犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その1

2012-04-13 23:34:11 | 国家・政治・刑罰

 弁護士は、無罪判決の獲得を勲章のように誇り、不快な思いをさせられた警察官・検察官・裁判官の悪口を仲間内で言い合ううちに、そのような環境が全てとなるものと思います。そして、それ以外の考え方が存在し得なくなるのも、無理からぬことと感じます。刑事弁護に対する社会一般の感覚がどのようなものか、弁護士になった後も昔の感覚を絶えず手放さないでいるようであれば、その弁護士は仕事の遂行に支障が生じているはずです。

 弁護士に限らず、人は自分の考えのほうが世間からずれているとは認めたくないものであり、ずれているのは常に周りのほうです。深夜まで被告人のために頭をひねって苦しみ、終電も逃して事務所に泊まり込み、体を壊してまで職業人としての義務を尽くしているにもかかわらず、内情を知らずに刑事弁護を非難している人は、「物事を正しく理解していない愚かな人達」ということになります。このような弁護士が集まって団体を作れば、その考え方が正しくないわけがなくなります。

 私は、法律実務の業界を具体的に知るまでは、殺人事件の刑事裁判で顔を真っ赤にして主義主張を繰り広げる弁護団が、単純に理解不能でした。あれは演技なのだ、本当はこのような弁護など嫌だと思いながら渋々やっているのだろう、と思いたい節もありました。そう思わなければ、この世で人間が拠って立つべき善悪の基準が崩れ、人は何のために法律を作ったのか解らなくなるからです。ところが、法律実務に就いてみると、弁護団は恐ろしいほど本気でした。私の理解は混乱を極めました。

 真剣に無罪を主張して最高裁まで争う刑事弁護人は、実際のところどのような考えを持っているのか。刑事弁護人は、被告人が無実で潔白であると心底から信じているのか。そして、有罪・無罪にかかわらず亡くなった被害者の存在を、1人の人間としてそこまで無視できるものなのか。今日の木嶋佳苗被告の死刑判決と、被告弁護側からの即日控訴の報道を聞いて、自分の経験から思いついたことを書きます。

(続きます。)

京都祇園暴走事故

2012-04-12 23:45:43 | 時間・生死・人生

 世の中で語られるほとんどの言葉は、「人はある日突然交通事故で命を落とすことはない」という前提に基づいて語られており、この前提を崩されると何も言えなくなります。従って、生きている者が世間の常識に従って日常生活を送るためには、想像を絶する事故は解釈ができる形に捉え直し、内心で処理する必要に迫られるものと思います。この処理さえ必要としない者は、「人は普通は交通事故では死なない」という安全神話に洗脳されている状態だと思います。

 私の個人的な直観は、法律に携わる仕事をしている者としては失格というべきものです。普通に街を歩いていた多数の人が突如として亡くなったという事実の前には、事故の詳細や運転手の状態は大した問題ではないと思います。てんかんの発作であろうと、飲酒運転であろうと、失われた命の重さに差がつくわけではありませんし、交通ルールに従って道を歩いていた被害者がただただ可哀想でなりません。なぜこの社会はこのようなことになっているのか、不条理で歯がゆい気持ちだけです。

 昨年4月、栃木県鹿沼市で運転手のてんかん発作により6人の小学生が死亡した事故を受けて、祇園の事故の2日前の4月10日、危険運転致死傷罪の適用拡大などの法改正を求める約17万人分の署名が法務大臣に提出されていました。これに対し、日本てんかん協会からは、法務大臣宛てに「刑法および運転免許制度に関する要望書」が提出されています。これは、病名による差別や、社会から患者への偏見が助長されることのないように求める内容とのことです。

 一方では人の死の事実を通じて人の命が語られ、他方では差別や偏見の問題を通じて人の命が語られるとき、そこには絶望的な断絶が生じるように感じます。死者においての命の意味は、一旦は確かにこの世に生まれて生きていたことの理由です。その人がなぜ生まれたのかと問われれば、これは「てんかん患者への差別や偏見を助長させるため」でもなければ、「差別や偏見を解消させるため」でもあり得ません。事故の原因がてんかんの発作であったか他の原因であったかは、失われた命の側の問題ではなく、話は全く噛み合っていないと思います。

 事故に関するあらゆる立場からの議論は、その意見が真実あることを前提として争われるものですが、生き残った者の優越感と後ろめたさの微妙な心情を手放している限り、そのような真実は、時と場所によって真実であったりなかったりする程度のものだと思います。時と場所を問わずに真実であれば、それは事故の現場でも真実でなければならず、事故直後の死者や家族に向かって語ることも可能でなければならないはずだと思います。私は、そのような真実の言葉の存在を知りません。

 容疑者死亡で書類送検・不起訴という定型的処理に対する虚しさは、「刑事裁判の制度は被害者のためにあるのではない」という論理に逆らって、刑事裁判の役割を示しているように思います。容疑者は死をもって罪を償ったと捉えられなければ、「犯人が死刑になればそれで満足なのか」といった挑発も的を外します。容疑者の死によって真相は不明となりましたが、何年もの裁判を経たところで真相は混沌とするものであり、問題は真相解明の有無ではないと思います。ただただ人生は不条理で不公平であり、人間が作った法制度はそれを確認し得るのみと思います。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その6

2012-04-08 23:03:44 | 時間・生死・人生

 人が特定の立場に立てない場合、その中心にあるのは穴です。穴は死者の別名であり、ここで「死者の無念」と言えば嘘になります。この部分を言葉にしようとしても、言葉になり得ないものと思います。すなわち、苦心して文字にした瞬間にそれは嘘となり、他者から見れば理解不能か、あるいは単に感傷に浸っているようにしか見えないと思います。そして、この嘘を嘘と知って語り続けることは虚しさと体力の消耗を伴い、他者には伝わらないまま、嘘を嘘と知らずに語られる言葉に覆われるのだろうと思います。

 私は、人の話す言葉そのものに関わる仕事で飯を食っているという偽善的な矜持から、言葉を有する人間が書くに値する言葉を書くとすれば、この死者の別名である穴の部分しかあり得ないとの直観があります。直観ではありながら、経験則に基づく結論でもあります。この部分の論理は、非常な厳密さを要求され、妥協の余地はないものと思います。但し、この厳密さは文字にできないため、言葉を技術的に定義する法律実務の場では相手にされません。私は仕事上、そのような場面を多く見せられてきました。

 法律の思考は、言葉の意味を厳密に捉え、論理操作を行う方法論です。法律家が条文の一言一句の解釈に命を賭けなければならないのは、その解釈次第で実際に死刑と無罪が分かれるからです。この種の言葉の厳密さが力を込めて語られるとき、私はそのような意味での言葉のプロを心底から軽蔑します。死刑と無罪を分ける厳密な論理は、「死者の無念は察するに余りある」の先には進めず、「遺族の処罰感情は激烈である」の先にも進めず、嘘を嘘と知らずに真実を語るものと思います。

 悲惨な事件や事故において、日常言語のルールが「被害者」「被害者遺族」という立場を設けるとき、ここから生じるのは紋切り型の固定観念であり、例によって悲劇のヒーローとヒロインが登場するお涙頂戴のお芝居が展開されるのみです。「通夜がしめやかに行われた」「会場は深い悲しみに包まれた」との報道によって、「ここは泣くところですよ」と指示されれば、誠実な人間は泣くことができないはずだと思います。このような劇場の台詞と、言語の限界に突き当たって語られる嘘が混同されるのは虚しいことです。

 上記は、埼玉県東松山市の足場倒壊事故の報道を契機に、この種の事故に対する私の日常的な感想をグダグダと書いただけのものです。もとより建設的な提言は何もありません。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その5

2012-04-07 23:43:55 | 時間・生死・人生

 私が音声言語を文字言語に変換する職務を遂行する過程において、多数の方々と対面して再認識したのは、人間のほとんどの言葉が持つ一定の方向性でした。それは、互換性のある人間存在から個々の立場を論理的に導くものではなく、その唯一の立場の中心性から他の立場の周辺性を志向するという磁力のようなものでした。そして、この力は、実生活に根ざした迫真性のある言葉であろうと、小賢しい机上の空論であろうと、人の言葉には同様に備わっていました。

 社会とは、人間の集まりの別名に過ぎませんが、その別名に過ぎないものが改めて社会と呼ばれるとき、それは人々のそれぞれの思惑が複雑に絡み合う空間となります。いかに自己中心的な人間が醜くても、その醜さを告発するのは別の自己中心性でしかなく、いかに利他的な人間が尊くても、その尊さの発生点は自己中心性です。裁判においては証拠の隠滅や捏造、偽証や証人威迫が殊更に問題視されますが、大した問題ではないと思います。

 ある立場から発せられた音声言語は、その者によって中心点であるとされた点からの位置関係が明確であり、文字言語による写し取りの規則は定型化しています。これは日常言語のルールと全く変わりません。この事故に関して、私が「保育園の職員」「工事会社の社員」と書いているとき、個々の人間の考え方の差異は無視して一般化し、かつそれ以外の場所(家庭など)における立場は無視しています。逆に、「園児の親」と書いているとき、それ以外の場所(会社など)における立場は無視しています。

 日常言語のルールは、「被害者」「被害者遺族」という立場を設け、これによって他の立場の中心点からの距離を測り、位置関係を定めます。法律の専門用語は精密に定義を行いますが、その定義自体が日常言語のルールに則っており、この外に出るものではありません。そして、民事裁判は所詮はお金の問題であり、刑事裁判は所詮は刑罰の問題であり、人々のそれぞれの思惑が複雑に絡み合う社会の空間における争いです。そして、そのことが、問題の入口を逆にしているように思います。

 私が裁判の現場に携わり、音声言語を文字言語に変換する職務に従事してきて感じたことは、「被害者」「被害者遺族」はいかなる意味でもここに言う「立場」「中心点」ではなく、「思惑」を有することはあり得ないという事実でした。

(続きます。)

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その4

2012-04-05 23:37:30 | 時間・生死・人生

●他の園児の親の立場

 園児の親が緊急連絡を受けた瞬間の関心は、間違いなく、「自分の子は無事なのか」という点のみに集約されます。「他の園児はどうでもいいのか」と言われれば、その通りだと思います。「自分の子供さえ大丈夫なら良いというのは自分勝手である」と怒られたところで、そのような机上の空論は、実際の人間の心の動きの前には意味がないと思います。仮に100人のうち99人が犠牲になっても、自分の子供は残りの1人でなければならないはずです。

 物理的に計測される時間の流れと、社会的に生じる風化とは別の言語規則に則っており、事件や事故の風化の原因は、単に多勢に無勢という力関係によって支配されているものと思います。自分の子は大丈夫だったという安心感は、一瞬の優越感を経たうえで、生き残ってしまった後ろめたさの心情をもたらすものであり、これは人間として自然なことです。但し、後ろめたさを感じる必要はないという実利的な判断が優勢になるのもあっという間だと思います。

 「いつまでも忘れない」と確約した人々が、本当に責任を持っていつまでも忘れないでいるかどうかを検証してみれば、古今東西を通じて惨憺たる結果が生じるものと思います。もちろん、「いつまでも忘れない」との決意は、事故から間がない時には心底からの自発的意志に基づいているはずです。ところが、自分の子は自分の子であり、他人の子は他人の子である以上、これは時間の経過とともに過大な負担となるものと思います。この重さによる苦痛こそが、風化の原動力であると感じます。

 一旦は生き残ってしまった後ろめたさの心情を持った者において、その状態が容易に維持できないとき、自己欺瞞に対する心の負担が最も減る場面は、被害者が元気に立ち直った姿を見たときです。これは、「立ち直ってくれないと困る」という暴力や、「近くにいると付き合いにくい」といった不快感と表裏一体のものだと思います。実際には、腫れ物に触るような気遣いを要するはずですが、「前向き」「止まない雨はない」「冬は必ず春となる」「絆」といった言葉が重宝されることになります。

(続きます。)

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その3

2012-04-04 23:25:40 | 時間・生死・人生

●保育士の立場

 現場で園児を引率していた保育士の事故の瞬間の思考を正確に述べようとすれば、「頭が真っ白になった」としか言えず、これが言語の限界だろうと思います。また、その瞬間の迫真性を担保するものは、その瞬間の精緻な分析ではなく、その瞬間の前後の時間との相関だと思います。すなわち、過去との関係においては、それまでの人生で積み上げてきた日常生活上の悩みごと、争いごとのレベルの崩壊です。未来との関係においては、崩壊した価値観と世間の常識との不一致です。

 「自分がもっと気をつけていれば事故は防げたかも知れない」「自分が殺したのだ」という自責の念は、激しい精神の消耗を招くものと思います。これは、目の前の仕事への誇り、遡ってこの仕事を目指してきた自分の人生、すなわち全ての過去を含むところの現在を破壊する自傷行為です。今の今まで生きていた園児が、何の罪もないのに今は生きていないという人命の儚さと死の不可解さに対する行き場のない心情は、人を当然に自傷行為に向かわせるものと思います。

 ところが、人は社会人である限り、このような倫理の問いを純粋に掘り下げることは困難です。このことは、生き残った後ろめたさを持つ者にとっては見逃せない真実であり、死者にとっては絶望だと思います。保育園の組織の論理としては、一職員が組織の意思統一を破って責任の所在や因果関係の存否を語ることは許されないでしょうし、社会通念からくる常識論は、保育士は同時に多くの子供に対して責任を負っている以上、1人の子供のみに感情移入することは無責任であるとの評価を下すものと思います。

 人間が社会人・組織人としての職責を全うするための精神力の強さの内実は、「全ての責任を引き受けた上で耐える能力」という机上の空論ではなく、「全ての責任を抱え込まない処世術の会得」であり、保身の欺瞞性から免れることは困難だと思います。自責の念によって精神を病む者に対しては、単に「健康管理がなっていない」との非難が向けられるのみであり、賞賛は与えられないのが経済社会の決まりごとだと思います。


●下請の社員の立場

 現場にいた業者の事故の瞬間の心情を正確に述べようとすれば、やはり「頭が真っ白になった」としか言えず、これが言語の限界だろうと思います。但し、保育士の場合とは異なり、自身の存在が全身的に揺さぶられるのはその瞬間ではなく、揺さぶられるのは将来であり、その間に解釈の生じる余地があるものと思います。これは、自身には責任がないことを正当化する論理の構築です。

 下請は元請の指示に従うしかなく、予算もないのに勝手に作業内容を変えることはできないとの業界内部の通念は、それに従った思考の枠組みを強制します。「なぜ危ないと思ったら元請に言わないのか」という非難に対する答えは、「言えるわけがない」以外にあり得ないものと思います。業界の内情も知らないのに、聞きかじりのニュースだけで非難するような意見は聞くに値しないということです。

 この世の全ては、命あっての物種です。人の命は重く、しかし人の命は儚く、人は死なないためには食べる必要があり、そのために人は仕事をします。ところが、「人が仕事をする際には常に安全第一を心がけ、1つ1つの作業の際には人命尊重を最優先にすべきだ」と言えば、現実離れした世間知らずの発想であるとして一笑に付されます。この笑いは、あくまでも自分の命は重く、しかもその命は失われていないことが前提です。

 人の命が危ないなどとは「言えるわけがない」という常識論の中で生かされているとき、そこは常態として人の命が失われる戦場であり、実際に人の命が失われたとしても、その非日常性に改めて驚くことは困難なのだろうと思います。生命と死の関係について頭ではわかっていても、心の奥底から上手く理解できていない状況において、人が言葉の本来の意味での謝罪や反省を行うことは困難です。これも死者にとっては絶望だと思います。

(続きます。)

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その2

2012-04-02 00:09:07 | 時間・生死・人生

●保育園の立場

 保育園の経営者が事故の報を受けた際の思考は、「とにかく事故の詳細を知りたい」という点に向かうものと思います。その動機は、保育園と工事業者のどちらに責任があるのかという事実確認の意志に基づいており、さらにその心の奥底には、自身に火の粉が降りかかるのか否か、被害者の園児の親に合わせる顔があるのか否かを見極める冷徹な視線があり、これらを払拭することは困難ではないかと思います。

 「大切な園児の命を預っている」という命題は、その命が他者に奪われたのか、それとも当方が奪ってしまったのかによって、正反対の力を生じます。これは、一般に述べられているところのリスク管理、アクシデントへの初期対応の問題に変形されるものと思います。保育園の経営者の地位にある者において、風評の悪化による将来の経営への懸念を考慮しないまま、1人の園児の生死に思考を集中させることは困難だからです。

 一般的な保育園の経営理念は、例えば「児童の心身の健やかな育成を図り、豊かな人間形成の基礎を培う」「1人ひとりの人格を尊重し、地域社会との交流を図りながら社会性のある人間性を育成する」といったものであり、このような事故に際しては、命が失われた現実との残酷なギャップが生じます。ここでは、事故によっても経営理念には傷が付いていないことが先ず確認されねばならないのだと思います。

 もっとも、このような事故に際して公式に語られるのは、経営判断そのものの言葉ではなく、「命の大切さ」であるのが通常です。これは、経営判断によって慎重に言葉が選ばれた結果だと思います。一般論としては、生命の儚さに打ちのめされる哲学的資質と、多数の幼い命を預かる経営者の資質との相性は悪く、この併存を長年にわたり維持することは困難であろうと思います。


●元請業者の立場

 元請会社の経営者が事故の第一報を聞いた瞬間の心情は、問題を早く穏便に済ませたいという以外にないと思います。また、本音のところでは、運が悪かったという不当感から逃れることは難しく、何をどう反省して謝罪するのか、ポイントが上手く掴めていないものと思います。「強風によって足場が倒壊することが予見されたにもかかわらず措置を怠った」という紋切り型の法律論には反射的な異議を生じるだろうとも思います。

 これも私の狭い仕事上の認識に過ぎませんが、昨今の請負会社が施工主から受けるコストダウン・人員削減・工期短縮の圧力は大きく、仕事を回してもらうために安全を犠牲にせざるを得ない風潮には抗い難いと聞きます。経済全体の構造の問題が関係している中で、弱い立場にある業者に対して手抜き工事であるとして道徳的な非難が浴びせられれば、まずは不当感が先に立ちます。人は、このような感情を持つ限り、「自分の会社の足場が人の命を奪った」という現実の意味は上手く頭に入って来ないだろうと思います。

 企業の社会的信用という問題意識から入る限り、組織を中心に生きる者の思考は全て組織人のものとなり、1人の人間としての思考はできなくなるのが通常だと思います。事故への対応などというものは企業の本来の仕事ではなく、突如入り込んできた異物であり、後ろ向きの問題に足を引っ張られている状態です。ここでの切実な問題は、会社の倒産、社員の失職及びその家庭の崩壊といった波及的効果です。

 本来、人間が世間擦れしていない状態では、身内でなくても命の重さや死の重さをそれ自体として捉える能力があり、「悼む」という行為の意味を理解することが可能だと思います。ところが、経済社会においては、かような理解は世間知らずとして嘲笑の対象ともなりかねません。このような事故において、元請会社の経営者が人命の重さを肌で感じる方法は、会社に生じた危機の大きさに苦しむことしかないのだろうと思います。

(続きます。)

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その1

2012-04-01 23:49:53 | 時間・生死・人生

3月24日  mns産経ニュースより

 埼玉県東松山市のマンション改修工事現場で、足場が倒壊して保育園児2人が死傷した事故で、亡くなった北村波琉人ちゃん(6)の通夜が24日、ときがわ町玉川のJA埼玉中央西部セレモニーホールでしめやかに行われた。
 祭壇には、赤いダウンジャケットを着てほほ笑む波琉人ちゃんの遺影が飾られ、会場は深い悲しみに包まれた。読経が流れる中、親族に続いて波琉人ちゃんが通っていた保育園の園児や保護者らも焼香を行い、冥福を祈った。

 通夜の後、波琉人ちゃんの父、伸明さん(42)が記者団の取材に応じ、「事故以来、心の中にぽっかり穴が開いてしまった。まだ気持ちの整理がついていないが、波琉人を悲しませないため、家族で力を合わせ前に進んでいきたい」と涙ながらに語った。
 通夜には、工事を請け負った業者らの姿もあったが、遺族らは焼香を拒否し、通夜が終わるまで外で土下座していた。


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 私はこれまでの仕事の中で、このような事故の裁判に日常的に接してきました。そこでは、人の言葉をそのまま書き取る供述調書、人の言葉の言葉にならない部分を引き出して書く陳述書、あるいは人の言葉が人に嘘をつかせる特質を最大限に利用した準備書面など、このような事故に関する文章を書くことを職務としてきました。

 自身の職務の遂行にあたり、私は様々な人の立場に立たされ、その自己中心性に強制的に引っ張られ、自分自身の立場が不在となり、本音と建前の文法法則に支配されてきました。このような事故は、生き残った者の防衛本能が最も敏感になる場面であり、人は言葉によってしか考えを考えることができない以上、人間は嘘と知らずに嘘ばかりを語ることになります。

 この事故の報道に接して私が考えたことを、普段の仕事の中で感じていることと合わせて書きます。

(続きます)