犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

4月1日の新聞記事から

2010-04-01 23:58:40 | 国家・政治・刑罰
 4月1日の夕刊に、紙面を二分する大きな記事が載っていました。1つは、新年度の各社の入社式の記事です。世界的な金融危機の中で就職を決めた新社会人に、経営者から励ましの言葉が送られたという内容でした。「一人ひとりが意見をしっかりと持ち行動することが必要」「国民の信頼を取り戻していく事業展開に心を砕いていかなければならない」といった社長の訓示も紹介されていました。
 先が見えない不況の中で、何十社受けても就職が決まらないという現状においては、「やりがい・誇り」との関連で仕事を捉える余裕がなくなり、仕事があるだけでも恵まれているという論調が目立ちます。そこには、人間の精神面の価値が下がり、食べていくためには他人の心の痛みや自分の良心の呵責に対する鈍感さを身に着けなければこの社会を生き抜けない現実が示されているようにも思われます。

 新入社員が希望にあふれる純粋な言葉を語ることができるのは、恐らく入社式から数日間だけでしょう。現に年間3万人以上の自殺が10年も続いている我が国の現状では、各社の入社式に参加していた人のうち、間違いなく数年間のうちに少なからぬ人が命を落とすと考えるのが自然です。会社とは理不尽な場所であり、特に近年は地獄のような現場の話も耳にします。
 仕事に「やりがい・誇り」を感じて会社に尽くし、連日深夜までサービス残業をし、休日出勤もこなした結果、過労で体調を崩し、「社会人としての健康管理がなっていない」と怒られた。さらに無理を押して長時間労働をした結果、睡眠不足で集中力を欠いて1つのミスをし、「使えない社員はいらない」と叱られて給料を下げられた。それでも会社のために頑張り、ついに限界に達して病気休暇の申請をしたところ、「仕事をなめているとしか思えない」と怒鳴りつけられ、書類を顔面に投げつけられた。
 これは、私が以前担当していた過労自殺の裁判です。この裁判は、上司・同僚の言動と自殺との因果関係がないとして、原告の遺族は敗訴となりました。

 4月1日の夕刊のもう1つの記事は、警察庁が足利事件に関する栃木県警の捜査の問題点を検証し、報告書にまとめたというものです。問題点としては、DNA型鑑定結果の過大評価、容疑者への迎合の可能性の留意が欠けたこと、自白の裏付けが不徹底であったことなどが挙げられていました。
 ここには、上記の問題点の大前提となっている要素が除かれているように思います。それは言うまでもなく、「絶対に犯人を逮捕しなければならない」「犯人の逃げ得を許しては被害者が浮かばれない」という人間の強い信念と、それに基づく警察官の仕事に対する情熱です。そして、この要素を「問題点」として捉えるか否かによって、事態は正反対の様相を呈してくるようです。
 この要素を問題点として捉えないのであれば、捜査のミスによって真犯人の逮捕が不可能になり、事件の解決ができなくなったこと最大の問題となるように思います。これに対して、上記の要素を問題点として捉えるならば、真犯人が逮捕されようとされまいと、無実の者に有罪判決が下されたことが最大の問題となるように思います。

 法律学においては、「犯人を絶対に逮捕しなければならない」という警察官の強い信念については、公権力の危険性との関連において、消極的な評価を与えられているのが通常です。この評価の延長線上には、「殺された被害者の無念」や「被害者遺族の悲しみ」があります。そこでは、冤罪事件を生む温床として、何よりも犯人を絶対に逮捕しなければならないという信念、さらには被害者に対する同情が負の要因として上げられてきます。
 足利事件においても、この視点からの反省・再発防止策を検討してみれば、別人を誤認逮捕してしまうような捜査はすべてが無駄で、何もやらないほうが良かったという結論に至るものと思われます。書類の山と格闘した人も無駄、働きすぎで心身の健康を害した人も無駄、外食ばかりで命を縮めた人も無駄、家族サービスを顧みずに家庭不和となった人も無駄、部下を怒った上司も無駄、上司に怒られた部下も無駄です。
 栃木県警が菅家利和さんに謝罪できなかったのも、人は自らの仕事に「やりがい・誇り」を持つことによって人間の価値を保っており、これを他人から「反省・再発防止策」として位置づけられてしまえば、精神的に生きて行かれないという点と関連しているように思われました。