大事故に際して湧き上がる法改正論、すなわち命の重さに対する刑罰の軽さの不均衡に対する疑問は、まともに取り上げられないものと思います。理性的な司法制度は、すでに魔女裁判や仇討ちを乗り越えて至ったところの歴史の産物であり、問題は既に決着済みだからです。この歴史観は、人間が大事故の10日後に再び事故を起こすこと、すなわち人間は10日前の歴史から学べないことは語らず、100年の歴史のみを語ります。

 祇園の事故では容疑者が死亡しており、かような場合に被害者には「罪を憎んで人を憎まず」という道徳が可能になるかと言えば、これは全くの空論だと思います。祇園の事故の被害者における死が、「二度とこのような悲しい出来事がなくなってほしい」という意味を与えられざるを得ないとき、その11日後の亀岡市の事故の罪を別問題として、祇園の事故の罪だけを憎むことは背理です。しかし、歴史の経験に学んだ刑事司法制度からは、現に起きている事故を目の前にしても、「死を無駄にしない」という形の思考は生じません。大事件によって悪法を作らないためには、死を無駄にするほうが望ましくなります。

 政治的な賛否両論に持ち込めない絶句と沈黙は、すぐに議論が転じます。そして、例によって長続きしないものと思います。この事故に関しては、集団登下校の問題、歩道整備の問題などが真面目に論じられていましたが、1年前の栃木県鹿沼市の事故の際の「喫緊の課題」の再現に過ぎなかったと思います。今回のような無免許の居眠り運転での事故は、歩行者がどう頑張っても避けられません。歩道に乗り上げ、ガードレールも突き破り、集団登下校であろうがなかろうが歩行者の人生は一瞬で終わります。原因の99パーセント以上を占める部分には白旗を揚げつつ、1パーセント以下の部分を熱く議論しては冷めることの繰り返しだと思います。

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