犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある児童虐待事件の裁判員裁判の光景

2010-04-18 23:57:46 | 実存・心理・宗教
 検察官は、被告人の供述調書を淡々と朗読していた。彼女は、児童虐待事件の裁判員にだけはなりたくないと思っていた。母親が3歳の息子を虐待して死なせた事件など、人の罪を裁くことの重さ以前に、とても人間として直視できるものではない。しかし、検察官の声に合わせて供述調書を目で追ううちに、彼女は目を覆いたくなりながらも、1つ1つの文字に目が釘付けになっていた。
 「夫が○○(息子の名)の髪の毛を後ろから掴んで振り回し、頭を浴槽にぶつけると、ゴーンという鈍い音がしたのです。私はそれを後から見て、無理に笑い声を上げていました。○○は大声で泣き叫んで仰向けになったので、夫が左手で口をふさぎ、右手で顔を何発か拳で殴りつけました。すると、○○が暴れたので、夫はもう一度○○の頭を浴槽にぶつけたのです。○○は頭から勢いよくぶつかり、床に倒れ込みました・・・」
 彼女は、夢中で供述調書の文字を追いながらも、何の感情も沸かなかった。わからない。理解できないのではなく、全くわからない。3歳の男の子は、最愛の両親に殴られ、浴槽に頭をぶつけられ、どんなに痛かったことか、悲しかったことかと想像したい。しかし、両親に愛されて育った自分には、その痛みが実感と理解できない。目は必死に文字を追いながら、心は茫然としている。

 彼女は、何かにせき立てられるようにメモ用紙を取り出し、供述調書の文字を書き写し始めた。ただただ必死に書き写した。何にせき立てられているのか、彼女自身にもわからない。許されるのであれば、そのページを抜き取って持って帰り、コピーしたかった。それが許されないのであれば、その時の彼女にできたことは、被告人である母親の言葉を一言一句メモすることだけである。
 彼女は、被告人の罪を裁くということの重さを全く感じなかった。裁判員の人選によって懲役の長さが2~3年変わろうとも、それほど大した問題とは思えなかった。3歳の男の子の命が失われた事実を前にして、母親の懲役の長さの問題で盛り上がれるなど、正気の沙汰とは思えない。いや、人間は正気を失っているからこそ、傷害致死罪という法律用語の枠内に逃げ込み、過去の判例から量刑を検索し、人の罪を裁くことに熱中できるのかも知れないとも思う。
 この法廷にいる人々は、誰一人として3歳で殺されてはおらず、無事に育てられてこの場にいる。だから、3歳で殺された男の子には絶対に敵わない。男の子が可哀想だ、その絶望はいかばかりか。3歳で殺されなかった大人が何を言ったところで、すべての言葉は表面を滑る。ただ、供述調書の文字だけが現実のものとして彼女に刺さる。

 彼女は家に帰ると、すぐにメモを取り出し、パソコンで本物の供述調書のように復元してみた。すると、その行間には、血が凍るような取調室の空間が再び現れた。この供述調書の行間には、心の闇も何もない。ここに過剰な意味づけをすることによって、人間は何事かを錯覚する。
 「床に倒れた○○は、浴槽の縁に捕まり、渾身の力で立ち上がり、ギャーと叫びなら私の顔を睨みつけてきたのです。そして、前のめりに倒れると、そのまま動かなくなりました。夫が○○の顔を何回か平手で叩きましたが、○○は動きませんでした。私は、大変なことをしてしまったと思い、夫に救急車を呼ぼうと言いましたが、夫はしばらく待てと言いました・・・」
 彼女の中には、この供述調書の行間から母性愛を読み取りたいという気持ちが避け難く存在していた。そうでなければ、この狂気には救いがなかったからである。しかし、彼女はすぐにその試みを放棄した。現に、自分の命よりも大切な我が子を失い、狂気と正気の間で生きている母親の母性愛を想像すると、この被告人の人間性はあまりに安っぽかったからである。ところが、そう切り捨ててしまうと、今度は3歳で命を落とした男の子の存在に押し潰されそうになる。

 この世の最大の悲しみは、最愛の我が子の死である。子供を持つ全ての親は、今日明日にも、事故や災害、急病や犯罪によって、この悲しみに直面する可能性の中で毎日生きている。ただ、ほとんどの人は、その現実に気がつかない。気がついた時には、解決しようのない苦しみを一生抱えて、正気の狂気の混濁した場所で強制的に生かされているしかない。
 このような人間存在の現実に比べると、この被告人は、何たる妙な地位で生きているのかと思う。誰がどう死の原因を作ろうとも、逆縁は逆縁に変わりがない。ところが、この母親が法廷で述べていたのは、子育てが大変だったとか、周囲の協力がなくて孤立したとか、ストレスが溜まって歯止めが効かなくなったとか、自己保身ばかりである。他の裁判員は、熱心に聞き入って一定の同情を寄せている様子であったが、彼女は全く心を動かされなかった。被告人は自己を正当化し、自分を責めることもない。何という恵まれた、幸福な逆縁であろうか。
 この母親は、息子の死を知らされても、死にたいという感情すら持たなかった。それは、その現実が最愛の我が子の死ではなく、自分自身の罪の問題に他ならないからである。母親は我が子を殺すとは、一般的には狂気の沙汰である。しかし、我が子を喪った哀しみがこの世の狂気の限界であるならば、その状況において自らが狂気を認識してない狂気など、果たして狂気の名に値するものか。
 
 彼女は、虐待中の被告人の苦しみを切々と訴える弁護人と、それに応じて意味不明の涙を流す被告人と、それを量刑判断の争点として評議する他の裁判員によって、3歳の男の子の母親がこの世から存在しなくなることが我慢ならなかった。この世の誰かが、あの供述調書の行間を伝えなければならない。自分は、このことを広く社会に知らしめる使命がある。
 判決の前日、彼女は復元した被告人の供述調書を数十部印刷して郵便で送る準備をし、さらにホームページを開設して、供述調書の内容を公開する準備を整えた。もちろん、裁判員の秘密漏洩に対して6ヶ月以下の懲役刑が科されることは、事前に説明を受けていた。しかし、3歳で失われた命を前にして、守秘義務に何の意味があるというのか。幸福な逆縁がもたらす狂気の正気を裁判所の狭い空間に閉じ込めたまま児童虐待の防止を論じるなど、何たる偽善だろう。
 判決は懲役10年となった。彼女は家に戻ると、早速計画を実行に移そうとした。しかし、最後のところで勇気が出ない。別に守秘義務を果たそうという意志が生じてきたわけではない。刑罰が怖いわけでもない。一言で言えば、臆病である。守秘義務と裁判員の倫理が問題とされることによって、虐待事件そのものが忘れ去られ、3歳の男の子の命が踏みつけられるのが怖い。彼女は数日考えた後、すべての書類を処分した。こうして、司法制度改革の根幹を揺るがす大事件は未然に防がれた。


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フィクションです。