犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都祇園暴走事故

2012-04-12 23:45:43 | 時間・生死・人生

 世の中で語られるほとんどの言葉は、「人はある日突然交通事故で命を落とすことはない」という前提に基づいて語られており、この前提を崩されると何も言えなくなります。従って、生きている者が世間の常識に従って日常生活を送るためには、想像を絶する事故は解釈ができる形に捉え直し、内心で処理する必要に迫られるものと思います。この処理さえ必要としない者は、「人は普通は交通事故では死なない」という安全神話に洗脳されている状態だと思います。

 私の個人的な直観は、法律に携わる仕事をしている者としては失格というべきものです。普通に街を歩いていた多数の人が突如として亡くなったという事実の前には、事故の詳細や運転手の状態は大した問題ではないと思います。てんかんの発作であろうと、飲酒運転であろうと、失われた命の重さに差がつくわけではありませんし、交通ルールに従って道を歩いていた被害者がただただ可哀想でなりません。なぜこの社会はこのようなことになっているのか、不条理で歯がゆい気持ちだけです。

 昨年4月、栃木県鹿沼市で運転手のてんかん発作により6人の小学生が死亡した事故を受けて、祇園の事故の2日前の4月10日、危険運転致死傷罪の適用拡大などの法改正を求める約17万人分の署名が法務大臣に提出されていました。これに対し、日本てんかん協会からは、法務大臣宛てに「刑法および運転免許制度に関する要望書」が提出されています。これは、病名による差別や、社会から患者への偏見が助長されることのないように求める内容とのことです。

 一方では人の死の事実を通じて人の命が語られ、他方では差別や偏見の問題を通じて人の命が語られるとき、そこには絶望的な断絶が生じるように感じます。死者においての命の意味は、一旦は確かにこの世に生まれて生きていたことの理由です。その人がなぜ生まれたのかと問われれば、これは「てんかん患者への差別や偏見を助長させるため」でもなければ、「差別や偏見を解消させるため」でもあり得ません。事故の原因がてんかんの発作であったか他の原因であったかは、失われた命の側の問題ではなく、話は全く噛み合っていないと思います。

 事故に関するあらゆる立場からの議論は、その意見が真実あることを前提として争われるものですが、生き残った者の優越感と後ろめたさの微妙な心情を手放している限り、そのような真実は、時と場所によって真実であったりなかったりする程度のものだと思います。時と場所を問わずに真実であれば、それは事故の現場でも真実でなければならず、事故直後の死者や家族に向かって語ることも可能でなければならないはずだと思います。私は、そのような真実の言葉の存在を知りません。

 容疑者死亡で書類送検・不起訴という定型的処理に対する虚しさは、「刑事裁判の制度は被害者のためにあるのではない」という論理に逆らって、刑事裁判の役割を示しているように思います。容疑者は死をもって罪を償ったと捉えられなければ、「犯人が死刑になればそれで満足なのか」といった挑発も的を外します。容疑者の死によって真相は不明となりましたが、何年もの裁判を経たところで真相は混沌とするものであり、問題は真相解明の有無ではないと思います。ただただ人生は不条理で不公平であり、人間が作った法制度はそれを確認し得るのみと思います。