犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小泉義之著 『レヴィナス―何のために生きるのか』

2010-04-05 23:42:38 | 読書感想文
p.16~

 生きながら生きることを拒む。生きることを拒みながら生きる。死ぬことを選ばないにしても、生きることを殊更に選ぶことなく、生きつづける。生きることは苦い重荷になる。この重荷は、どこからやって来るのか。レヴィナスは、「契約」からやって来るとする。私たちにはそんな契約を取り結んだ記憶はないが、おそらく記憶の始まり以前において、そんな契約を取り結んで、私たちはこの世界に生まれ落ちたのだ。
 倦怠・怠惰に陥った状態から振り返ってみるなら、その契約には、こんな言葉が書かれていたとしか思えない。〈お前にはやりたいこともやりがいのあることも与えられない。それでもお前は生きていかなければならない。お前には生きる意欲も生きがいも与えられない。人生の意味も人生の目的も与えられない。それでもお前は生きていかなければならない〉。


p.30~
 
 ほとんどの人生論は、人生の目的と人生の意味を自己実現や自己完成に求めている。今の自分とは違った自分、今の自分が肯定され直した自分、今の人生とは違った人生経路、今の人生経路が肯定され直した人生経路、それを探し求めるのが人生の目的と人生の意味であると結論している。それは間違えていない。というより、人間はいつでも、今の自分のために、別の自分のために、自己実現や自己完成のために生きてしまっている。これは単なる事実である。それでも、何のために、自分のために生きるのかと問いが立つことがある。
 倦怠・怠惰に陥った人間は、存在することを怖れている。生まれ落ちたときの契約に拘束されている。そこから脱出したいのだが、必ずしも自殺という道は選ばない。なぜか。おそらく、死を選んでしまうと、根源的な契約に違背することになると感じているからだ。加えて、あらかじめ注意しておきたいが、レヴィナスのいう「逃走の欲求」と「形而上学的欲望」は、死の希求ではないし、「死の練習」(プラトン)ではない。自殺に定位して死を考えたところで、生まれて老いて死んでゆく肉体の次元には決して届かないからである。


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 レヴィナスが述べるところの「契約」と、ホッブズ、ロック、ルソーによって述べられた「社会契約」との立ち位置の違いが、法律専門家と裁判の当事者との避けがたい行き違いを示しているように思われます。近代国家の法律や裁判制度は、すべて「社会契約」を具現化した憲法によって支配されており、レヴィナスの指摘する「契約」などには目もくれません。ゆえに、生きる意欲や人生の目的といった難題をぶつけられると、手に負えなくなるものと思います。

 社会契約論は、国家が成立する以前の社会の原始的な自然状態を仮定した上で、国家の正当性の契機を契約に求めるというフィクションです。そこでは、個人が自然的理性を発現させ、自然状態で有していた自然権を一部放棄して社会契約を締結したものとされます。ここから、民主政の根幹を支えるのは表現の自由であり、自己実現と自己統治の価値を有するという論理の流れになりますが、生きる意欲や人生の目的といった難題については手付かずのままだと思います。