犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

なぜ人は自ら犯した罪を認めないでいられるのか

2010-04-11 23:54:51 | 言語・論理・構造
 凶悪事件を犯し、容疑をかけられながらも白を切り通し、罪を免れた経験など、世の中の99パーセント以上の人にはないでしょう。しかしながら、社会生活の中で様々な悪事を働きつつ、最後まで知らないふりを通したという経験は、多くの人に日常的にあるものと思います。また、多くの人がこのような過去を持ちながら、そのこと自体を忘れて生活しているものと思います。私もそうです。
 素直に話せば気持ちが楽になるというのは、全くその通りで、言葉が物質でない物事を実体化するという特質に基づくものと思います。現に物質であるところの人間の肉体が、その問題となっている物事の周囲で動き出す以上、騒ぎが大きくならないうちに話しておかないと、ますます本当のことが話しにくくなります。現場における問題は「誰が犯人か」という一点に絞られており、その答えを知っているのは世界で自分だけという状態です。これは愉快でもあり、右往左往している周囲が哀れでもあり、それ以上に恐怖であり、嵐の中で身を潜めているしかないと思います。

 思い当たる節があるのならば、周囲の人々が自分を疑っていることは、非常に敏感に察知できるはずです。そして、周囲の人々が、「万一違っていたら後が大変だ」という保身から、物事を遠回しに言っている様子も手に取るようにわかるはずです。これは、「身に覚えがある者」だけの特権とも言うべきものです。
 自分は犯人ではないとムキになって反論すれば薮蛇になり、余計なことを言えば語るに落ちてしまいます。従って、想定される質問に対して答えを考える作業には、膨大な労力を費やさなければなりません。さらに、これを正当化するためには、世の中は正直者が損をし、ずるい人が勝つのだという庶民の知恵による補強も必要となります。ここでも、言葉が物質でない物事を実体化するという特質が表れており、自分自身に対する一種の洗脳を行わなければ、人はこの事態に耐え続けられないものと思います。いつも心のどこかが敏感にうずいており、夜も寝られなくなるようでは、堂々としらばくれる態度など取れないことでしょう。

 多くの人間にとって、なぜか一番避けられるべき結論は、動かぬ証拠を突きつけられて、それまでの弁解がすべて嘘だったと渋々認めざるを得なくなる状況だと思います。ゆえに、動かぬ証拠は絶対に隠さなければなりません。「嘘つきは泥棒の始まり」とは良くできた諺だと思います。ここでは、人間としてのプライドのみが問題となっており、最初の罪に対する反省などは問題とされなくなっています。
 話が大きくなっていない最初の頃に素直に話しておけば、犯した罪に対する反省は迫られるものの、その勇気に対する一定の称賛も得られたはずです。そして、その後の長期にわたる心労や、精神の消耗からも逃れることができたはずです。ところが、否認や弁解が積み重なると、ますます本当のことが言えなくなります。これは、否認や弁解を続けてきたことが失敗であったと認める自己否定であり、人間のある種のプライドが許さないことによるものと思います。このプライドは、良心の呵責などを簡単に凌駕し、腹を括る段階にまで人間の信念を方向付けているものと思われます。

 「身に覚えがある者」が腹を括る行為は、そもそもの最初の罪の悪質性を自分自身に認めてしまうことでもあります。いわば、「盗人にも三分の理」と言われるところの、その三分の理を述べる機会も自ら放棄することです。これは、他人から強制的に反省の言葉を迫られるよりも、自らの行動において反省を示してしまっている点において、やはり人間のある種のプライドがその人を苦しめている状況だと思います。
 社会生活の中での些細な悪事の多くは、犯人が最後までわからないまま迷宮入りするのでしょうが、犯人自身の記憶には深く刻み込まれ、ふとした拍子に思い出すことがあるものと思います。これは、恐らく、世界中で1人だけ迷宮に入っていないことの快感と不快感によるものでしょう。凶悪事件を犯しながらも白を切り通し、罪を免れる行為も、人間心理という点で考えれば、この迷宮の広さの違いでしかないのかも知れません。

なぜ人は自ら犯していない罪を認めてしまうのか

2010-04-10 23:10:06 | 言語・論理・構造
 身に覚えのない凶悪事件の容疑をかけられ、罪を認めてしまい、受けるいわれのない罰を受けた経験など、世の中の99パーセント以上の人にはないでしょう。しかしながら、社会生活の中で様々な問題に巻き込まれ、濡れ衣を着せられ、最後まで真相がわからなかったという経験は、多くの人に日常的にあるものと思います。また、多くの人がこのような過去を持ちながら、そのこと自体を忘れて生活しているものと思います。私もそうです。
 身に覚えのない出来事で自分が疑われている状況は、「何を言ってもわかってくれない」という絶望の文脈で語られることが多いものと思います。また、虚偽の自白をしてしまう状況は、投げやりの心情と関連して語られることが多いようです。しかしながら、言葉が物質でない物事を実体化するという特質に照らしてみれば、「自分が罪を認めれば自分が罪を犯したことになる」という転倒状況において、人間の心理はさらに複雑な様相を呈しているように感じられます。

 身に覚えのない出来事で疑いの目を向けられた場合、疑われた側は、驚き、怒り、悔しさなどが入り混じった表現しにくい感情を持つものと思います。しかしながら、その一瞬の感情を丁寧に観察してみると、比較的強くかつ深い心の動きとして、優越感と憐憫の存在に気がつきます。優越感とは、「私は自分が犯人ではないと知っている」という感情です。また、憐憫とは「あなたは私が犯人ではないことを知らずに無意味な苦労をしている」という感情です。
 無意味な苦労から相手を救い出すためには、自分が犯人ではないことを教えてあげるのが手っ取り早い方法です。それにも関わらず、相手がなかなか無意味な苦労から抜け出せず、無駄な努力を重ねている様子を目の当たりにすれば、憐憫の情にも自ずと限度があるものと思います。さらに、この憐憫の情は、「私は自分が犯人ではないと知っている」という優越感に裏打ちされているため、大真面目な相手方の態度がバカバカしく感じられてくるはずです。これは、相手に屈服する単純な心情とは正反対であり、自主的かつひねくれた心情だと思います。

 罪を犯した者が素直に罪を認める行為は、当たり前であるがゆえに、人間社会において称賛される行いです。これに対して、罪を犯していない者が素直に罪を認めない行為は、当たり前であるがゆえに、人間社会において特に称賛される行いではありません。どちらも当たり前の行為ですが、この正反対の評価が、人間の自己否定の困難さに対する洞察を示しているように思われます。
 さらには、罪を犯していない者が記憶に反して罪を認める行為は、本人にとっては、非常に功名心が刺激される行いだと思います。罪を犯して素直に白状する者が評価されるならば、罪を犯していないのに白状する者はさらに評価されてしかるべきだからです。ところが、このような自己犠牲の精神は、人間社会においては当初の目的通りの評価を受けることはまずありません。記憶に反して嘘を語ったことは間違いのないところであり、真相究明を妨げたという現実は変えられないからです。従って、そこでは、自らが向けていた憐憫の情を向け返されることになるのが通常だと思います。

 社会生活の中での濡れ衣の多くは、濡れ衣を着せた側はすぐに忘れてしまっているのでしょうが、着せられた側の記憶には深く刻み込まれ、ふとした拍子に思い出すことがあるものと思います。これは、恐らく、世界中で1人だけ真実を知っていることの快感と不快感によるものでしょう。身に覚えのない凶悪事件の容疑をかけられて罪を認め、受けるいわれのない罰を受ける行為も、人間心理という点で考えれば、この濡れ衣の大きさの違いでしかないのかも知れません。
 裁判官や裁判員が冤罪を犯さないためには、被告人の心情について、「何を言ってもわかってくれない」という絶望の文脈のみで固めることは有害だと思います。また、供述の変遷の原因を捜査官にのみ求めることも有害だと思います。被告人が裁判員を冷笑し、法廷の座席とは逆に被告人が裁判員よりも一段高いところに立ってものを言っているならば、裁判員がこれを冤罪であると見抜くことは困難でしょう。

私の仕事の悩み

2010-04-08 23:54:19 | その他
 先物取引とFXで詐欺に遭い、わずか1ヶ月のうちに老後の資金500万円を騙し取られた75歳の女性が法律相談に来ました。彼女は、あふれんばかりの感情を一気に吐露し、「世の中でこんなに苦しい思いをしている人は他にいない」と泣きながら語っていました。
 私は、実際にその通りだと思いました。そのような心底からの言葉は嘘や演技で語れるものではないでしょう。私は、人間の金銭欲の渦に巻き込まれて財産も希望も失い、わずかばかりの人間の良心を求めている彼女に、真剣に向き合って話を聞きました。しかし、内心の奥底では、「たかがその程度のことが世の中で一番苦しいわけがない」と軽蔑する気持ちがありました。

 夫の不倫を知り、悔しくて夜も寝られないという35歳の女性が法律相談に来ました。彼女は、夫の不倫相手の女性の死を願う言葉を並べながら、「私は世界で一番不幸だ」と切々と訴えつつ、何で自分がこんな思いをしなければならないのか、相手の女性の人生をぶち壊すことが私の唯一の生きがいだと語っていました。
 私は、全く彼女の言う通りだと思いました。嫉妬であろうと何であろうと、負の感情は人間が生きることそのものに等しいことが全身でひしひしと感じられました。恨みから解放されて前向きに生きるなど、世間知らずの空論でしかないでしょう。しかし、私の内心の奥底では、「たかがその程度で世界一のわけがない」と軽蔑する気持ちが消せませんでした。

 事業をやっている親戚の連帯保証人になり、その事業の失敗によって5000万円の借金を背負い、長年住み慣れた自宅を手放さなければならなくなった55歳の女性が法律相談に来ました。彼女は、見るからに疲れた様子で両手で顔を覆い、「こんなに惨めな思いをしている人は他に見たことがない」と呟いていました。
 私は、心から同情しました。連帯保証人になって他人の借金を押し付けられた人は、目の前の生活の問題に加えて他人の心が信じられなくなり、債務者本人よりも複雑かつ多方向からの攻撃に晒されて打ちのめされることになります。しかし、私の内心のさらに奥底では、「そのくらいの苦しみなら世の中に普通に転がっている」と軽蔑する気持ちがありました。

 上記の3人にとって、それぞれの苦しみが人生を賭けた極限であり、一つ間違えれば発作的に死を選んでしまうような精神状態の中で、藁にもすがる思いで法律相談に訪れたことは疑いのないところでしょう。
 3人の女性は、最後はいずれも晴れ晴れとした顔になり、感謝の言葉を述べ、何度も頭を下げて帰っていきました。そのうちの1人は、前日に別の事務所に相談に行ったところ、全く親身になって話を聞いてくれなかったので、本当に救われたとのことです。これは恐らくお世辞や社交辞令ではないでしょう。
 カウンセラーが他人に感情移入しすぎると、心理学的な自己投影が生じてしまい、歯車が狂った時に身が持たなくなると聞いたことがあります。私の場合は、いつも心の奥底に軽蔑の念がありますので、そのような心配も全くなさそうです。悩ましい限りです。

小泉義之著 『レヴィナス―何のために生きるのか』

2010-04-05 23:42:38 | 読書感想文
p.16~

 生きながら生きることを拒む。生きることを拒みながら生きる。死ぬことを選ばないにしても、生きることを殊更に選ぶことなく、生きつづける。生きることは苦い重荷になる。この重荷は、どこからやって来るのか。レヴィナスは、「契約」からやって来るとする。私たちにはそんな契約を取り結んだ記憶はないが、おそらく記憶の始まり以前において、そんな契約を取り結んで、私たちはこの世界に生まれ落ちたのだ。
 倦怠・怠惰に陥った状態から振り返ってみるなら、その契約には、こんな言葉が書かれていたとしか思えない。〈お前にはやりたいこともやりがいのあることも与えられない。それでもお前は生きていかなければならない。お前には生きる意欲も生きがいも与えられない。人生の意味も人生の目的も与えられない。それでもお前は生きていかなければならない〉。


p.30~
 
 ほとんどの人生論は、人生の目的と人生の意味を自己実現や自己完成に求めている。今の自分とは違った自分、今の自分が肯定され直した自分、今の人生とは違った人生経路、今の人生経路が肯定され直した人生経路、それを探し求めるのが人生の目的と人生の意味であると結論している。それは間違えていない。というより、人間はいつでも、今の自分のために、別の自分のために、自己実現や自己完成のために生きてしまっている。これは単なる事実である。それでも、何のために、自分のために生きるのかと問いが立つことがある。
 倦怠・怠惰に陥った人間は、存在することを怖れている。生まれ落ちたときの契約に拘束されている。そこから脱出したいのだが、必ずしも自殺という道は選ばない。なぜか。おそらく、死を選んでしまうと、根源的な契約に違背することになると感じているからだ。加えて、あらかじめ注意しておきたいが、レヴィナスのいう「逃走の欲求」と「形而上学的欲望」は、死の希求ではないし、「死の練習」(プラトン)ではない。自殺に定位して死を考えたところで、生まれて老いて死んでゆく肉体の次元には決して届かないからである。


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 レヴィナスが述べるところの「契約」と、ホッブズ、ロック、ルソーによって述べられた「社会契約」との立ち位置の違いが、法律専門家と裁判の当事者との避けがたい行き違いを示しているように思われます。近代国家の法律や裁判制度は、すべて「社会契約」を具現化した憲法によって支配されており、レヴィナスの指摘する「契約」などには目もくれません。ゆえに、生きる意欲や人生の目的といった難題をぶつけられると、手に負えなくなるものと思います。

 社会契約論は、国家が成立する以前の社会の原始的な自然状態を仮定した上で、国家の正当性の契機を契約に求めるというフィクションです。そこでは、個人が自然的理性を発現させ、自然状態で有していた自然権を一部放棄して社会契約を締結したものとされます。ここから、民主政の根幹を支えるのは表現の自由であり、自己実現と自己統治の価値を有するという論理の流れになりますが、生きる意欲や人生の目的といった難題については手付かずのままだと思います。

秘書が勝手にやりました。私は全く知りません。

2010-04-03 00:21:40 | 言語・論理・構造
某中小企業の先輩秘書から後輩秘書への訓示

 社長の秘書ともなると、社長からは毎日指示があり、社会的地位の高い方々ともお会いします。秘書は、過酷な職務に追われている社長の指揮・命令のもと、その補助をしているのです。このような地位に置かれると、人間とは怖いもので、何だか自分がすべてを行っている気になりがちです。そして、普通では会えない地位の方から頭を下げられたりすると、社長に近い立場になった錯覚にも陥りがちです。このような勘違いをする秘書が多くて困ります。

 秘書の仕事に自由はありません。社長から仕事の指針を示されたら、それに向かって仕事を遂行しなければなりません。仕事をしているのは社長です。秘書ではありません。本来は社長がする仕事を、忙しいから自分の代わりにやってもらうため、雇用されたのが秘書なのです。ですから、すべては社長の意向に沿ったものでなければなりません。様々な偉い方が、秘書の前で深々と頭を下げられます。しかし、それは秘書にではなく社長に頭を下げているのです。

 会社は、社長の意向によって成り立ちます。ですから、全ての考え方が会社や社長のためなのは当たり前です。秘書のためではありません。社長が秘書を理解することはまずないと言っておきます。これを納得する気がない人は、秘書には向いていません。とにかく、会社や社長のためだけを考えて仕事をして下さい。そうすると不平不満が消えます。社長が自分を採用してくれた時のことをいつも思い出して、恩返しをして下さい。


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 これは、ある中小企業を退職した元秘書の女性が持参したものです(内容はかなり変えてあります)。会社で組織ぐるみの不正が発覚しましたが、社長は「秘書が勝手にやったことだ。私は何も知らない」と言い張りました。彼女は、「すべて私が勝手にやりました」との始末書を書いて提出し、社長に累が及ぶのを阻止し、さらに不祥事の責任を取って退職しました。彼女はその後うつ病になり、会社を訴えようと考えて相談に来ましたが、迷った挙句に断念しました。

 彼女は、この一連の気持ちがなかなか上手く言葉にならず、他人に伝わらないことを嘆いていました。不祥事を知っていたのであれば、何で止めるように社長に進言できなかったのかと責められます。他方、進言などできなかったと言えば、組織ぐるみの不正に加担した罪は免れないのではないかと責められます。さらに、秘書として社長の不始末を全部肩代わりしたのだと言えば、それならうつ病になる筋合いはないと責められます。「秘書がやりました。私は知りません」という言葉の威力を思い知らされました。

4月1日の新聞記事から

2010-04-01 23:58:40 | 国家・政治・刑罰
 4月1日の夕刊に、紙面を二分する大きな記事が載っていました。1つは、新年度の各社の入社式の記事です。世界的な金融危機の中で就職を決めた新社会人に、経営者から励ましの言葉が送られたという内容でした。「一人ひとりが意見をしっかりと持ち行動することが必要」「国民の信頼を取り戻していく事業展開に心を砕いていかなければならない」といった社長の訓示も紹介されていました。
 先が見えない不況の中で、何十社受けても就職が決まらないという現状においては、「やりがい・誇り」との関連で仕事を捉える余裕がなくなり、仕事があるだけでも恵まれているという論調が目立ちます。そこには、人間の精神面の価値が下がり、食べていくためには他人の心の痛みや自分の良心の呵責に対する鈍感さを身に着けなければこの社会を生き抜けない現実が示されているようにも思われます。

 新入社員が希望にあふれる純粋な言葉を語ることができるのは、恐らく入社式から数日間だけでしょう。現に年間3万人以上の自殺が10年も続いている我が国の現状では、各社の入社式に参加していた人のうち、間違いなく数年間のうちに少なからぬ人が命を落とすと考えるのが自然です。会社とは理不尽な場所であり、特に近年は地獄のような現場の話も耳にします。
 仕事に「やりがい・誇り」を感じて会社に尽くし、連日深夜までサービス残業をし、休日出勤もこなした結果、過労で体調を崩し、「社会人としての健康管理がなっていない」と怒られた。さらに無理を押して長時間労働をした結果、睡眠不足で集中力を欠いて1つのミスをし、「使えない社員はいらない」と叱られて給料を下げられた。それでも会社のために頑張り、ついに限界に達して病気休暇の申請をしたところ、「仕事をなめているとしか思えない」と怒鳴りつけられ、書類を顔面に投げつけられた。
 これは、私が以前担当していた過労自殺の裁判です。この裁判は、上司・同僚の言動と自殺との因果関係がないとして、原告の遺族は敗訴となりました。

 4月1日の夕刊のもう1つの記事は、警察庁が足利事件に関する栃木県警の捜査の問題点を検証し、報告書にまとめたというものです。問題点としては、DNA型鑑定結果の過大評価、容疑者への迎合の可能性の留意が欠けたこと、自白の裏付けが不徹底であったことなどが挙げられていました。
 ここには、上記の問題点の大前提となっている要素が除かれているように思います。それは言うまでもなく、「絶対に犯人を逮捕しなければならない」「犯人の逃げ得を許しては被害者が浮かばれない」という人間の強い信念と、それに基づく警察官の仕事に対する情熱です。そして、この要素を「問題点」として捉えるか否かによって、事態は正反対の様相を呈してくるようです。
 この要素を問題点として捉えないのであれば、捜査のミスによって真犯人の逮捕が不可能になり、事件の解決ができなくなったこと最大の問題となるように思います。これに対して、上記の要素を問題点として捉えるならば、真犯人が逮捕されようとされまいと、無実の者に有罪判決が下されたことが最大の問題となるように思います。

 法律学においては、「犯人を絶対に逮捕しなければならない」という警察官の強い信念については、公権力の危険性との関連において、消極的な評価を与えられているのが通常です。この評価の延長線上には、「殺された被害者の無念」や「被害者遺族の悲しみ」があります。そこでは、冤罪事件を生む温床として、何よりも犯人を絶対に逮捕しなければならないという信念、さらには被害者に対する同情が負の要因として上げられてきます。
 足利事件においても、この視点からの反省・再発防止策を検討してみれば、別人を誤認逮捕してしまうような捜査はすべてが無駄で、何もやらないほうが良かったという結論に至るものと思われます。書類の山と格闘した人も無駄、働きすぎで心身の健康を害した人も無駄、外食ばかりで命を縮めた人も無駄、家族サービスを顧みずに家庭不和となった人も無駄、部下を怒った上司も無駄、上司に怒られた部下も無駄です。
 栃木県警が菅家利和さんに謝罪できなかったのも、人は自らの仕事に「やりがい・誇り」を持つことによって人間の価値を保っており、これを他人から「反省・再発防止策」として位置づけられてしまえば、精神的に生きて行かれないという点と関連しているように思われました。