犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある過労死の裁判の裏表

2010-04-23 21:59:46 | 実存・心理・宗教
某団体の機関紙より

 29歳の未来ある青年が急性心筋梗塞で亡くなってから早くも2年が経った。その間にも、日本の労働環境は改善の兆しを見せない。企業が今なおグローバリゼーションの流れに便乗し、リストラを断行しているのが全ての元凶である。人件費は削減しても業績は落とすな、というのが企業の立場である。彼の勤めていた会社は、リストラの成果もあって今期200億円の黒字が見込まれると報じられている。このようなことが到底許されるはずがない。

 青年の母親は、彼の名誉を賭けて会社を提訴した。企業の役員は、投資家への評価を何よりも重要視するため、労働者に対する配慮は二の次となる。そして、仕事に真面目に取り組もうとした彼にとっては、長時間の残業は当たり前となっていた。会社のために尽くした者が、会社のために犠牲者となるのである。このような不正義が許されてよいはずがない。過労死の絶滅、そして労働者および労働組合の地位向上をめざす闘いに、大きな火の手が上がった。

 第3回口頭弁論期日には、あいにく母親は体調不良で傍聴することができなかったが、我々は彼女の意志を熱く受け止めて戦いに臨んだ。この闘いがいかに大切であるかを再認識し、勝利を勝ち取るまで戦い抜く覚悟である。


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その母親から聞いたこと

 過労死の何よりの防止は、周囲の者が危機を察知したときには、何がどうあろうとも力ずくで仕事を休ませることだと聞かされます。これは結果論であり、命を落としてからでは手遅れです。息子の危機を察知していながら仕事を休ませなかった私は、一生涯かかっても償い切れない罪を背負いました。私の裁判を支援して下さる方々からは、自分を責める必要などない、責められるべきは会社なのだと口を酸っぱくして言われます。しかし、私にはその言葉がピンと来ません。面倒なので、最近は黙って頷いています。

 あの電話を受けた日のあの瞬間が、今も凝縮されたまま私の全身に染み付いており、ふとしたきっかけで怒りと悲しみが込み上げてきます。死にたくなかったでしょう。私はその後、世間が華やかな雰囲気で盛り上がっている時、どうでもいいという気持ちで顔を背けています。何を見ても白けています。最初の1年くらいは、過労死の絶滅のための活動に打ち込むことで気が紛れていました。しかし、徐々に悲しみが深く静かに沈んでいるような感覚になり、最近は、何かのために戦うということ自体が虚しくなってきました。

 裁判は会社に損害賠償を求めるものであり、私は息子の命に値段をつけて戦っています。金額が安いといって争っているのは、私が息子の死を受け入れていることに他なりません。しかし、私は息子の死を受け入れていないことに気がつきましたので、これからは裁判には行きません。


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どうしたものでしょうか。