犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その2

2012-04-14 00:07:10 | 国家・政治・刑罰

 刑事弁護の仕事と、民事弁護の仕事とは、理屈の上では全く別のものです。ところが、弁護士は実際には100件以上の事件を同時に担当しており、数時間のうちにも刑事の案件と民事の案件とを並行して処理しています。そして、依頼の数としては民事事件が圧倒的に多数であるため、事務処理の実務感覚や依頼者への接し方は、民事事件の経験が基礎になっているものと思います。人間が語る言葉に対する職業人としての解釈を行うとき、それが刑事事件に際しての言葉であっても、同時に多数を占めている民事事件からの影響を受けざるを得ないということです。

 民事裁判は、お金の貸し借り・離婚・相続・労働問題など多種多様であり、人生を賭けた人間のギリギリの本性を現さざるを得ない場面です。そして、客観的な事実は1つであるはずなのに、原告側が説明する客観的事実と、被告側が説明する客観的事実とは異なります。このような経験を積むうちに、弁護士が依頼者の言葉を聞く際の心得は定型化してくるように思います。「依頼者は嘘をつく」、「依頼者は自分に都合の良いことしか言わない」、「依頼者は自分に不利なことは隠す」、「依頼者は思い込みでものを言う」等々です。これらは、人間の言葉に対する懐疑的な視線です。

 依頼者の言葉を全面的に信用し、親身になって闘う弁護士は、多かれ少なかれ、裁判所や相手方弁護士の前で恥をかかされます。依頼者の言葉を基に長時間をかけて積み上げられた主張が、相手方からの証拠1枚で覆されたとき、その弁護士に向けられる視線は「調査不足」「能力不足」です。ここで、「依頼者は嘘をつくものだ」との割り切りができず、自分の職務怠慢であるとして抱え込んでしまえば、人は右往左往して燃え尽きます。弁護士として限られた時間を切り売りしつつ、何度か痛い目に遭ううちに、人は他者の言葉に対する独特の視角を取らざるを得なくなっていくように思います。

 世間の注目を浴びる殺人事件の刑事弁護も、弁護士が処理中の案件としては、単に100件のうちの1件です。そして、依頼者は嘘ばかりつき、自分に不利なことは隠すのが大前提です。依頼者であるところの被告人に関して、弁護人は被告人の無実を本気で信じているのかと問われれば、これは「どちらとも言えない(話半分)」と答えるのが正確だろうと思います。すなわち、問題自体が解決されないまま解消されている状態です。法治国家で行われている刑事裁判は、善と悪、罪と罰、過ちと償いといった本来の制度趣旨からは、かなり離れたところを扱っているように思います。

(続きます。)

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