犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その4

2012-04-05 23:37:30 | 時間・生死・人生

●他の園児の親の立場

 園児の親が緊急連絡を受けた瞬間の関心は、間違いなく、「自分の子は無事なのか」という点のみに集約されます。「他の園児はどうでもいいのか」と言われれば、その通りだと思います。「自分の子供さえ大丈夫なら良いというのは自分勝手である」と怒られたところで、そのような机上の空論は、実際の人間の心の動きの前には意味がないと思います。仮に100人のうち99人が犠牲になっても、自分の子供は残りの1人でなければならないはずです。

 物理的に計測される時間の流れと、社会的に生じる風化とは別の言語規則に則っており、事件や事故の風化の原因は、単に多勢に無勢という力関係によって支配されているものと思います。自分の子は大丈夫だったという安心感は、一瞬の優越感を経たうえで、生き残ってしまった後ろめたさの心情をもたらすものであり、これは人間として自然なことです。但し、後ろめたさを感じる必要はないという実利的な判断が優勢になるのもあっという間だと思います。

 「いつまでも忘れない」と確約した人々が、本当に責任を持っていつまでも忘れないでいるかどうかを検証してみれば、古今東西を通じて惨憺たる結果が生じるものと思います。もちろん、「いつまでも忘れない」との決意は、事故から間がない時には心底からの自発的意志に基づいているはずです。ところが、自分の子は自分の子であり、他人の子は他人の子である以上、これは時間の経過とともに過大な負担となるものと思います。この重さによる苦痛こそが、風化の原動力であると感じます。

 一旦は生き残ってしまった後ろめたさの心情を持った者において、その状態が容易に維持できないとき、自己欺瞞に対する心の負担が最も減る場面は、被害者が元気に立ち直った姿を見たときです。これは、「立ち直ってくれないと困る」という暴力や、「近くにいると付き合いにくい」といった不快感と表裏一体のものだと思います。実際には、腫れ物に触るような気遣いを要するはずですが、「前向き」「止まない雨はない」「冬は必ず春となる」「絆」といった言葉が重宝されることになります。

(続きます。)