犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

塩野七生著 『再び男たちへ』より

2010-04-28 00:05:52 | 読書感想文
p.266~ 「善と悪」より

 破壊は善人には最も不適な行為である。善人は、自己の利益を考えないで他者の利を重んずるのが特質だから、改革のための破壊とわかっていても、ついつい不徹底になりやすい。しかも、残念なことに善人は、時代を先取りする大改革に参加しないだけではなく、しばしばそれをはばむほうにまわったという歴史上の事実までつきつけられると、私などはまたまた頭をかかえるしかないのだが、なぜそうなってしまうのか。もしかしたらそれは、善意というものが、眼前のものに向けられることによってこそ発揮されやすいという性質をもつゆえではないかと思いはじめている。

 これに反して悪は、自己の野望達成を目標とする以上、いきおい視線ははるか彼方にそそがれる。眼前に向けられる悪では、小悪にすぎない。そして、眼前にあるものを壊さないことにはなしとげられないのが大改革であるならば、善がそれをはばむ側にまわってしまうのも当然ではないか。それなのに現状では、大改革をするに絶好な激動期には社会主義が叫ばれて大悪をつぶし、それが一段落して世の中が落ちつくや、小悪がはびこるのだから絶望させられる。望ましいのは、変革期には大悪が活躍し、平穏な時期には善が支配することではないだろうか。

 しかし、世の中はなかなかこのようには進んでくれない。なぜなら、改革期に必要な「悪」を「善」が許さないからである。この場合の善を知識人やマスコミとするのは、歴史では常に、この種の悪を糾弾してきたのが彼らであったからだ。その理由がなんとも小市民的であるのも、これらの人びとの体質を示しているような気がする。いわく、私利私欲によるがゆえに許せない。いわく、周囲に集まる人間が劣悪だ。良質の人びとはその善意ゆえに、協力するどころか彼を糾弾してやまない。


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 小悪に対して善をもって対処する場合に頼られるのが、「人間の尊厳」という単語だと思います。人は誰しも平等であり、いかなる悪人であっても人間として存在するだけで尊いという理念です。しかしながら、この理屈は、善が小悪に対処する場合の偽善においてのみ通用し、大善に通じる大悪には太刀打ちできないように思われます。少なくとも、「人間の尊厳」を失っていることを本人自身の言葉において示される場合、この小悪に対して善をもって対処するのは徒労であり、善は世の中への絶望を導くに過ぎないでしょう。

 私は、「人間の尊厳」の理念を何の疑問もなく語る人々を、少々おめでたいと感じています。これは、本人自身によって「人間の尊厳」を失っている者への軽蔑の念でもあり、その者に対して「人間の尊厳」を付与して恥じない者への軽蔑の念でもあります。もちろん私は小心者ですので、堂々と大悪をもって対抗することはできませんが、自分は善人ではなく、偽善者であることは忘れたくないと思っています。それは、眼前のものに対する善意によって自己を縛り付けることが、自分の良心を何かに売り渡し、結果として小悪に加担しているように思われるからです。

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2 コメント

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こんにちは。 (ゆく)
2010-04-26 10:29:19
後半のYさんの文章、感慨深く、そして今の私の身に沁みます。

Yさんのお考えを書いたものを、時々読み返すのですが、この記事もそうさせて頂くと思います。

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ゆく様 (某Y.ike)
2010-04-30 00:32:15
ありがとうございます。

私のほうも、「絶望は相対的にでなく自分の心の中で単独で起ってしまうものである」という格言に打ちのめされています。
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