犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

塩野七生著 『男たちへ』より

2010-04-25 23:12:20 | 読書感想文
p.14~
 ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自分の頭で考え、それにもとづいて判断をくだし、ために偏見にとらわれず、なにかの主義主張にこり固まった人々に比べて柔軟性に富み、それでいて鋭く深い洞察力を持つ男、ということになる。
 なんのことはない、よく言われる自分自身の「哲学」を持っている人ということだが、哲学と言ったってなにもむずかしい学問を指すわけではなく、ものごとに対処する「姿勢」を持っているかいないかの問題なのだ。

p.100~
 私にもひとつ、それさえ思えば泣けることがあった。それは数年前のことだったが、神経性胃炎を病んだ時期があって、さてはガンかと疑ったのである。問題は、9歳で残していかねばならない息子のことだった。少しでも暇になると、息子に告げる「永の別れ」を考えては、泣くのである。私の想像力による「永の別れ」は、それこそドラマティックでセンティメンタルで、それでいて押さえがきいていて、当の私自身を誰よりも酔わせる「傑作」だった。
 仮にあの時の胃炎が手遅れのガンであったとしても、実際に展開されたであろうシーンは、断然、非ドラマティックでセンティメンタルであったと確信している。おそらく涙の量も、ずっと控えめに流されたことだろう。そして、なによりも確実なのは、悲劇であっても、それは酔えない悲劇であったであろうことだ。厳たる現実ではないから、人は悲しみにも酔うことができるのである。

p.214~
 世の中の種々相は、全部とはいわないがその大半は、ツマラナイ現象であることが多い。これは趣味の問題で、好きか嫌いかしかないと思うのだ。だから、こういう現象を、いかにももっともらしい存在理由を探し出して「解説」した論文を読むと、ゾッとするのである。解説屋の仕事は、そのどこを斬っても、赤い血は出ない。彼ら自身の肉体も、どこを斬っても赤い血は出ないのではないかとさえ思われる。
 この種の男たちの特徴は、修羅場をくぐっていない弱みではないだろうか。常に頭の中だけで処理することに慣れたインテリは、体験をもとにした考えを突きつけられると、意外と簡単にボロを出してしまう。修羅場をくぐった体験をもつ者は、背水の陣でことにのぞむ苦しさも、また快感も知っている。
 こうなると、同じ一行の書き文字も、同じ一句の話し言葉も、そこに凝縮された「力」がちがってくる。要するに、迫力が断じてちがってくる。だから、それを読む人や聴く者の胸に、訴えかけてくるものが強いのだ。結果として、読んだり聴いたりした人は、みずからの血が騒ぐのを感ずるのである。


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 私は法律学を学び、殺人罪、強盗殺人罪、傷害致死罪といった数多くの判例を研究し、紙の上で「修羅場」をくぐり、判例の基準や言い回しを学んできました。その一方で、事実は客観的に捉えなければならず、具体的な現場のイメージを持って気持ちが悪くなるようでは法律家として失格だとも言われてきました。ですので、上記の塩野氏のような文章を読むと、冷水を浴びせられたような気になります。

 修羅場をくぐった者、修羅場の渦中にいる者の言葉は、そこに凝縮された「力」が違うというのは全くその通りだと思います。残る問題は、それを言葉にすることの困難さでしょう。
 それは第1に、言語の限界として、修羅場の瞬間はなかなか言葉で上手く表現できないという点に現れると思います。第2に、まとまった文章を集中して書くには大変な気力が必要であり、赤い血が出るような殺人罪の文章を書くには、書く側が命を削らなければ書けないという点に現れると思います。そして、ここではある程度の継続的な時間が必要であり、目の前の生活が最大の障害とならざるを得ません。
 インテリの判例評釈で血が騒いだことのない私の感想です。