犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都府亀岡市死傷事故 その1

2012-04-26 23:52:21 | 国家・政治・刑罰

 京都府亀岡市の府道で10人が死傷した事故のニュースを聞き、私が瞬間的に感じたのは、その11日前に同じ京都府の祇園の事故で亡くなった方が全く浮かばれず、神も仏もなく、破壊された価値観がさらに破壊されたということでした。また、目の前の出来事から学ばない者は誰が何を言っても学ぶことがなく、学ぼうとする者はその虚しさに苦しみ、なぜか社会はいつもこのような形になっているのだと再認識させられました。これは、交通死亡事故に接したときの独特の虚しい感覚であり、私が法律を学び始めてから常時感じ続けているものです。

 私は大学院で刑事政策学を専攻し、交通事犯についても色々と文献を調べて研究し、論文らしきものを書いていました。社会奉仕命令などの刑罰論から道路整備の政策論まで、切り口は様々でしたが、論文を締めるに収まりのよい決まり文句がありました。それは、「事故防止のため様々な施策は重要であるが、何よりも大切なことは、ドライバーの人命尊重の意識なのである」というフレーズです。私はこのような論文を書いては悦に入り、学者の抽象論に深入りして抜けられなくなり、ニュースで悲惨な事故を見ては冷水を掛けられ、自分は何の役にも立っていないことを思い知らされていました。

 私はその後、刑事裁判の実務の世界に入り、定期的に交通死亡事故の法廷に立ち会うようになりました。被告人は、「今後は二度と法を犯しません」と誓い、被害者の家族に反省と謝罪の弁を述べ、裁判所に対しては寛大な刑を求めます。これに対し、被害者の家族は、被告人が二度と法を犯さないことを望むのではなく、二度とこのような悲しい出来事が起きない世の中であってほしいと望みます。刑事裁判の法廷では、「二度と」という言葉がよく聞かれていましたが、その意味は残酷にも語る者によって食い違っていました。そして、私はこの食い違い自体に慣れ、鈍感になり、内心忸怩たる思いに苛まれていました。

 私は、大学院生として理論の世界に生きようとも、裁判所書記官として実務の世界に生きようとも、交通事故で亡くなった人の存在を忘れ、あるいはその人が存在したことを忘れない家族の存在を忘れるようであれば、そのような職務に従事する意味がないとの確信は失っていなかったと思います。ところが、現実には学内政治や人事異動のほうが重大な問題となり、「司法制度に対する国民の信頼」「社会正義の実現」といったお題目を無反省に喧伝し、無数の死者の踏み台にして平然と生きていました。これには、交通事故をゼロにするなど土台無理なことだという虚脱感の影響もありました。

 利己的な理屈ばかりが飛び交う世間において、筆舌に尽くしがたい交通事故の報道に接して私が思いつき得る言葉は、法廷で何回も聞いてきた言葉と同じです。すなわち、「二度とこのような悲しい出来事が起きない世の中であってほしい」と願うのみです。これは無意味な要求であり、底なし沼を埋めるような虚しさを伴うものですが、そもそも交通事故による死は間違いであり、何らかの意味付けは無効である以上、無意味は無意味であるしかないように思います。もし、二度と悲しい出来事が起こらないことが何らかの価値であれば、その死には意義が認められてしまい、命を失うことが正義になってしまうからです。

(続きます。)

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